窓の向こうの手が止まったまま、鏡の表面だけが細かく震えている。外側から近づいた影は、鉄扉の前で一度立ち止まり、懐中電灯らしき光を曇ったガラスへ押しつける。血の筋の向こうで、助けを求めていた男の顔が闇に沈む。
テオは息を止める。鏡に手を伸ばせば、指先が水に触れるように冷える。映像の端に、工場の看板、門番室、搬入口へ続く細い道が順に浮かぶ。さらに黒い水面が割れ、古い道路標識と地図アプリのような線が重なる。
富平郊外、東洋金属第二搬入口。
テオは携帯を取り出し、震える指でその表示を撮る。影が鏡の奥で笑う気配がした。
「今度は、見るだけか」
「黙ってろ」
短く返しても、喉は乾いている。黒い蝋燭に名前を刻めば早い。だが帳簿に並んだ労働者の名前がまだ目に焼きついている。賃金より罰金が赤く積まれた頁。十七歳、十八歳、保証人なし。そこへ呪いを流せば、助けを求めた手まで焼くかもしれない。
テオは棚から一本だけ黒い蝋燭を抜き、古い新聞で包む。火をつけるためではない。自分がどこまで踏み込んだのか忘れないためだ。月影堂を出るとき、鏡の中の影は追ってこない。ただ濡れた紙をめくる音だけが、背中に貼りついた。
夜の富平へ向かうバスはまばらだった。テオは後部座席で携帯の画面を握り、東洋金属の住所を何度も確認する。学校へ落とした鞄のこと、ヴィラに一人残したボクスンのこと、ジヒョクの壊れた笑みが頭をよぎる。戻るべきだという考えはある。だが戻ったところで、次の封筒が届くだけだ。
工場地帯に着くころ、空は黒い油を薄く塗ったように重い。東洋金属の正門には警備室があり、ライトの下で男が煙草を吸っている。正面から入れるはずがない。テオは塀沿いに歩き、鏡が示した第二搬入口を探す。
鉄板の門の脇で、夜間配送の小型トラックが一台、エンジンをかけたまま止まっていた。運転手が納品書を持って警備室へ向かう。荷台のシートは半分だけ開き、中には油で黒ずんだ部品箱と廃材の袋が積まれている。
テオは一瞬だけ迷い、低く身を沈めて荷台へ滑り込む。段ボールの隙間に体をねじ込み、シートの端を内側から戻す。すぐに足音が近づき、荷台の金具が鳴る。
「第二棟へ回せ。朝までに空にしろ」
男の声が外で響く。トラックが揺れ、工場の敷地内へ動き出す。テオは部品箱に肩を押しつけ、息を浅くする。油、錆、古い汗の匂いが喉に絡む。舗装の荒い道を進むたび、黒い蝋燭を包んだ新聞が胸元で硬く当たった。
数分後、トラックが止まる。フォークリフトの警告音が遠くで鳴る。運転手が誰かと話し始めた隙に、テオは荷台の反対側から降り、積まれた鉄屑の山へ身を隠す。足元には金属粉が湿った泥のように溜まり、靴底が滑る。
鏡で見たコンテナ寮は、敷地の一番奥にあった。工場棟の背後、照明の届きにくい場所に、古い海上コンテナが三つ並んでいる。窓には鉄格子。扉には外側から南京錠。洗濯物が低いロープにかかっているのに、人の気配は押し殺されている。
テオは資材の陰から陰へ移る。巡回の足音が遠ざかるのを待ち、最も奥のコンテナへ近づく。曇った小窓には、乾きかけた血の筋が残っていた。さっき鏡に映った手の跡だ。
「……誰か」
低く呼ぶと、中で微かな物音がする。返事はない。テオは窓枠の隙間に指をかけるが、開かない。錆びた鉄格子の向こうで、誰かが息を呑む音だけがした。
「助けに来た。大きな声を出さないで」
しばらく沈黙が続いたあと、細い声が返る。
「ほんとう、か」
韓国語はたどたどしい。暗闇の中から、痩せた男が這うように近づいてくる。額に汗が張りつき、唇が切れている。先ほど窓を叩いた手には布が巻かれ、赤黒く染まっていた。
「名前は」
「ラヒム。ネパール」
ラヒムは窓の下から室内を指す。テオは裏へ回り、壊れかけた換気口を見つける。格子の一本が曲がっており、人ひとりが通るには狭いが、腕なら入る。内側からラヒムが錆びた金具を押し、テオが外から引く。金属が小さく軋み、かろうじて体をねじ込める隙間が開く。
テオは肩を擦りながら中へ潜り込む。コンテナの中は、外よりも濃い油と湿気の匂いで満ちている。薄いマットが床に並び、毛布はどれも黒ずんでいる。壁際には水の入ったペットボトルと、割れたプラスチックの食器が置かれていた。
