テオは受話器を置くなり、白衣の袖を通さないまま肩へ引っかけた。診察室の明かりはまだ一つだけ点いていたが、窓の外は夜と夜明けの境目で、港の灯だけが濡れた路面に揺れていた。
扉を開けると、軽トラックのヘッドライトが保健支所の前を白く裂いた。運転席から若い男が身を乗り出した。細い顎に潮風で荒れた赤みがあり、眠っていない目でテオを見た。
「ユン・ソジンです。港から来ました。乗ってください」
テオは助手席へ飛び乗った。ソジンは返事を待たずにアクセルを踏んだ。荷台で古い工具箱が金属音を立てた。舗装の割れた坂を下るたび、車体が跳ね、救急バッグがテオの膝へ食い込んだ。
「どれくらい潜っていた」
「操業中です。正確には……一時間近く。網が絡んで、下で手間取ったって」
「浮上は」
「早かったそうです。上で待ってた人が、泡が変だって言って。引き上げたら、もう受け答えが変で、すぐ動かなくなりました」
テオは窓の外へ目をやった。防波堤の向こうで白い波が砕けている。風は昨日より強く、車の窓を薄く震わせた。
『減圧症』
言葉は頭の中でほとんど確定していた。急浮上、意識障害、関節のこわばり。ソウルならすぐ高濃度酸素を流し、モニターにつなぎ、高気圧酸素治療の手配を同時に走らせる。だがこの島には、心電計さえまともに動かない。
防波堤に近づくと、漁船の作業灯がいくつも揺れていた。人影が甲板と岸壁の間を行き来し、誰かが濡れたロープを引きずっていた。
「先生!」
男たちの輪の中心に、カン・ボンシクが横たえられていた。厚い潜水服の胸元は乱暴に開かれ、頬は灰色がかっている。大柄な体なのに、呼吸だけが小さく浅かった。
テオは膝をつき、首筋に指を当てた。脈は触れたが速く、頼りない。まぶたを開くと、瞳は光に鈍く反応した。口元へ耳を寄せると、吸う息より吐く息のほうが長く途切れていた。
「ボンシクさん。聞こえますか。ハン・テオです」
返事はなかった。テオは肩と肘を触った。関節は奇妙に固く、腕を伸ばそうとすると抵抗があった。膝も同じだった。痙攣ではない。体が痛みを避ける形で固まっている。
「潜水深度は」
「今日は深いほうだ。潮が悪くて、三十メートル近くまで行ったって」
「上げてから歩かせましたか」
「歩けるわけないだろう。みんなで抱えて……」
「もう立たせないでください。動かさない。濡れた服を切って、体を冷やさないようにする。水は飲ませない」
テオの声は自分でも驚くほど短くなった。考える時間を言葉に使えば、その分だけ遅れる。
後ろでざわめきが広がった。
「これ、潜り病か」
「本土へ連れていけばいいんだろう」
「若い先生に分かるのか。所長ならすぐ船を出せって言ったんじゃないのか」
グムレがその声を裂くように進み出た。夜明け前だというのに、もう作業上着を着ていた。白髪を後ろで縛り、濡れた岸壁に裸足同然の足を踏ん張っている。
「今すぐ船を出す。ここに寝かせて何になる」
「揺れる船で二時間以上です。途中で呼吸が落ちれば終わりです」
「ここに置いても終わるだろう」
グムレの声は低かった。十年前、船を待つあいだに娘の手が冷たくなったという言葉が、テオの胸の内側を刺した。彼女にとって待つことは、見殺しと同じ意味を持っていた。
「救助ヘリは」
テオがソジンを見ると、彼はすでに携帯を耳に当てていた。風で聞き取りにくいのか、片手で反対の耳を押さえている。数秒後、顔をしかめて電話を切った。
「高波と風で飛べないそうです。海洋警察の連絡船も、出せるか確認中だって」
「ワンドの救急外来までは」
「この波なら、二時間半。速くても二時間です」
二時間。テオはボンシクの胸の上下を見た。今の呼吸で二時間を耐える保証はない。高気圧酸素チャンバーは、ワンドにさえないはずだった。大学病院でなら選択肢の一覧に書かれるものが、ここでは地図の外にある。
