テオは透明な袋に入れた焦げた紙片を、机の中央に置いた。外はまだ雨が降っていない。窓ガラスには灰色の雲だけが映り、潮を含んだ風が細く鳴っていた。
雨の降る前。
その短い言葉が、診察室の空気を変えていた。テオは叔父の古い診療カードを月ごとに並べ、ミラに頼んで面事務所へ気象観測記録の問い合わせをした。島に正式な観測所はない。港の風速計と、漁協が残していた降雨量、面事務所の防災日誌に記された雨の開始時刻など、あるものをかき集めることになる。精度は粗い。だが、何もないよりはずっとよかった。
「旧暦三月十七日。その前後の雨の記録を全部出してもらってください」
ミラは受話器を握ったまま、緊張した顔でうなずいた。
「去年だけじゃなく、所長のカードに丸がある年もですか」
「全部です。日付が合うものからで構いません」
午前の診療の合間に、紙は少しずつ増えた。頭痛を訴える老婆を診て、血圧薬を渡し、発熱した子どもの腕を確認する。そのたびにテオは、診療録とは別の表へ水の使用場所と時刻を書き足した。
昼前には、机の上が紙で埋まった。
赤は子どもの発疹と高熱。青は老人の手の震えと記憶の途切れ。黒は死亡診断書の日付。そこへ、気象記録の降雨日を縦線で引いていく。
最初は散らばって見えた点が、雨を入れた瞬間に形を持った。
発疹が増えた日は、雨の二日前から当日。老人の震えが悪くなった日は、雨の前日か翌日。死亡診断書の旧暦三月十七日は、強い雨が来る直前の欄に重なっていた。
「……偶然じゃない」
ミラの声は小さかった。
テオは定規を置かず、もう一度最初から線を引いた。医師として、都合のいい点だけを拾うことはできない。症状のない日、雨が降っても何も起きていない日、記録の抜けた年も横へ書いた。それでも残る偏りは消えなかった。
「二日以内に寄っています」
「雨のあと、じゃなくてですか」
「あともあります。ただ、前から始まっている。降る前にすでに症状が出ている人がいる」
ドゥシクの声が蘇った。まだ、雨も降っていないのに。
テオは焦げた紙片を見た。叔父はこれを知っていた。雨が原因のすべてではない。雨が降る前に、何かが水へ入る、あるいは水の流れが変わる。その兆しを、叔父は症状のほうから見ていた。
診察室の戸が細く開き、ソジンが入ってきた。昨夜から眠っていない顔だった。細い顎の赤みは潮風のせいだけではなく、目の下には影が落ちている。
「面事務所から頼まれた気象日誌、港にも残っていました。漁師の組合長が持っていた分です」
彼は折りたたんだ紙を差し出した。テオが受け取ると、ソジンの視線は机の上の地図へ落ちた。北側の家、精米所前の共同蛇口、玉石浜へ向かう道。その線の先で、彼の目が止まった。
「北の水は、雨の前に圧が変わることがあります」
低い声だった。
テオは顔を上げた。
「北の水?」
ソジンは言いかけた口を閉じた。視線がミラへ、それから廊下へ動く。誰かに聞かれることを恐れる目だった。
「……いえ。昔から、そう言う人がいるだけです」
「貯水槽のことですか」
その言葉を出した瞬間、戸口の向こうで床板が鳴った。
グムレが立っていた。白髪をきつく結び、作業上着の袖をまくった姿のまま、診察室の中を見回す。彼女の目は、机いっぱいの紙と地図を一瞬で拾った。
「何を並べている」
「症状の日付と雨の記録です」
テオは隠さなかった。
「子どもたちの発疹も、老人の震えも、雨の前後二日以内に集中しています。北側の水場を使った世帯が多い」
グムレは近づき、テオの手帳の上へ硬い手を置いた。紙が動かないよう押さえる仕草だったが、その力は制止に近かった。
「それを今、村に言って回るつもりか」
「まだ言いません。確認が必要です」
