テオは、ペン先を紙から離す。
インクの黒い点は署名欄の手前で止まっている。蛍光灯はもう普通に白い光を落としているのに、さっき合意書の上を這った影だけが目の奥に残っていた。まだ、名前を書くな。その声は命令ではなく、首の後ろを冷たい指で押さえるような警告だった。
「何をしている」
マ・サンチョルの声が太くなる。
テオはボールペンを机に置く。音は小さい。だが相談室の中では、金属を落としたように響く。
「今日は書きません」
オ・ミョンシクが顔を上げる。
「ユン、今ここで意地を張るな」
「警察に行きます」
「さっきも言っただろ。行きたければ行け」
マ・サンチョルは椅子にもたれ、赤い顔を歪めて笑う。
「未成年が夜中に騒いだところで、向こうも迷惑なだけだ。行ってこい。ただし、明日の朝にはこの紙に戻ってくる。お前が書く場所はここしかない」
テオは返事をしない。鞄をつかみ、相談室を出る。廊下にはもう生徒の声が少ない。ジヒョクは階段の下からこちらを見上げ、唇だけで笑った。
捕まれば、殴る。そう思うほど、胸の奥が熱くなる。けれどテオは足を止めない。校門を抜け、坂を下り、夜のバス停へ向かう。携帯電話の画面には二十三時四十一分が光っている。祖母の薬の時間は過ぎている。だが今、家へ戻ってただ薬を飲ませても、明日また同じ紙が来るだけだ。
警察署へ行く。
それが最後の出口に見えた。
午前四時、仁川西部警察署の相談窓口前で、テオは硬い椅子に座っている。
夜明け前の庁舎は病院の廊下に似ている。蛍光灯の下、受付のアクリル板に自分の顔が薄く映る。目の下は黒く、髪は汗と雨で額に張りついている。作業着の袖からは、段ボールと油の匂いがまだ抜けていない。
渡された用紙は三枚ある。相談内容、被害日時、相手の名前。テオは震える指でボールペンを握り直す。
カン・ジヒョク。パク・ドンス。イ・ミンギュ。
最初に給料を奪われた朝の日付を書く。封筒に入っていた十八万ウォン。次に、階段の踊り場で携帯電話を奪われたこと、物流センターの出勤表を破ると脅されたことを書く。祖母の薬を探しに行くと言われたことも、写真を持ち出されて笑われたことも書く。
それから実習室のことを書く。ジヒョクたちが古いCNCのそばに先にいた。ドンスが側面を隠し、ミンギュが工具箱を閉め、ジヒョクが制御盤の下へ手を入れていた。自分の予備手袋が消え、機械の中から出てきた。修理費の見積書。合意書。マ・サンチョルが祖母の住所を読み上げたこと。
書きながら、何度も手が止まる。
文章にすると、ひどく弱く見える。殴られた跡もない。録画もない。金を渡した封筒も残っていない。あるのは、奪われた側の記憶と、相手が先に用意した書類だけだ。
それでも、テオは最後まで書く。余白に、祖母の名前までは書かない。ミョンジンヴィラ三階三〇二号。その住所だけは途中でペンを止め、線で消した。
窓口の奥にいた警察官が眠そうな顔で書類を受け取る。四十代ほどの男で、制服の襟元が少し緩い。彼は用紙を揃え、ファイルに挟む。だが開かない。
「学校名はハンビット工業高校ね」
「はい」
「設備破損の件だろ」
テオは顔を上げる。
警察官はパソコンの画面を見ながら、面倒そうにマウスを動かす。
「学校と会社から先に連絡が来てる。実習中に設備を壊した生徒が、合意処理を拒んでいる可能性があるって。未成年だから相談が来るかもしれないとも」
喉の奥が固まる。
「違います。先に、俺が被害を受けて——」
「だから相談は聞くよ。ただな、これ、校内のトラブルと民事の弁済の話が混ざってる。恐喝と言うなら証拠を持ってきて。録音、送金記録、診断書、目撃者。そういうのがないと事件として受けるのは難しい」
「ここに書きました」
「書いた内容だけじゃ足りない」
警察官はファイルの表紙を指で叩く。まだ一ページもめくっていない。
「学校側も会社側も、話し合いで処理したいと言ってる。君も未成年だし、保護者と一緒にもう一度学校で相談しなさい」
「保護者は祖母だけです。祖母を脅されています」
警察官の目が初めてテオの顔に向く。だがそこにあるのは驚きではない。面倒な言葉を聞いた時の、薄い警戒だ。
「具体的に誰が、いつ、何をした」
「住所を読み上げられました。夜道で転んだら誰が責任取るのかって」
「それだけだと脅迫としては弱い。君、今かなり興奮してるだろ。朝になって学校の先生と来なさい」
「先生が握りつぶしました」
「じゃあ教育庁に相談して」
