夜の放送が終わっても、テオはしばらく窓の前から動けなかった。港の明かりは風に削られ、処方箋の半分だけが机の上で白く浮いていた。ユン・ミンホ。その名を透明袋へ戻しても、視線の奥から消えなかった。
夜明け前、テオは荷物をまとめた。白衣、聴診器、ノートパソコン、死亡診断書控の写し、薬品払出台帳の写真を入れたメモリ。原本は鍵のかかる引き出しに残し、玉石浜で拾った処方箋だけは内ポケットへ入れた。外はまだ雨ではなく、細かい潮の粒が風に混じっていた。
保健支所の玄関を出ると、ソジンのトラックが道端に停まっていた。運転席の窓は閉まっている。眠っていない目だけが、フロントガラス越しにこちらを見ていた。
「港までですか」
「お願いします」
それ以上の会話はなかった。道の両側の家々は戸を閉め、軒先の桶や網だけが風に鳴っていた。港へ近づくほど海の音が大きくなり、波は防波堤を越えないまでも、白い泡を立てて石積みに叩きつけていた。
船着き場の待合所には、すでに紙が貼られていた。
台風予備警報により、本日以降の全便欠航。再開未定。
その下に、赤いペンで小さく追記があった。昨夜、ワンド行き最終便は安全確保のため繰り上げ出航済み。次便未定。
テオは紙の前で足を止めた。昨夜の放送を聞いた時点で分かっていたはずなのに、貼り紙の文字は別の重さを持っていた。昨夜のうちに、最後の船は出ていた。彼が記録を撮影していた間に、島から出る道は静かに閉じられていたのだ。
「すみません」
ソジンが低く言った。
「何がですか」
「港に聞きに行った時には、もう出たあとでした。言いに戻る前に放送が流れて」
テオは首を振った。
「あなたのせいではありません」
船員小屋の窓には板が打ちつけられ、ロープは二重に結ばれていた。海は灰色で、遠くにあるはずの本土は見えなかった。テオは携帯を取り出し、ソウルの医局事務へ短く返信した。
台風予備警報によりドレ島発着船が欠航。復帰は遅延します。審査書類は可能な範囲で電子送付します。
送信ボタンを押す指は、思ったほど震えなかった。昇進審査、復帰予定、一か月という期限。どれもまだ頭の中にはあった。だがその手前に、処方箋の半分と五人目の名が立っていた。島に足止めされた事実よりも、まだ終わっていない疑惑のほうが大きく響いていた。
「戻ります」
テオが言うと、ソジンは黙ってトラックへ向かった。
午前中、保健支所にはいつもより早く人が来た。船が止まると分かれば、住民は薬を切らすことを恐れる。血圧薬、糖尿病薬、解熱剤、胃薬。テオは在庫を数え、ミラに台帳をつけさせ、足りない薬の欄へ赤を入れた。嵐の前の診療は、いつもより静かだった。誰も大声を出さない。待合室の窓が鳴るたび、患者たちは同じ方向を見る。
「先生、ジアゼパムの在庫が切れています」
昼過ぎ、ミラが薬品棚の前で言った。
「何本ですか」
「ゼロです。空箱しか残っていません」
テオは棚を確認した。古いラベル、期限の近いアンプル、空箱。記録上は残っているはずだが、実物はなかった。
「分かりました。他の鎮静薬の在庫を見てください」
島では一本の薬が、一人の呼吸やけいれんを左右する。そう分かっていても、船が止まった今、補充する手立てはなかった。
夕方に近づくと、風がさらに強くなった。雨はまだ落ちない。だが空は低く、海の白い泡が支所の窓からも見えた。テオは診察の合間に、叔父の記録を開き直した。ユン・ミンホ。旧暦三月十七日。右前腕の静脈路。処方箋の半分。玉石浜の花束。文字を追うほど、島の沈黙は一人の名前を中心に固まっていくようだった。
その時、受付の電話が鳴った。
ミラが取った。次の瞬間、彼女の顔色が変わる。
「先生、ヤン・ボクナムさんの家です。倒れて、体が……全身が突っ張っているそうです」
テオは椅子から立った。
「熱は」
ミラは受話器を押さえ、向こうの声を聞いた。