中にいるのは六人。ラヒムのほかに、作業着姿の男が二人、顔を伏せた女性が一人、そして隅には制服のズボンをはいた少年が二人、膝を抱えて固まっている。二人ともテオより幼く見えた。目だけが暗闇の中で白く光り、呼吸すら怖がっている。
「ジンミョン人材から来たのか」
テオが訊くと、ラヒムは何度もうなずく。
「来た。仕事ある、給料ある、言った。でも給料、ない。ここ、罰金だけ」
ラヒムは床下から薄い帳簿の写しを引き出す。油で汚れた紙には、名前と日付が並び、その横に赤い数字が積まれていた。遅刻罰金、工具破損、寝具代、食費、寮費、更新手数料。賃金欄は小さく、最後には必ず差引不足と書かれている。
「働いても、借金増える。逃げると、もっと増える」
ラヒムの声が震える。
「逃げた人、いた。三人。捕まった。ここ戻らない。管理者、言った。白蛇金庫(ペクサクムゴ)へ渡す。借り、体で払う、って」
白蛇金庫。
初めて聞く名なのに、テオの背筋が冷える。白い蛇のようなものが、帳簿の下の印として一瞬見えた気がした。ジンミョン人材の外側に、さらに奥がある。
顔を伏せていた女性が、テオの袖を軽く引く。年齢は二十代半ばほど。頬がこけ、黒い髪を後ろで雑に結んでいる。彼女は言葉を探すように唇を動かしたが、うまく出ない。代わりに、自分の胸を指し、かすれた声で言う。
「ナルギザ。ウズベキスタン」
それから両手で四角いカードの形を作り、自分のポケットを裏返す。何もない。さらに扉の外、事務所の方を指し、拳で奪う仕草をする。
「登録証、取られたのか」
ナルギザは激しくうなずく。ラヒムが補う。
「住民登録証、パスポート、ぜんぶ事務所。警察行く、言うと、不法滞在にする、言う」
隅の少年二人は何も言わない。ひとりは作業帽を胸に抱き、もうひとりは袖で口元を押さえている。眠っているのではない。恐怖で、動けないのだ。テオは自分の夜間教室を思い出す。誰も見ない場所で、声を出せなくなる感覚。教師も会社も書類も、全部が同じ方向を向いていた。
胸の奥で黒い熱が上がる。だがその熱に任せてはいけない。
「帳簿、見せて」
ラヒムは迷ったが、すぐ紙束を渡す。テオは携帯で一枚ずつ撮る。罰金帳簿。労働時間表。ジンミョン人材のロゴが入った控除明細。下部には、小さく白蛇の印が押されていた。蛇が輪を作り、その中に金庫の文字がある。
次にテオは扉へ近づく。南京錠は外側だが、隙間から金具が見える。錆びているのに、鍵だけは新しい。彼は小窓の血の跡と、鉄扉の施錠部分を続けて撮る。証拠がなければ、また誰かが校内トラブルや民事だと言う。紙の上で消される前に、形を残さなければならない。
その瞬間、外の砂利が鳴った。
全員の息が止まる。テオは携帯の画面を伏せ、身を低くする。窓の外を、懐中電灯の光がゆっくりとなぞった。鉄格子の影が床に白く落ち、ラヒムの裸足の指先をかすめる。
「おい、中で音したか」
外の男の声が近い。別の声が笑う。
「どうせ寝言だ。明日移すやつらだろ。騒ぐ元気もない」
テオは壁へ背中を押しつける。心臓の音が大きすぎる。携帯を握る指に汗がにじむ。ここで見つかれば、未成年の自分が不法侵入者になるだけでは済まない。この中の人間が、助けを求めたせいだと罰を受ける。
光は一度、血のついた窓で止まった。だが男は中をよく見ず、舌打ちして歩き去る。足音が遠ざかるまで、誰も動かない。
ようやく暗闇が戻ったとき、テオの袖をラヒムが強くつかむ。折れそうな指に、必死の力がこもっていた。
「今夜、三人、行く」
「どこへ」
ラヒムは唇を震わせ、隅の少年二人とナルギザを順に見る。
「別の倉庫。売る。ここより遠い。帰らない。管理者、さっき言った。夜明け前の車」
ナルギザの顔から血の気が引く。少年の一人が小さく首を振るが、声は出ない。
その時、外でエンジンが一つ、低くかかった。鉄の鎖を引きずる音が、コンテナの壁越しに近づいてくる。ラヒムの目には、今日が最後かもしれないという恐怖が、深い水のように沈んでいた。
黒い蝋燭にいじめっ子の名前を刻んだ夜、俺は裏社会の鏡王になった
23話 救うべき名前と裏切り
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