その息を、テオは聞かなかったふりをした。黒い石の隙間から滑り出た紙片は、潮水を吸って柔らかくなっていた。指でつまめば、そのまま崩れそうだった。
テオはバッグから予備の透明袋とピンセットを取り出し、石の上で紙片をそっと裏返した。上端には医療機関用の罫線が残っている。患者名、年齢、処方内容。薬剤名の欄は半分以上欠け、青い線も水に流れていた。だが、叔父ハン・ジョンウの赤い印だけは、にじみながらも残っていた。
その下に、文字があった。
ユン・ミンホ。
テオは名前を声に出さなかった。旧暦三月十七日。死亡診断書は四枚。薬品払出台帳に消え残った五つ目の処置。右前腕の静脈路確保。老人たちが波へ向かって呼んだ「ユン……ミン……」。紙片に残った名は、その空白へぴたりとはまった。
「ソジンさん」
波が引き、玉石が低く鳴った。ソジンは答えなかった。細い顎の赤みが薄れ、唇だけが固く閉じている。視線は紙片に落ちたまま、まばたきもしない。
テオは透明袋へ紙片を入れ、口を閉じた。
「この名前を知っていますか」
老人たちの声が、すぐ近くでまだ続いていた。
「キム・ヨンス」
「オ・ギョンスク」
ボクナムの唇が震えたが、次の名前にはならなかった。潮が上がり始め、黒い岩の足元を白い泡が洗った。古びた造花と白くなったリボンは、さっきよりも深く石の間へ沈んで見えた。
ソジンは長いあいだ黙っていた。沈黙が長すぎて、知らないという返事には聞こえなかった。やがて彼は、濡れた指先で透明袋の端を持った。
「貸してください」
「破れます。袋のまま」
「分かっています」
テオは袋を渡した。ソジンは中の紙片に直接触れないよう、袋ごと両手に乗せた。目は名前の上を一度だけなぞった。二度目はなかった。
彼は透明袋を胸の前で慎重に折った。折り目が紙片にかからないよう、空気の入った端だけを小さく曲げる。それから、テオへ返した。
「今は、話せません」
声は平静だった。港で急患を知らせた時と同じ、必要なことだけを短く伝える声だった。だが、袋を離した指先が、かすかに震えていた。
「今は、ですか」
「はい」
「いつなら話せますか」
ソジンは黒い岩を見た。古びた造花の残骸、白くなったリボン、そこから落ちた処方箋の半分。その全部を、幼いころから知っていたもののように見つめた。
「先生が、島を出る前に」
その返事は、約束にも拒絶にも聞こえた。
テオはそれ以上追わなかった。グムレの声が耳の奥に残っていた。『ソジンにも、無理に聞くな』。目の前の青年は協力者であり、運転手であり、急患の時に誰より先に動く人間だった。だが同時に、この名前の周辺に立たされている当事者でもあった。
老人たちを迎えに来た家族は、浜で聞こえた名前には触れなかった。ボクナムの息子は父親の濡れたズボンだけを気にし、ドンチョルの嫁は「また海へ」と泣きそうな顔をした。テオは低体温と転倒の危険だけを説明し、今夜は目を離さないよう伝えた。
「病院へ連れていけば治りますか」
誰かが聞いた。
「今すぐ本土へ送る状態ではありません。ただ、高熱やけいれんが出たら、夜でも保健支所へ連絡してください」
言いながら、テオは自分の声が少し遅れて聞こえるのを感じた。処方箋の名が、言葉の裏でずっと揺れている。ユン・ミンホ。公式の死亡診断書には最後まで載らなかった五人目。
ソジンはトラックの運転席に乗り、保健支所まで一言も話さなかった。雨はまだ降っていなかった。けれどフロントガラスには潮の細かな粒が張りつき、前方の道をぼかしていた。
保健支所に戻ると、ミラが受付から立ち上がった。
「先生、浜は……」
「老人三人は家族が連れて帰りました。今夜、様子を見ます」
テオはそれだけを答え、診察室に入った。透明袋を机の上へ置く。焦げた紙片、死亡診断書控、薬品払出台帳、そして今見つかった処方箋の半分。証拠というには脆く、記録というには欠けすぎていた。けれど、叔父の印と名前は消えていない。
ミラが戸口で紙片を見て、息を止めた。
「これ、所長の……」
「処方箋の半分です。玉石浜の黒い岩の下にありました」
「名前は」
テオは一瞬迷った。ソジンの震えた指先が浮かぶ。だが、医療記録として見つかった以上、ミラにも隠せない。
「ユン・ミンホ」
