床へ落ちた酸素マスクを、テオは反射的に拾った。
「ソジンさん。こっちを見てください」
ソジンは答えなかった。ボクナムの顔を見ているのか、老人の口からこぼれた名を見ているのか分からない目をしていた。テオはマスクを老人の口元へ戻し、片手で押さえた。
「今は聞きません。支えてください。手首の下です」
その言葉で、ソジンの指がようやく動いた。血の気の引いた顔のまま、彼は老人の腕を下から受けた。ボクナムの体はまた強く跳ね、布団の綿がねじれた。
ジアゼパムはない。船もない。ヘリも来ない。
テオは選択肢を細かく切り分けた。けいれんを完全に止める薬はない。期限の近い解熱剤を使い、輸液で脱水を補正し、冷却で体温を下げる。残った酸素ボンベは二本半。一本を使い切らず、圧を見ながら交互に回すしかなかった。
「ミラさん、発作の始まった時刻を紙に。五分ごとに体温。酸素の残圧も書いてください」
「はい」
ミラの声も震えていたが、鉛筆はすぐ動いた。テオは静脈路を固定し、輸液を落とした。老人の細い血管、汗で湿った皮膚、発作で逃げる腕。その全部を、ソジンの手が必死に受け止めていた。
玄関のほうで低い声がした。
「開けろ。邪魔はせん」
グムレだった。濡れた作業上着の肩に風の塩を白くつけ、両腕に毛布と古い湯たんぽを抱えていた。彼女は部屋の隅へ膝をつき、何も言わずに湯たんぽを布団の足元へ差し込み、冷えた畳に毛布を敷いた。
「熱があるのに温めるんですか」
ボクナムの息子が戸口から言った。
「体の外を冷やしすぎると震えが増えます。頭と脇は冷やす。足元は冷やしません」
テオが答える前に、グムレが男を一瞥した。
「先生の口を塞ぐな。水を替えてこい」
男は言葉を飲み、洗面器を抱えて出ていった。グムレはそれきり黙った。冷水で濡らした布を絞り、テオが指す場所へ置く。額、首、脇。荒れた手だったが、布を替える動きは驚くほど静かだった。
発作は波のように来た。大きく反る時間があり、少し緩む時間があり、そのたびにテオは呼吸を数え、瞳孔を見て、脈に触れた。完全に治まったと思うには早く、悪化したと言うにはまだ手が残っている。そんな灰色の時間が続いた。
ソジンは海洋警察の無線機を握ったまま、老人の枕元に座り直した。片手は無線、片手は酸素チューブ。波が荒く、雑音しか返らない時も、彼は耳を離さなかった。
「こちらドレ島。高熱けいれん、高齢男性。搬送不可でも、医療指示だけでもつないでください」
返ってくるのは風の音と、待機せよという同じ答えだった。ソジンは怒鳴らなかった。ただ、次の呼びかけを少し早くした。
午前零時を過ぎる頃、ボクナムはまた目を開けた。焦点は合わない。唇だけが動き、空気を噛むように名を探した。
「……先生……呼べ……」
ソジンの喉が小さく鳴った。
テオは老人の肩に手を置いた。
「ここにいます。今は息をしてください」
それが嘘ではないことに、自分で驚いた。ハン・ジョンウではない。ボクナムが呼んだ先生でもない。けれど今この畳の上で、老人の呼吸を見ている医師はテオだった。
薬は、足りない分を分けて使った。解熱剤は投与間隔を守りながら最小量を選び、輸液は一本を最後まで空にせず、次の患者の可能性を頭の隅に置いた。酸素は一つのボンベに頼らず、残圧が下がるたびに別のボンベへつなぎ替えた。接続の数秒、ボクナムの胸の上下が浅くなる。そのたびにテオの背中へ汗が伝った。
「先生、次のボンベ、圧が低いです」
ミラが言った。
「低流量でつなぎます。マスクの隙間を作らないでください」
グムレがソジンの反対側へ回り、マスクの縁を押さえた。四人は、まるで何年もこの部屋で同じ夜を越えてきたかのように、それぞれの場所を守った。テオは判断をし、ミラは時刻と数値を書き、ソジンは外との細い線を握り、グムレは体温と家族の動揺を抑えた。
午前二時前、発作の間隔が伸びた。体の突っ張りは弱くなり、呼吸の荒さも少しずつ整っていく。だがテオは椅子に座らなかった。三時までは見ないといけない。再燃するなら、そこで来る。
外では雨がまだ落ちなかった。風だけが屋根を叩き、島全体が息を潜めているようだった。ボクナムの家族は廊下で膝を抱え、誰も大きな声を出さなかった。
午前三時十七分、ボクナムの胸がゆっくり上下した。十秒、十五秒、二十秒。脈はまだ速いが、乱れは小さい。体温は下がり始め、手足の硬さも抜けていた。
「落ち着いてきています」
テオがそう言うと、廊下の誰かが泣き出した。息子が部屋へ入ろうとしたが、グムレが掌だけで止めた。
「寝かせろ。泣くなら外で泣け」
テオはようやく椅子を引き、背にもたれた。背中が木に触れた瞬間、体の重さが一気に戻ってきた。指先は酸素チューブの跡で赤くなり、目の奥が熱かった。
叔父は、なぜ逃げられなかったのか。
テオはずっとそう考えていた。後任がいないから。船がないから。住民が薬を待つから。どれも理由だった。だが今、違うと分かった。逃げられなかったのではない。逃げないほうを選び続けたのだ。薬が足りず、船が止まり、答えを出せない夜でも、この部屋に残る誰かが必要だったから。
窓の外が白み始めた。雲の下に薄い光が入り、他人の家の狭い部屋にも朝は斜めに差し込んだ。ボクナムは深く眠っている。テオはミラに観察間隔と再発時の連絡を告げ、家族には水分と体温、呼吸の見方を短く説明した。
保健支所へ戻ったのは、朝の光が診察室の窓を横切る頃だった。テオは白衣を脱がず、机の前に座った。携帯を開く。ソウルの医局事務から未読が増えていた。復帰予定の再確認。昇進審査面談の時刻。オ教授からの短い催促。
テオは一つずつ返信した。
台風による欠航のため復帰予定を取り消します。再設定は未定です。
昇進審査の面談は辞退します。必要書類の提出も保留してください。
送信を押しても、胸は軽くならなかった。ただ、どこかに引かれていた糸が切れた感覚だけが残った。ソウルへ戻る道を閉じたのは海ではない。自分の指だった。
昼前、テオはもう一度ボクナムの家へ行った。熱は下がり、老人はまだ眠っていた。布団が乱れていたので、そっと胸元を直す。枕を少し上げた時、下から小さな布袋が滑り落ちた。
床に落ちた音は、あまりに軽かった。
グムレが戸口で動きを止めた。ソジンも、無線機を持ったまま顔を上げた。テオは布袋を拾った。古く、手垢で黒ずみ、一晩中握りつぶされていたようにしわが寄っている。
中から、薄い金属の名札が転がり出た。
赤い印が押されていた。ハン・ジョンウの印だった。十八年前の処方箋に残っていたものと同じ、少し欠けた朱の円。
そして名札の中央には、消されなかった五人目の名が刻まれていた。
ユン・ミンホ。
ソジンの顔から、最後の血の色が消えた。彼は一歩も動かないまま、かすれた声で言った。
「……それを、どこで」
ボクナムの閉じたまぶたが、答えるようにわずかに震えた。
その島では、雨が降る前に患者が増える
21話 ユン・ミンホの名札
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