「確認の前に噂が走る。水が悪い、北が悪い、誰の家が悪い。そうなれば、熱を出した子どもより先に、家同士が裂ける」
「放っておけば、また同じ症状が出ます」
「放っておけとは言っていない」
グムレの声は低く、かすれていた。
「だが、島を揺さぶるなら、揺れたあとに誰が立っていられるかまで考えろ。あんたは紙の線を見ている。ここに住む人間は、その線の上で飯を食っている」
テオは反論を飲み込んだ。正しい。だが、それだけでは足りない。グムレは真実を嫌っているのではない。真実の出し方を恐れていた。
彼はペンを置いた。
「今日は聞いて回りません。記録をもう一度照合します」
グムレの手はしばらく手帳の上に残った。やがて、ゆっくり離れる。
「チェを追い詰めるな。ソジンにも、無理に聞くな」
ソジンの肩がわずかに揺れた。
「分かっています」
テオはそう答えた。完全には分かっていない。だが、今ここで誰かの口をこじ開けても、次に出るのは証言ではなく沈黙だと知っていた。
午後、診療が途切れたころ、ミラが受付から顔を出した。
「先生、ヤン・ボクナムさんたちがまた外へ」
その一言だけで、テオは椅子から立った。
「玉石浜ですか」
「たぶん。家の人が止める前に、三人で北へ向かったそうです」
テオは手帳と小さな証拠袋をバッグへ入れた。玄関へ出ると、ソジンのトラックがすでに道端に止まっていた。運転席の窓が開き、ソジンが短く言う。
「乗ってください」
「無理に来なくていいです」
「行きます」
それ以上は言わなかった。テオも止めなかった。
北へ向かう道は、雨の前の湿気で重かった。海の色は鈍く、遠くの雲は低い。干物小屋を過ぎると、玉石浜の丸い石が見えた。波が引くたび、黒と灰色の石がこすれ合い、乾いたような湿ったような音を立てる。
老人たちは、前と同じ場所にいた。
ヤン・ボクナム、イム・ドンチョル、チョ・サムス。三人とも靴を濡らしながら、浜の端に積もった黒い岩の前へ立っていた。今回は海ではなく、岩の下を見ている。
「キム・ヨンス」
イム・ドンチョルが言った。
「オ・ギョンスク」
チョ・サムスの声が続いた。
ボクナムは唇を震わせ、違う名を探すように息を吸った。
「ユン……ミン……」
ソジンの足が止まった。テオはその横顔を見なかった。見れば、彼はさらに閉じる。
黒い岩の根元には、古びた花束があった。花と呼べるものはもう残っていない。色の抜けた造花と、潮で白くなったリボン、茎を束ねる針金だけが、石の隙間に押し込まれていた。ずいぶん昔に供えられ、そのまま雨と潮を吸い続けたものだった。
「これは誰が」
テオが尋ねても、老人たちは答えなかった。ただ同じ名を繰り返す。
「ユン……ミン……」
「旧暦三月十七日」
「五人じゃ……」
最後の言葉は波音に消えた。
テオはしゃがんだ。花束に触れる前に、手袋をはめる。ソジンがかすかに息を飲んだ。
「触らないほうがいい」
「見るだけです。崩さないようにします」
テオは針金の端を避け、湿ったリボンの下へ指を入れた。花束は思ったより重かった。水を吸い、砂を抱え、長い時間その場で腐らずに形だけを残している。
少し持ち上げると、岩の隙間で何かがはがれる音がした。
薄いものが落ちた。
黒い石の間から、茶色くふやけた紙片が一枚、ひらりと滑り出た。角は丸まり、文字の大半は水に流れている。だが紙の上端に、医療機関で使う罫線の跡がかすかに残っていた。
テオは動きを止めた。
ソジンの呼吸も止まったのが、すぐそばで分かった。
紙片の濡れた端に、叔父ハン・ジョンウの印の赤だけが、かろうじて滲まずに残っていた。そしてその下に、消えかけた文字が一つだけ読めた。
ユン。
ソジンが、声にならないほど小さく息を吸った。
その島では、雨が降る前に患者が増える
18話 欠けた処方箋に残る名
次の話