ミラの顔色が変わった。彼女はすぐに口元を押さえ、廊下を振り返った。誰もいないと確かめても、声は低くなった。
「先生、その名前は……」
そこまで言って、彼女も言葉を切った。
「ミラさんも知っているんですか」
「聞いたことがあるだけです。子どものころに。大人たちが、言うなって」
「死亡診断書にはありません」
「はい」
ミラはそれ以上言わなかった。島では、知らないことと知っていることの境目が、言葉にした瞬間に変わる。テオはその境目を前に、今まで何度も足を止められてきた。
ポケットの携帯が震えた。
画面には、ソウル・ヘミン大学病院の医局事務からのメッセージが二件並んでいた。一件目は復帰予定日の確認だった。二日後の午前八時、感染症内科のカンファレンス前に出勤扱いでよいか、返信を求めている。二件目は、昇進審査書類の最終提出を促す連絡だった。推薦書、症例一覧、論文業績表。提出期限は変更できないと、淡々と書かれていた。
テオは画面を見たまま動かなかった。
二日後。
一か月だけの臨時医師。その区切りは、彼が何度も自分に言い聞かせてきた線だった。叔父の葬儀を終え、薬の在庫を整え、最低限の診療をつなぎ、記録の写しを関係機関へ渡す。そこまでやれば、あとは郡庁と後任医師の仕事になる。そう考えれば、ソウルへ戻る理屈はまだ残っていた。
テオは窓の外を長く見た。保健支所の庭では、風がまだ雨を運んでいなかった。洗濯用の細いロープが揺れ、遠くの港のクレーンが雲の下で黒く立っている。診察室のガラスに映った自分の顔は、島へ来た日よりさらに痩せて見えた。
『次の船で出る』
心の中で言葉にしてみると、思ったほど抵抗はなかった。むしろ、疲労でしびれた体には、そのほうが自然だった。彼がここに残っても、ソジンは今すぐ話さない。ドゥシクも口を閉ざす。グムレは噂を恐れている。ならば、記録だけを外へ出す。島の中で抱え込むより、そのほうが合理的だった。
「ミラさん」
「はい」
「明日の朝一番の船の時間を確認してください。私はワンドへ出ます」
ミラの目が揺れた。
「戻られるんですか」
「記録の写しを本土で渡します。ここで噂になる前に、外の機関へ出したほうがいい」
その時、廊下の向こうで小さな物音がした。ソジンが玄関から戻ってきたところだった。彼はテオの言葉を聞いたのか、聞いていないのか、表情を変えなかった。
「明日の船、港に聞いてきます」
「お願いします」
「……はい」
短い返事だけを残し、ソジンはまた外へ出た。テオは呼び止めなかった。処方箋の名前を知っているかと問うた時の震えが、まだ目に残っている。それでも、船が出るなら島を離れる。彼はそう決めた。
夜になっても雨は落ちなかった。風だけが強くなり、古い窓枠を細かく鳴らした。テオは診察室で記録を一枚ずつ撮影した。死亡診断書控、処方記録、薬品払出台帳、焦げた紙片、玉石浜で見つかった処方箋。撮影時刻をノートに書き、原本は透明袋に入れ直す。
医師として残せるものは、まず記録だった。感情では人は救えない。噂では過去も変えられない。だが、記録は外へ出せる。
そう考えた瞬間、港のほうから低い雑音が流れた。
島内放送のスピーカーだった。最初に風の音が入り、次いで、面事務所の職員らしい硬い声が夜の集落へ広がった。
「こちら、ドレ面事務所です。気象庁より台風予備警報が発令されました。明日以降、ワンド港発着のドレ島行き旅客船は、すべて運航停止となります。再開時期は未定です。住民の皆さまは不要な外出を控え、港、海岸、北側斜面へ近づかないでください」
テオの手が止まった。
スピーカーは同じ文をもう一度繰り返した。台風予備警報。明日以降、すべて運航停止。再開時期は未定。
彼は窓へ近づいた。港の明かりが、風に押されるように滲んでいる。二日後の復帰予定も、昇進審査の提出期限も、次の船で島を出るという決定も、その放送一つで海の向こうへ切り離された。
机の上では、透明袋に入った処方箋の半分が、蛍光灯の光を受けて鈍く白んでいた。
ユン・ミンホ。
その名前だけが、島に残るテオを見張るように、叔父の赤い印の下で濡れたまま光っていた。
その島では、雨が降る前に患者が増える
19話 五人目の名を呼ぶ老人
次の話