テオは問いを投げたが、目の前の子どもを置いてすぐにはドゥシクを追えなかった。
咳き込んだ男の子の酸素飽和度は九十六。胸の音に濁りはなく、熱も三十七度台で止まっていた。急性の窒息ではない。けれど乾いた咳のたび、母親の腕の中で細い肩が跳ね、肘の赤い線が薄く浮いた。
「今夜は水分を少しずつ。水道の水は一度沸かして、冷ましてから。咳が続く、熱が上がる、息が苦しそうならすぐ来てください」
「先生、ただの風邪じゃないんですか」
母親の声は、答えより否定を求めていた。テオは一瞬だけ黙った。風邪だと言えば、彼女は今夜眠れるかもしれない。だがそれは、叔父の診断書に並んだ静かな死因と同じ種類の言葉だった。
「まだ分かりません。分からないままにしないために、明日もう一度見ます」
母親は子どもを抱き直し、うなずいた。ミラが玄関まで付き添う間、待合室に残った者たちは誰も口を開かなかった。長椅子にいたはずのドゥシクの姿はすでに消えていた。
外ではソジンのトラックがまだ停まっていた。運転席には誰もいない。ドアだけが閉まり、鍵もかかっていなかった。テオは診察室へ戻り、台帳の五つ目の行をスマートフォンで撮った。ユン、ミン。その先は紙の傷に飲まれている。
『追う相手は、ソジンさんじゃない』
いま五人目の名を知っている顔をしたのは二人いた。一人は出ていった。もう一人は、咳の音だけで十八年前の夜へ引き戻された。
「ミラさん、午後の診療は終わりです。急患が来たら電話してください」
「先生、どちらへ」
「精米所へ行きます」
ミラの顔に不安が走ったが、止めはしなかった。グムレは玄関脇に立ったまま、低い声で言った。
「チェの口は重い。力でこじ開けようとすれば、ますます閉じる」
「分かっています」
「分かっている顔じゃない」
テオは返事をせず、記録綴りと手帳をバッグへ入れた。島の夕方は湿って重く、精米所へ向かう道の側溝には昼の潮が残した匂いが沈んでいた。数軒の家の窓から視線を感じたが、誰も声をかけてこない。
精米所は村のはずれ、古い倉庫と一体になった低い建物だった。表の引き戸は半分だけ開いている。中からは機械の回る音も、人の話し声も聞こえなかった。
テオが敷居へ足をかけると、奥で米袋のこすれる音がした。
「今日は閉めた」
ドゥシクの声だった。
「診療の続きです」
「ここは診療所じゃない」
「さっきの咳の話は、診療所で始まりました」
ドゥシクが暗い奥から出てきた。戸口に立つだけで廊下の光を遮るような重さは、ここではさらに濃かった。彼はテオの肩越しに外を見た。誰もついて来ていないかを確かめる目だった。
「帰ってください。先生が来る場所じゃない」
「もう入っています」
テオは一歩進んだ。床の板が米ぬかで白く曇り、靴底がわずかに滑った。機械は止まっているのに、壁や柱には長年の振動が染みついたような低い圧迫感があった。
ドゥシクの目が細くなった。
「勝手に入ると、島では嫌われます」
「嫌われることより、知らないまま子どもを帰すほうが怖い」
その言葉に、ドゥシクの口元が小さく歪んだ。笑いではなかった。痛みに触れられた人間の反応に近い。
テオはバッグから折りたたんだ表を出した。古い診療カードから拾った発熱日、発疹、老人の手の震え、記憶の途切れ。今日までに書き足した名前と、叔父の死亡診断書の日付。
「子どもたちの高熱は、同じ時期に固まっています。老人たちの震えと記憶障害も、別の家なのに同じ日付へ寄っています。今日、ボクナムさんたちは旧暦三月十七日を繰り返した。その日の死亡診断書には四人。処方記録には、五人目の処置が残っていました」
ドゥシクは表を見なかった。
「紙の上で線を引けば、何でもつながって見える」
「なら、切ってください。偶然だと言える理由を出してください」
沈黙が落ちた。外を通る風で、引き戸がほんの少し鳴った。
テオはさらに奥へ目を向けた。薄暗い棚に、米の帳簿ではないものが積まれている。埃をかぶった古い薬品箱。角のつぶれた段ボール。茶色く変色した郡庁の郵便封筒が、ひもでまとめられていた。
医師の目は、文字より先に物の用途を拾った。薬品箱の側面には、消毒液の会社名と、かすれた管理番号。封筒の一つには、全羅南道郡庁保健課の印が薄く残っている。
「これは何ですか」
ドゥシクの肩がわずかに跳ねた。
「……先生の叔父さんから預かったがらくたです。古い精米機の部品や、書類の空箱。捨てる機会を逃しただけだ」
「私の叔父からですか」
ドゥシクは答えなかった。視線だけが棚から逃げた。
テオは封筒へ手を伸ばさなかった。ここで触れれば、ドゥシクは完全に閉じる。代わりに表を米袋の上へ置いた。
「チェさん。あなたは、あの日も子どもたちが先に咳をしたと言いました。あの日とは、旧暦三月十七日ですか」
ドゥシクの喉が動いた。
「知らないほうがいいこともあります」
「誰にとってですか。子どもにとってですか。震える老人にとってですか」
「島にとってです」
低い声だった。脅しではなく、祈りにも似ていた。
「島を生かすには、知らないふりをしなければならないこともある。全部掘れば、墓の下だけじゃ済まない。生きている家が割れる。まだ飯を食っている人間の名前が、汚れる」
「病気は、知らないふりで消えません」
「分かっています」
その返事が早すぎて、テオは息を止めた。ドゥシクは自分の言葉に気づいたように口を閉ざす。
「分かっているなら、なぜ止めるんです」
「先生は帰れる」
またその言葉だった。ドゥシクは島の秘密を守るためだけでなく、島から出られる人間を憎んでいるのでもなく、何か別のものを恐れていた。帰る者が真実を持ち出すことか。残る者がその後に受ける痛みか。
テオは机も椅子もない精米所の中で、立ったまま問いを変えた。
「十八年前、保健支所へ運ばれた五人目は誰ですか」
ドゥシクの目が、初めてテオを正面から見た。
「……名前を出すな」
「ユン・ミン、までは記録に残っています」
「出すなと言った」
声が少し荒くなった。米袋の表面が、彼の握った指の下でへこんだ。
「その名前を出せば、あいつは二度死ぬ」
あいつ。テオはその一語を聞き逃さなかった。書類の中の患者ではない。ドゥシクにとって、その五人目は顔のある誰かだった。
「ユン・ミンホですか」
ドゥシクの顔から血の気が引いた。答えはなかった。だが沈黙は、否定よりずっと重かった。
そのとき、精米所の外で咳が聞こえた。
幼い子どもの咳だった。乾いて、短く、喉の奥を紙でこするような音。さっき保健支所で聞いたものと同じ種類の音が、引き戸の隙間から入り込んだ。
ドゥシクの手が反射的に米袋をつかんだ。指が白くなり、袋の縫い目がぎりりと鳴る。彼の顔は、紙を一枚かぶせたように青ざめていた。
「まだ……」
唇だけが動いた。
「まだ、雨も降っていないのに」
テオは表から顔を上げた。咳の音を恐れているのか。それとも、咳の向こうで始まる何かを恐れているのか。
その答えを見極める前に、外から母親の悲鳴が上がった。
その島では、雨が降る前に患者が増える
16話 燃え残った雨前の言葉
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