外の悲鳴に、テオは反射的に引き戸へ向かった。ドゥシクも一歩遅れて動きかけたが、足は床に縫いつけられたように止まった。
精米所の前の細い道で、さっきの男の子とは別の幼い子が母親に抱かれて咳き込んでいた。顔は赤いが、意識はある。息を吸うたびに喉が鳴り、母親は何度も背を叩こうとしていた。
「叩かないでください。上体を起こして」
テオはその場に膝をつき、首の角度を直した。ポケットのペンライトで口腔を見て、胸に耳を当てる。喘鳴は強くない。唇の色も保たれていた。咳は何度か続いたあと、潮が引くように弱まっていった。
「熱は」
「さっきまではなかったです。急に、米を買いに来たら……」
母親の声は震えていた。子どもは涙目でテオを見上げ、もう一度小さく咳をした。乾いた音だった。けれど、すぐに呼吸は整う。
「今すぐ保健支所へ。歩かせずに抱いてください。水は飲ませない。ミラさんに、私が戻るまで座って待つよう伝えてください」
母親は何度も頭を下げ、子どもを抱えて坂を下りていった。見送ってから、テオは精米所の扉へ振り返った。
ドゥシクはまだ戸口の内側に立っていた。顔色は戻っていない。米袋を握っていた手は離れていたが、指の形だけが白く残り、爪の跡が袋に刻まれている。
「チェさん」
呼びかけても、彼はすぐには反応しなかった。咳が収まったことを理解していないようだった。遠い音をまだ聞いている目をしていた。
テオは、そこで問いを飲み込んだ。ユン・ミンホの名。旧暦三月十七日。あの日、保健支所で何を見たのか。聞くべきことはいくつもあった。だが今のドゥシクに見えているものは、テオの言葉でこじ開けられる秘密ではなかった。
脅しではない。頑固さでもない。
長い時間をかけて胸の奥へ沈み、雨の匂いや子どもの咳で表へ浮いてくる恐怖だった。
「今日はここまでにします」
ドゥシクのまぶたがわずかに動いた。
「……帰ってください」
声はかすれていた。さっきまでの低い圧はない。
「子どもを診ます。あなたの話は、また聞きます」
「聞かないほうがいい」
「それを決めるのは、あなたではありません」
テオは表を拾い上げ、薬品箱にも郡庁の封筒にも触れずに外へ出た。背後で引き戸がゆっくり閉まる音がした。鍵の落ちる音はしなかった。
保健支所へ戻ると、待合室には咳をした子どもと母親が座っていた。ミラが体温を測り、記録用紙に時刻を書いている。子どもの呼吸は落ち着き、酸素飽和度も九十七を示した。テオは胸音と喉を確認し、急変がないことを母親へ短く説明した。
「今日、どこの水を飲みましたか」
「家の水と、精米所の前の共同蛇口で少し……暑いって言うから」
テオの手が止まった。
「時間は」
「午後四時前です」
彼はその時刻を赤で囲んだ。母親には今夜の観察項目を伝え、少しでも息が苦しそうならすぐ戻るよう念を押す。母子が帰ったあと、待合室の長椅子には湿った沈黙だけが残った。
テオは診察室の机へ戻り、叔父の古い診療カード、今日までの症状一覧、死亡診断書控、薬品払出台帳を全部広げた。今までは症状の種類と発生日を中心に並べていた。発疹、高熱、咳、手の震え、記憶の途切れ。そこへ世帯ごとの水の使用場所と時間帯、診療に来た時刻を足していく。
北側の家。学校帰りの共同蛇口。精米所前。井戸水を混ぜる家。貯水槽から近い路地。
赤い印が、地図の上で不自然に寄り始めた。
ミラが受付から湯のみを持って入ってきた。目は表に釘づけだった。
「先生、また増えていますか」
「まだ増えたとは言えません。ただ、同じ日に同じ場所の水を使った可能性があります」
「水、ですか」
ミラは湯のみを机の端へ置いた。その指が少しこわばっている。
「所長も、そういう表を作っていました」
テオは顔を上げた。
「診療カードの表ですか」
「いえ、もっと細かいものです。日付と名前と、どこの水を使ったかみたいな……私は全部は見ていません。夜になると一人で書いて、朝にはなくなっていました」
「しまっていたんですか」
ミラは首を横に振った。
「燃やしていました」
その一言で、診察室の音が遠のいた。
「燃やす?」
「倉庫の古いストーブです。冬でもないのに、夜中に煙の匂いがすることがあって。私が聞くと、古い書類を処分しているだけだと。でも灰を捨てるのは、いつも所長が自分でしました」
テオは椅子を引いて立った。叔父は記録を隠した。死亡診断書を残した。鍵付きの引き出しに矛盾をしまった。それなら、燃やしたものは不要な書類ではない。
捨てたのではなく、見られてはいけなかったのだ。
倉庫は診察室の裏にあった。湿った薬箱、古い包帯、壊れた点滴スタンドの奥に、黒くすすけた小型のストーブが置かれている。煙突は外へつながっていたが、口の周りには黒い粉がこびりついていた。
ミラが懐中電灯を向けた。
「灰受け、まだ外していません。所長が亡くなる前から、そのままです」
テオはしゃがみ、錆びた取っ手をゆっくり引いた。薄い金属がこすれる音とともに、灰受けが出てくる。中には灰だけでなく、灰になりきらなかった紙片がいくつも混じっていた。
彼は手袋をはめた。息を吹きかければ崩れるほど脆い。ピンセットで一枚ずつ白いトレーへ移す。ほとんどは縁だけが残り、文字は読めない。だが紙質は診療カードより薄く、表の罫線らしいものが焦げ跡に残っていた。
「先生、これは」
「触らないでください」
テオは声を低くした。怒ったわけではない。自分の指先が震えそうだった。
三枚目の紙片を返したとき、黒い面の端に数字が浮いた。完全には焼けていない。灰色の地に、叔父の細い筆跡がかすかに残っていた。
三、十七。
旧暦三月十七日。
玉石浜で老人たちが波に向かって繰り返していた日付と同じだった。
テオは紙片をトレーの中央へ置いた。数字の左には名前があったらしいが、焼け落ちている。右側には表の線が続き、そこも黒く崩れていた。生き残った文字は、数字の横に短く添えられた数語だけだった。
雨の降る前。
ミラが息をのんだ。
「所長の字です」
テオにも分かった。診療カードの日付を丸で囲む時の、あの細く整った癖があった。叔父はこの言葉を表の横に書き、そして燃やした。偶然の走り書きなら、灰になるまで隠す必要はない。
雨が降ったあとではない。
雨の降る前。
ドゥシクの声が耳の奥で重なった。
まだ、雨も降っていないのに。
テオは診察室へ戻り、紙片を透明な袋へ入れた。机の上の症状表には、今日の咳の時刻が赤く囲まれている。外の空はまだ曇っているだけで、雨粒は一つも落ちていなかった。
もし叔父が気づいていたのなら、なぜこの表を残さず燃やしたのか。誰から隠したのか。それとも、何かを守るために自分で証拠を消したのか。
テオは袋の中の小さな焦げ跡を見つめた。黒く残った紙の端で、「雨の降る前」という言葉だけが、焼かれてなお消えていなかった。そしてその言葉は、島の病が始まる時刻が、彼の考えていた順番と逆だと告げていた。
その島では、雨が降る前に患者が増える
17話 雨の前に沈んだユンの名
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