その声は、翌朝になっても消えない。
逃げ道を探せ。
夜明け前の物流倉庫で牛乳ケースを積み替えている間も、冷たい水で顔を洗っても、古いヴィラへ戻ってボクスンの薬袋を確認しても、胸の奥で低く響き続ける。昨日の見積書は鞄の底に入っている。折らずに入れたはずなのに、紙の角が教科書の間から突き出し、何度もテオの指に触れる。
逃げるには金がいる。祖母の薬もいる。身分証も、住む場所もいる。だがどれもない。
それでも、何もしなければ終わる。
夕方、ハンビット工業高校の校門をくぐったテオは、教室へ向かわず職員室の前で足を止める。廊下の蛍光灯は昼間より白く、壁に貼られた就職率向上のポスターだけが妙に新しい。来月の教育庁評価へ向けた標語が赤い文字で並んでいる。
現場実習継続率、就職内定率、無断欠席ゼロ。
その紙の下で、テオは自分の手を見る。指先が震えている。昨日、ジヒョクの腕へ伸ばした手だ。CNCの非常停止を押した手だ。何度も何度も、握って開く。
職員室の中では教師たちの声とコピー機の音が混ざっていた。オ・ミョンシクは奥の机で出席簿に何かを書き込んでいる。くたびれた灰色のジャケット、緩んだネクタイ。いつも通り、生徒の顔より書類の方を長く見ている。
「先生」
テオの声は思ったより小さい。
オ・ミョンシクはペンを止め、面倒そうに顔を上げる。
「ユンか。授業前に何だ」
「話があります」
「欠席の相談なら先に言っておく。これ以上増えたら推薦に響くぞ」
「違います」
テオは鞄から見積書を出す。白い紙が指に張りつく。汗のせいだ。机の端に置くと、オ・ミョンシクの眉がわずかに動いた。
「昨日の実習室のことです」
「ああ、それか。チャン先生から聞いている」
「俺じゃありません」
言った瞬間、職員室の空気が少しだけ冷える。近くの教師がこちらを見て、すぐに目を戻す。誰も聞いていないふりをするのが上手い。
テオは息を吸う。ここで黙れば、もう言える場所はない。
「カン・ジヒョクたちが先に機械のそばにいました。パク・ドンスが側面を隠して、イ・ミンギュが工具箱を閉めて、ジヒョクが制御盤の下に手を入れていました。俺の予備手袋も、その前になくなっていました」
「落ち着け」
「落ち着いてます」
そう言いながら、手は震えている。テオは机の縁をつかむ。
「それだけじゃありません。ジヒョクは前から金を取っています。給料が入った通知を見られて、封筒を持ってこいと脅されました。祖母の薬のことも知っています。出勤表を破ろうとして、仕事先に電話すると言いました。教室で写真も取られました。祖母の写真です。破るって」
言葉を吐き出すたび、喉が擦れる。階段の壁、封筒、油の指紋がついた写真、機械から引きずり出された手袋。頭の中に残っていた場面が、一つずつ汚れた水のようにあふれる。
オ・ミョンシクは最初、黙っていた。だが、テオがさらに携帯電話の録画の話を出そうとしたところで、低く遮る。
「ユン」
「動画もあるはずです。階段で撮って——」
「もういい」
声は大きくない。だから余計に重い。
テオは口を開けたまま止まる。オ・ミョンシクは見積書を手に取り、合計額ではなく下の保護者確認欄を見る。それから、机の横に貼られた来月の行事表へ視線を流した。
「お前、今がどういう時期か分かっているか」
「……何の話ですか」
「来月、教育庁の就職率評価がある。夜間部の現場実習継続率も見る。学校全体が今、数字を落とせない」
テオの指が机の縁に食い込む。
「俺が恐喝されてた話です」
「証拠は」
「見ていた生徒がいます」
「その生徒たちは証言すると言ったのか」
テオは答えられない。昨日の実習室で目を伏せた顔が浮かぶ。誰も自分を見ることさえしなかった。
オ・ミョンシクは小さく息を吐く。
「ユン。お前の事情が大変なのは分かる。だが今これを正式な問題にすれば、校内暴力、実習事故、設備破損が全部記録に残る。相手の生徒だけじゃない。お前の名前も一緒に残る」
「俺は被害者です」
「社会はそう単純に書いてくれない」
その言葉は、教師の口から出るにはあまりに乾いている。
「現場実習の席は限られている。問題を起こした生徒を受け入れる会社はない。推薦書も出しづらくなる。お前、早朝の仕事だけで祖母を支えられるのか」