「かなり熱いと。呼んでも返事がなくて、手足が勝手に動くって」
「ソジンさんに電話してください。薬品箱を持って出ます。酸素も」
「はい」
テオは救急バッグに血圧計、パルスオキシメーター、輸液セット、解熱剤を詰めた。ジアゼパムはない。別の鎮静薬を探したが、適当なものは見当たらなかった。
ソジンのトラックは数分で来た。荷台に酸素ボンベが縛られている。運転席の彼は、朝よりさらに顔色が悪かったが、ハンドルを握る手は迷わなかった。
「ボクナムじいさんの家ですね」
「はい。飛ばしすぎないでください。揺らすと危ない」
「分かっています」
トラックは北へ向かった。集落の細い道を曲がるたび、風に煽られた木の枝が窓を叩いた。途中、玉石浜へ続く脇道が一瞬見えた。ソジンの視線がそこへ引かれたが、すぐ前へ戻った。
ヤン・ボクナムの家には、家族と近所の女たちが玄関先に集まっていた。誰も中へ入れず、ただ名前を呼んでいる。テオは靴を脱ぐ時間も惜しんで、床板を踏んで奥の部屋へ入った。
ボクナムは布団の上で体をよじらせていた。痩せた腕が硬く曲がり、顎が噛みしめられ、目は半分開いたまま焦点が合っていない。額に触れると、皮膚は熱で乾ききっていた。
「何時からですか」
「少し前です。夕飯のあと、急に、名前を呼んで……それから」
息子の声は裏返っていた。
「口に物を入れないでください。押さえつけすぎない。頭だけ守って」
テオは体を横向きにし、気道を確保した。脈は速い。呼吸は荒く、発作のたびに胸が不規則に跳ねる。パルスオキシメーターの数字は揺れ、血圧計の音は風と家族のすすり泣きに混じった。
「高熱と全身けいれんです。ミラさん、時間を見てください」
遅れて入ってきたミラが時計を見た。
「はい」
テオは救急バッグを開け、けいれんを止める鎮静剤を探して薬品を入れる棚を開けたが、その棚は空だった。
指先が空の仕切りに触れた。昼間に確認した通り、ジアゼパムの在庫は完全に切れている。
背中に冷たいものが走った。発作が長引けば、脳も心臓も削られる。テオは奥歯を噛み、代替を頭の中で探した。別の鎮静薬は期限切れか、用量が合わない。輸液を確保し、冷却し、酸素を入れ、救急搬送の準備をする。船はない。ヘリはこの風では飛ばない。
「酸素をつないでください。解熱剤を準備。静脈路を取ります」
テオはそう言いながら、ボクナムの右腕を探った。細い血管が熱で浮き、震えで逃げる。ソジンが無言で老人の肩を支えた。力任せではなく、動きを殺しすぎない支え方だった。
「先生、薬がないんですか」
息子が聞いた。
「今できる処置をします。外で待ってください」
「でも」
「外で待ってください」
短く切ると、男は言葉を失った。ミラがそっと腕を引いて部屋の外へ出した。テオは針を入れた。逆血が見えた瞬間、発作が一度大きく跳ね、針先がずれそうになる。ソジンが低く息を詰め、老人の手首の下へ自分の手を差し入れた。
その時だった。
ボクナムの喉から、空気が漏れるような声が出た。発作のうなりではない。言葉の形を持っていた。
「……ユン」
テオの手が止まりかけた。
ミラが顔を上げた。ソジンの肩が、はっきり硬くなった。
ボクナムの目は焦点を結ばないまま、天井ではなく、誰かのいる方向を見ているようだった。唇が震え、乾いた舌が歯の間から名前を押し出す。
「ユン……ミンホ」
部屋の空気が一瞬で凍った。
老人はさらに背を反らせた。けいれんの中、痩せた手だけが布団をひっかき、まるで海の底から何かを掴もうとしているように動いた。そして、意識の薄れた声で、もう一度、はっきり呼んだ。
「ユン・ミンホ……先生を、呼べ……」
ソジンの手から、酸素マスクが床へ落ちた。
その島では、雨が降る前に患者が増える
20話 嵐の島に残る医師の決意
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