「酸素はどこにありますか」
誰も即答しなかった。
「保健支所の濃縮器だけでは足りません。ボンベです。漁協の倉庫、海女会の倉庫、船に積んであるもの、全部持ってきてください。古くてもいい。圧力計を見ます」
「潜水用の空気ボンベならある」
「今必要なのは酸素です。医療用か、救急用。ラベルを確認して」
ソジンが走り出した。数人の男も続いた。グムレはしばらくテオを見ていたが、海女たちへ短く命じた。
「倉庫を開ける。毛布も持ってこい」
その一言で、止まっていた人影が動き始めた。テオはボンシクの気道を確保し、顎を上げたまま横向きに保った。濡れた潜水服を脱がせるには時間がかかりすぎる。彼はナイフを借り、胸元と首回りだけを切り開かせた。
「寒がっていたか」
「上げたとき、痛いって言ってた。肩と腰と……それから、足が変だって」
「吐きましたか」
「少し。すぐ意識が遠くなった」
テオはバッグから血圧計を出した。カフを巻き、手動で圧をかける。波の音と人の声に紛れて、音はひどく聞き取りにくかった。数値は低めだった。体温も落ち始めている。
「毛布、もっと。濡れた床から離すものを。板でも箱でもいい」
指示を出すたびに、住民たちは一瞬だけ互いの顔を見た。それから動いた。信じたからではない。ほかにすることがないからだった。
グムレだけがまだ彼のそばに立っていた。
「先生、あんたは船を出すなと言うんだね」
「今すぐ出しても、船の上でできる処置がありません。先に酸素を入れます。呼吸を保って、搬送方法を決めます」
「決めてる間に死んだら」
テオの手が一瞬止まりかけた。だが止めれば、彼女の言葉の通りになる。
「その可能性を減らすために、今できることから始めます」
平らな声で言った。確信があったわけではない。確信の代わりに、手順だけを積み上げていた。
ソジンが戻ってきたのは、その数分後だった。両腕に古い緑色のボンベを二本抱え、肩からもう一本を吊り、後ろの男がさらに一本転がすように運んできた。金属の表面には塩で白い粉が吹いていた。
「倉庫にあったのはこれだけです。所長が昔、置いていったって」
テオは一本目のバルブを確認し、圧力計を見た。針は赤い目盛りの下、ほとんど底に触れていた。二本目も同じ。三本目は針が動かない。四本目は、叩くとわずかに震えたが、実用になる量ではなかった。
「空なのか」
誰かが言った。声に責める響きが混じっていた。誰を責めているのか、本人にも分かっていないようだった。
テオは黙って四本を並べた。ソウルなら、酸素は壁から出るものだった。残量を心配するのは研修医の仕事ですらなかった。ここでは、針の位置がそのまま命の残り幅になる。
ボンシクの唇の色が変わり始めた。灰色の下に、青紫が薄く広がっていく。鼻翼が小さく動き、息を吸おうとするたび、胸の中心が不自然に沈んだ。
「先生」
ソジンの声がかすれた。
テオは一番ましなボンベを選び、酸素マスクの接続部を探した。古いゴムは硬く、指先にひび割れの感触があった。流量を上げればすぐ尽きる。下げれば足りない。船を出せば揺れと時間が奪う。ヘリは来ない。本土は遠い。チャンバーはない。
選択肢が、紙の上の項目ではなく、目の前で一つずつ消えていく。
そのとき、ボンシクの喉がかすかに鳴った。次の呼吸が来るまでの間が、さっきより長い。
テオは圧力計の底を指す針から目を離し、青くなっていく唇を見た。もう待つ側には回れなかった。
「船を出す準備は続けてください。ただし、ここで処置を始めます」
彼はマスクをボンシクの顔に押し当てた。残された酸素が何分もつのか、誰にも分からなかった。
その島では、雨が降る前に患者が増える
5話 酸素の線が途切れる夜
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