胸の奥がひゅっと狭くなる。ボクスンの薬袋、古い床板、家賃の未払い。逃げ道を探せという声が、別の意味を持って鋭くなる。
「じゃあ、黙れってことですか」
オ・ミョンシクはすぐには答えない。机の電話機の横に置かれた印鑑を指先で直す。
「大人の言い方をすれば、穏便に処理するということだ」
「穏便に、俺が払うんですか」
「修理費については実習先と相談する。反省文と保護者確認書を出せば、推薦までは守れるかもしれない」
テオは笑いそうになる。だが喉から出たのは、かすれた息だけだった。
守ってくれるはずの職員室は、教室より静かで、実習室より明るい。だがここでも見られるのは、テオの傷ではなく、学校の数字と書類の空欄だけだった。
「先生」
テオは最後に言う。
「本当に、俺の話を聞く気がありますか」
オ・ミョンシクの目が少しだけ冷える。
「ユン・テオ。今の言葉は記録に残さないでおく」
それが答えだった。
職員室を出た瞬間、廊下の角から笑いが漏れた。
ジヒョクが壁にもたれている。茶色の髪を乱暴にかき上げ、片方の口角だけを上げていた。ドンスとミンギュはいない。だが携帯電話は手の中にある。録音していたのか、ただ待っていたのかは分からない。
「先生に告げ口か」
テオは足を止める。
「どけ」
「おいおい、強く出るなよ。せっかく先生が守ってくれたのに」
ジヒョクは近づいてくる。教師たちの声がまだ職員室から漏れている距離なのに、彼は怖がらない。むしろ、その距離を計算している。
「退学になりたいなら続けろよ。恐喝された、工作された、全部言えばいい。で、お前の実習は消える。倉庫にも電話が行く。ばあさんの薬はどうする?」
テオは黙っている。ジヒョクの声は柔らかい。だが中身は針のように細い。
「先生、ちゃんと言ってたろ。穏便に、って」
「お前がやった」
「証拠は?」
同じ言葉だった。教師と加害者が、まったく同じ場所を突いてくる。
ジヒョクはテオの鞄から見積書を抜き取り、軽く振る。
「修理費、やばいよな。だけどさ、俺、優しいから逃げ道を教えてやる」
彼は胸ポケットから折りたたんだ紙を出した。罫線のある白い用紙。上には謝罪文と書かれている。
「俺たちを疑って騒いだこと。実習中に安全確認を怠ったこと。先生とクラスに迷惑をかけたこと。全部、自分の字で書け」
「ふざけるな」
「退学の代わりに沈黙を選べって言ってんだよ」
ジヒョクの声が低くなる。
「それとも、ばあさん連れて本当に逃げるか? どこへ? 薬も家も仕事もなしで?」
テオの足元が揺れる。昨日、頭に浮かんだ逃げるという言葉が、いまは空の袋のように軽い。中には何も入っていない。
ジヒョクは紙とペンをテオの胸へ押しつける。
「職員室の前で書けよ。先生にも見せやすいだろ」
廊下の窓に、夕方の灰色の光が映っている。そのガラスの下の影が、一瞬だけ濃く見えた。黒い紙片のような影が、壁の端へ這う。テオが瞬きすると消える。けれど胸の奥でまた声がする。
逃げ道を探せ。
逃げ道なんて、もうどこにもない。
テオはペンを握る。指が震えて、先端が紙の上で小さな黒点を作る。謝罪文の最初の行が、白く空いたままこちらを見上げている。
その時、職員室の中で電話が鳴った。
一度、二度。誰かが受話器を取る音がする。オ・ミョンシクの低い声が続いた。
「はい、ハンビット工業高校、夜間部です」
ジヒョクの笑みが少しだけ止まる。テオもペンを持ったまま動けない。
受話器の向こうから、荒い男の声が漏れてきた。
「ソンジン下請けのマ・サンチョルだ。そっちのユン・テオ、今日来てるな?」
職員室の空気が変わる。オ・ミョンシクが何か言いかけるより早く、電話の声はさらに太くなる。
「設備の件、学校で直接話す。今から行く」
テオの手が、紙の上で止まった。
ペン先の黒い点がじわりと滲む。ジヒョクは笑みを戻そうとしているのに、目だけが受話器の方を見ている。修理費を押しつける紙の次に来るものが、いま廊下の向こうから歩いてくる。
テオの指は、まだペンを離せないまま、かすかに震えていた。
黒い蝋燭にいじめっ子の名前を刻んだ夜、俺は裏社会の鏡王になった
5話 合意書と祖母への脅迫
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