テオの手は、黒い蝋燭に触れる寸前で止まる。
冷たい骨のような表面が、指先のすぐ先にある。カン・ムンシク。その名を刻めば、ジンミョン人材の書類も、祖母の住所を押さえた手も、犯人を作れと命じた声も、まとめて燃え上がる気がする。
だが胸の奥で、ボクスンの頼りない声がまだ揺れている。
『学生さん、薬の時間かい?』
テオは歯を食いしばり、指を引く。代わりに、まだ名の刻まれていない黒い蝋燭を一本だけ棚から掴み取った。一歩離れた瞬間、鏡の中の影がつまらなそうに笑う。
「怖くなったか」
「ばあちゃんを見てからだ」
短く返すと、テオは鞄をつかむ。折った蝋燭の粉、灰、帳簿の濡れた匂いが足元へまとわりつく。鏡の奥から、濡れた紙をめくる音が一度だけ響く。
「手を離したわけじゃないんだな」
影の声が背中に刺さる。
テオは答えない。答えれば、それを認めることになる。だが鞄の奥へ、棚から一本だけ抜いた黒い蝋燭を押し込んでいる自分の手は、もう答えを出している。
月影堂を出ると、地下商店街の蛍光灯は夜明け前の色をしていた。錆びたシャッターの列を抜け、半分塞がれた階段をよじ登る。外の空気は冷たく、仁川駅裏の路地には新聞配達のバイクの音が低く流れている。
テオは走る。
肩の裂けた傷が遅れて熱を持つ。足裏に古い水たまりの冷たさがしみる。だが痛みより、頭の中に何度も浮かぶヴィラの郵便受けの映像の方が鋭い。ジンミョン人材のロゴ。祖母の名。誰かの手。
丘の上のヴィラへ着いたとき、空は薄く白んでいた。三階まで駆け上がる間、階段の手すりに触れた手が滑る。鍵穴へ鍵を差し込む指が一度失敗し、金属音が廊下に小さく跳ねた。
「ばあちゃん」
戸を開ける。
部屋は暗い。冷蔵庫の低い音と、古い時計の針の音だけがある。床に薬袋は散らばっていない。台所の小鍋も倒れていない。布団の中で、ボクスンが小さく丸まって眠っている。
テオはその場で膝から力が抜けかける。すぐ玄関を閉め、チェーンをかけ、窓の鍵を確認する。古い窓枠は少し歪んでいるが、内側からは閉まっている。郵便受けには、何もない。
まだ、何もない。
それだけで息が震えた。
テオは布団のそばに座る。ボクスンの白い髪は寝癖でふわりと乱れ、片方の袖が肘までずれている。乾いた手が布団の外へ出て、冷たくなっていた。テオはその手を両手で包む。
「寒くない?」
返事はない。眠っている。
テオは壁にもたれる。まぶたが重い。昨夜から一度も眠っていない。学校での暴露、ソンジン下請けの怒号、月影堂の鏡、ジヒョクの殺意。全部が一つの黒い束になって、胸の中へ沈んでいる。
恐ろしいのは呪いだと思っていた。
名前を刻めば、人が壊れる。携帯が勝手に鳴り、隠した記録が吐き出され、紙幣が血の借用書に変わる。常識の外にあるその力が、自分の手の中へ落ちてきたことが恐ろしいのだと、そう思っていた。
違う。
本当に怖いのは、ムンシクが追い詰められる光景を見て、胸の奥が甘く膨らんだことだ。ジヒョクが壁紙を爪で裂きながら震える姿を見て、ざまあみろと思ったことだ。次の名前を刻めばもっと大きな音で崩れると、ほんの一瞬でも期待したことだ。
呪いは外から来た怪物ではない。
自分の中にあったものへ、火をつけただけだ。
「……テオ」
かすれた声に、テオは顔を上げる。
ボクスンの目が薄く開いていた。焦点は合っていない。それでも、彼女の指がテオの手を探るように動き、ぎゅっと握る。
「ここにいる」
テオは身を寄せる。
ボクスンはしばらく天井を見て、それから子どもに聞くような声でつぶやく。
「怖くないのかい」
テオの喉が詰まる。
何が、とは聞けない。彼女が何を見ているのか分からない。夢の続きか、昔の記憶か、それともテオの手に残った月影堂の冷たさを感じ取ったのか。
「怖いよ」
声は自分でも驚くほど小さい。
「でも、離したら……もっと怖い」
ボクスンはその答えを理解した顔ではなかった。握っていた手の力が少し緩み、目がまた曇る。
「学生さん、薬は……棚の……」
そこで言葉はほどける。彼女は眠気に飲まれ、テオの手を握ったまま、また静かに寝息を立て始めた。
名前を呼んだことも、問いかけたことも、もう忘れた顔だった。
テオはしばらく動けない。握られた手を見下ろす。痩せた指。薄い皮膚。薬と粥と家賃だけで守れると思っていた生活。その外側で、ジンミョン人材の書類が祖母の名へ伸びている。
朝日が窓の隙間から入るころ、携帯が震えた。
夜間クラスのグループチャットは、見たことのない速度で流れている。校門前に記者が来ている。ジンミョン人材の名前がニュースに出た。学校に教育庁から電話が入った。カン・ジヒョクの動画、誰が外へ出した。ミンギュの親が怒鳴り込んでいる。ドンスはまた病院だ。