会話が壁にぶつかって落ちる。テオはファイルへ手を伸ばす。
「読んでください。せめて、読んでから——」
警察官はファイルを自分の側へ引いた。
「ここは怒鳴る場所じゃない。待っている人もいる。今日は帰りなさい」
窓口の奥で別の電話が鳴る。警察官はもうテオを見ていない。ファイルは机の端に置かれたまま、開かれない。
テオは立ち上がる。椅子の脚が床を引っかき、乾いた音を立てる。怒鳴っても、泣いても、何も変わらないと分かる。ここでも、先に届いているのは相手の言葉だ。
外へ出ると、空はまだ黒い。
警察署前の道路に、夜明け前の冷たい風が流れている。コンビニの看板だけが白く光り、始発前のバス停には誰もいない。テオは歩く。行く場所を決めないまま、仁川旧市街の濡れた歩道を下っていく。
物流センターを辞める。
その考えが、初めて具体的な形を持つ。朝の班長に頭を下げて、給料を前借りできるだけ受け取り、祖母の薬を買い、ミョンジンヴィラを出る。仁川ではない別の町へ行く。工場でも食堂でも、日払いの仕事を探す。学校も推薦書も捨てる。
だがすぐに、その考えは穴だらけになる。
祖母は長く歩けない。薬の処方は切れる。家賃を滞納したまま出れば保証金も戻らない。身分証を出せば居場所は残る。未成年の自分が、認知の揺れる老人を連れて、どこまで逃げられる。
逃げ道を探せ。
その声さえ、今は遠い。探すべき道は地図の外にあるのかもしれない。普通の道路でも、警察の窓口でも、学校の相談室でもない場所に。
丘の上のヴィラへ戻る頃、空の端が少しだけ白み始めている。
三〇二号の扉を開けると、中から小さな泣き声が聞こえた。テオは靴を脱ぐのも忘れて奥へ入る。
ボクスンが床に座り込んでいる。白い髪が乱れ、薄いカーディガンの袖が片方だけ肘までずれていた。冷蔵庫の扉は開いている。薬袋を入れていた箱が床に散らばり、古い床材の隙間へ手を差し込んだ跡がある。
「ないの。薬が、どこにもないの」
ボクスンはテオを見ても、孫とは分からない顔で泣いている。
「おじいさんに叱られる。薬、ちゃんと隠したのに。ここに、ここにあったのに」
テオは膝をつく。冷蔵庫の奥の袋は空だった。昨日、予備を床材の下に移したのは自分だ。ジヒョクたちに知られたくなくて、祖母が触らない場所へ隠した。だがボクスンは薄れた記憶の奥で、何かを探し当てようとして床をめくっていた。
「大丈夫。ある」
テオは声を抑える。部屋の隅に置いた古い電気マットをどかし、浮いた床材を爪で持ち上げる。下から紙袋を取り出すと、ボクスンの濡れた目が少しだけ明るくなる。
「学生さん、見つけてくれたの」
「うん。水、飲もう」
薬を一包出し、ぬるい水と一緒に渡す。ボクスンは子どものように両手でコップを持つ。テオはその手の震えを見ながら、警察署の椅子を思い出す。ファイルを開きもしなかった男の指。祖母の住所を読むマ・サンチョルの声。夜道で転ぶと言ったジヒョクの笑い。
携帯電話が鳴る。
短い通知音なのに、テオの背中は硬くなる。画面には、カン・ジヒョクの名前が表示されている。添付された動画ファイル。送信時刻は四時十二分。
テオの指が止まる。
その時刻、彼は仁川西部警察署の相談窓口前で、三枚目の用紙にマ・サンチョルの名前を書いていた。
開くな、と頭のどこかが言う。だがボクスンは薬を飲み終え、ぼんやりした顔で彼を見上げている。テオは画面を押す。
動画が始まる。
暗い階段の踊り場。ジヒョクの笑い声。ドンスらしい太い声が、年寄りの口調をまねて言う。
「学生さん、薬がないのう」
ミンギュの笑いが重なる。誰かがわざと震える声で、ボクスンの口真似を続ける。
「うちの……誰かに似てるねえ」
次の瞬間、画面の奥でジヒョクがこちらへ顔を近づける。片方の口角だけが上がっている。
「警察、どうだった?」
テオの手から、携帯電話が落ちかける。
動画の送信時刻は、彼が助けを求めて椅子に座っていた、まさにその時間だった。画面の向こうの笑い声は、警察署の蛍光灯より冷たく、祖母のすすり泣きより近い。
テオはゆっくり顔を上げる。床材の下から取り出した薬袋が、膝の上でくしゃりと潰れる。彼らはもう、祖母の声まで盗んでいる。
その瞬間、逃げ道という言葉が胸の中で砕け、代わりに別の形をしたものが立ち上がる。恐ろしく具体的で、驚くほど静かな形だった。カン・ジヒョクを殺したい、という思いが。
黒い蝋燭にいじめっ子の名前を刻んだ夜、俺は裏社会の鏡王になった
7話 月影堂の扉と黒い蝋燭
次の話