テオは画面を閉じる。眠っているボクスンの手を布団の中へ戻し、薬の時間を書いた紙を冷蔵庫へ貼り直す。行きたくはない。だが学校を避ければ、彼らは勝手に筋書きを作る。ユン・テオが逃げた、と。
鞄を肩にかけたとき、奥に隠した黒い蝋燭が硬く当たる。テオは一瞬だけ立ち止まり、その感触を確かめる。
手綱。
そう思った。
これは刃ではない。少なくとも、そう思い込まなければならない。手綱だ。放せば、自分の中の黒い火が勝手に走る。握っていれば、どこへ向けるかだけは選べる。
テオはヴィラの鍵を二度確認してから外へ出る。
ハンビット工業高校の校門前は、昼の学校とは思えない騒ぎになっていた。取材車両が歩道をふさぎ、カメラを担いだ男たちが守衛と言い争っている。校名が映らないように布をかけようとする教師。電話を耳へ押し当てた事務職員。門の内側で生徒たちが携帯を掲げ、ざわめきが波のように広がる。
「未成年実習生の派遣について、学校側は把握していたんですか!」
「ジンミョン人材との契約書は本物ですか!」
「校内暴力の動画に映っている生徒は在籍中ですか!」
質問が次々に飛ぶ。テオは人垣の端を抜けようとする。だが誰かが彼の顔に気づき、カメラのレンズがひとつ、こちらへ向いた。
「君、夜間クラスの生徒?」
テオは答えない。フードを深くかぶり直し、門の脇へ回る。
「ユン!」
鋭い声がした。
オ・ミョンシクが職員玄関の前に立っている。灰色のジャケットはよれ、ネクタイはいつもよりさらに緩んでいる。目の下には濃い疲れがあり、手には何度も折り曲げた出席簿が握られていた。
テオが近づくと、ミョンシクは周囲を気にして声を落とす。
「今日は帰れ」
「授業は」
「授業どころじゃない。記者が来ている。教育庁も来る。お前が校内にいれば、余計なことを聞かれる」
テオは黙って見返す。
ミョンシクはその沈黙を反抗と受け取ったのか、唇を薄くする。
「しばらく欠席扱いにしない。だから学校へ来るな。落ち着くまで家にいろ。分かったな」
欠席扱いにしない。
それは配慮の形をした隔離だった。今まで彼の訴えを聞かなかった教師が、今度は彼を見えない場所へ押し込もうとしている。学校の数字を守るために。
「俺がいない方が、都合いいんですか」
テオの声は低い。
ミョンシクの眉が動く。
「そういう話じゃない。お前を守るためでもある」
「前も、そう言いましたね」
一瞬、ミョンシクは言葉を失う。校門前で記者がまた叫び、誰かがフラッシュを焚く。白い光が教師の顔を薄く照らした。
テオは返事の代わりに、鞄の中へ手を入れる。教科書の角、破れた作業手袋、その奥。黒い蝋燭の硬い感触が指に触れる。
冷たい。
だが、握ると少しだけ呼吸が整う。
手放さない。
テオは胸の奥でそう決める。呪いに酔って走るためではない。祖母の名を紙の上で好きに扱わせないために。証拠を作らず、罪のない名前を巻き込まず、それでも奪った者の手だけは離させるために。
この手綱だけは、絶対に手放さない。
そのとき、人混みの向こうでざわめきの質が変わる。
「おい、あれ……」
「カン・ジヒョクじゃないか?」
テオは振り向く。
カン・ジヒョクが、記者と生徒の隙間を押しのけて歩いてくる。髪は乱れ、制服の襟は片方だけ立っている。唇の赤い傷は乾き、目の下は黒く落ちくぼんでいた。右手には、ひび割れた携帯電話の残骸を握っている。破片をテープで無理やり巻きつけたようなそれは、まだ死んでいない虫の殻に見えた。
教師の一人が止めようとするが、ジヒョクは聞かない。カメラの前を避けるように肩をすぼめ、それでも真っ直ぐテオの前まで来る。
二人の間だけ、騒音が少し遠のいた。
ジヒョクの目には、憎しみだけではない。恐怖がある。自分の家が崩れ、父に切り捨てられるかもしれない恐怖。割れた携帯がまだ自分を裏切り続ける恐怖。そして、そのすべての中心にテオがいると信じている目だった。
「お前だろ」
ジヒョクは掠れた声で言う。
テオは答えない。
ジヒョクは一歩近づき、割れた携帯を胸元へ押しつけるように握る。テープの隙間から黒い液晶がのぞき、その奥で白い文字がにじんだ気がした。
「俺の家、めちゃくちゃだ。親父も、会社も、全部だ。満足かよ」
テオは鞄の中の蝋燭から手を離さない。
ジヒョクの唇が震える。次に浮かんだ笑みは、以前の軽い嘲りではなかった。壊れかけたものが、自分の破片で相手を切ろうとする笑みだった。
彼はテオの耳元へ顔を寄せる。
「今度は、お前の家族の番だ」
その囁きが届いた瞬間、鞄の奥の黒い蝋燭が、火もないのに指の下でかすかに熱を持った。
黒い蝋燭にいじめっ子の名前を刻んだ夜、俺は裏社会の鏡王になった
21話 鉄扉の向こうの血の手
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