マスクを押し当てた瞬間、古いゴムの縁から酸素がかすかに漏れた。テオは指で隙間をふさぎ、流量計の球が震えるのを見た。全開にしたい衝動を飲み込む。今それをすれば、数分後には何も残らない。
「ゆっくり。マスクを外さないで。顔に合わせて押さえてください」
そばの男が慌てて手を添えたが、力が強すぎた。
「押しつぶさない。密着だけでいい」
ボンシクの胸が一度、大きく沈んだ。次の呼吸まで、周囲の全員が数を数えているように黙った。テオは首筋に指を置いたまま、古いボンベの針を見続けた。赤い目盛りから針はほとんど動かない。残っているのか、圧がないのか、それすらはっきりしなかった。
「岸壁は冷えます。船室へ入れます。ただし揺らさない。頭と首をまっすぐ。三人で持って、一度で上げる」
「船を出すのか」
「今は出しません。風を避けるだけです」
テオが言うと、住民たちはまた一瞬だけ顔を見合わせた。それでも、今度は動きが早かった。漁船の甲板へ板を渡し、濡れた床に毛布と発泡箱を敷く。ボンシクの大柄な体を動かすたび、彼の喉からかすれた音が漏れた。痛みなのか、息が詰まっただけなのか、判断できない。
狭い船室へ入ると、油と海水の匂いがこもっていた。天井は低く、テオが腰を折らなければならないほどだった。作業灯の光が揺れ、ボンシクの灰色の顔だけが浮かんで見えた。
「濡れた部分を切る。胸と腹は冷やさない。足は動かさないで。誰か、時計を見ていてください。呼吸の間隔を言う」
「俺が見ます」
ソジンが膝をつき、携帯の画面を点けた。眠っていない目の奥に、恐怖を押し込めた硬さがあった。
「十秒……十一、十二」
「声に出して続けて」
テオは二本目のボンベをつないだ。一本目の針が落ちる前に、数分だけでも切り替える。圧のあるほうを探し、弱いほうを休ませる。意味があるかどうかは分からない。それでもゼロよりはましだった。
「ソジンさん。船主たちに聞いてください。漁船の温水ラインをここへ引けるか。エンジンをかけて、熱い水をバケツで回すんじゃなく、ホースで。火傷させない温度で毛布を温めます」
「分かりました」
ソジンは立ち上がりかけ、すぐに戻った。
「嫌がる船主もいます。燃料がどうとか、機械が傷むとか」
「説得してください。今、体温が落ちたら呼吸も落ちます」
それ以上の説明はいらなかった。ソジンは船室を飛び出した。外で怒鳴り合う声が上がり、エンジンの低い唸りが一隻、また一隻と重なっていった。
グムレは入口に立ったまま、ボンシクの足元を見ていた。海女たちが毛布を抱えて戻ってきても、彼女はなかなか指示を出さなかった。
「海女会の古い装備がありますね。救急用の酸素マスク、減圧器、使っていないものでもいい」
グムレの目が細くなった。
「あれは娘らが海で使うものだ。古い。壊れてるかもしれない」
「壊れていない部品だけ使います。今は選べません」
彼女はしばらく黙っていた。十年前、船を待つ間に娘を失った女の沈黙だった。差し出すものが遅すぎると知っている人間の顔だった。
「持ってこい」
低い声が船室の外へ落ちた。
「会長、あれは」
「持ってこいと言った」
海女たちは走った。戻ってきた袋の中には、硬くなったチューブ、古いマスク、錆の浮いた金具、手入れだけはされていた減圧器が入っていた。テオは使えるものを選び、割れた部品を捨て、接続部を布で拭いた。完全ではない。清潔でもない。だが、今ここで肺へ届く酸素を増やすには、それしかなかった。
「三分ごとにボンベを確認。針がここより下がったら言ってください。毛布は濡れたら替える。水は口に入れない。吐いたら顔を横へ。誰も体を起こさない」
短く叫ぶたび、誰かがうなずいた。さっきまで疑いと怒りで固まっていた住民たちが、狭い船内でそれぞれの場所を見つけ始めていた。海女は毛布を替え、男たちは温水を運び、ソジンは船主たちを押し切ってホースをつながせた。熱を持った湯気が床を這い、冷えた金属の匂いを少しだけ押しのけた。
それでもボンシクの体は温まらなかった。テオが脇に差し込んだ体温計は低い数字を示したまま上がらない。唇の青紫は濃くなり、指先は爪の下から色を失っていく。
『高気圧酸素治療』
ソウルのマニュアルなら、最初の一行にそう書かれる。搬送、再圧、集中管理。分かりきった手順だった。だがワンドにもチャンバーはない。ソジンが再び無線をつかみ、海洋警察とやり取りしたが、返ってきたのは風が少し落ちるまで待つという答えだけだった。
「ワンドにも、やっぱりチャンバーはないそうです」
ソジンの声はかすれていた。
「いちばん近いのは」
「本土の大きな病院まで、さらにかかるって」
テオは返事をしなかった。知っていたことを、誰かの口から聞くと、限界はさらに重くなる。彼はボンシクの瞳孔を確認し、胸の動きに合わせてマスクを支え直した。
「呼吸、何秒」
「二十……二十一」
ソジンが答える。
「さっきより長いです」
「数え続けて」
テオは言いながら、恐怖が喉の奥まで上がってくるのを感じた。患者の前で恐怖を見せない訓練は受けてきた。だがソウルでは、恐怖の向こうに呼べる人がいた。上級医、技師、看護師、集中治療室、清潔な酸素配管。ここには、濡れた船室と、底の見えたボンベと、自分の手しかなかった。
午前一時を過ぎると、外の風が少し弱まった。代わりに、船室の中の音がはっきり聞こえるようになった。ボンシクの浅い息。マスクから漏れる酸素の細い音。温水ホースを握る男の歯が鳴る音。誰も余計なことを言わなかった。
「先生」
グムレが初めて、問い詰める声ではなく呼んだ。
「このまま、朝まで持つのか」
テオは答えを探した。持つと言えば嘘になる。持たないと言えば、ここにいる全員の手が止まる。
「持たせます」
それは医学的な予測ではなかった。願いに近い言葉だった。グムレはそれを聞き分けたのか、何も言わずに毛布の端を押さえた。
二本目のボンベがほとんど空になり、三本目へ替えた。圧力計の針は頼りなく震えただけだった。テオは流量をさらに絞った。最低限、口元へ酸素が流れていることだけを確かめる。高濃度とは呼べない。治療と呼ぶにも足りない。ただ、途切れさせないための線だった。
ボンシクの指先に触れると、冷たかった。爪の色はもう青いというより、暗く沈んでいた。胸の上下はさらに小さくなり、呼吸と呼吸の間に空白ができる。その空白のたび、テオは自分の息まで止めて待った。
「二十六……二十七……」
ソジンの声が震えた。
「吸いました」
小さな胸の動き。全員が同時に息を吐く。だが安堵は長く続かなかった。次の間隔はもっと長かった。
午前二時を知らせる船の小さな時計が、壁で乾いた音を立てた。その音に合わせたように、グムレがテオの肩越しにボンシクを見下ろした。
「先生」
彼女は初めて、答えを命じるのではなく、求める声を出した。
「次は、何をすればいい」
その一言が、船室の空気を変えた。疑いでも怒りでもない。島の人間が、目の前の命を預けるために発した問いだった。
テオは口を開きかけた。気道をもう一度確認する。換気を補助する。胸骨圧迫の準備。手順は頭の中にあった。だがその前に、首筋に置いた指の下で、ボンシクの脈が糸のように細くなった。
一拍。
長い沈黙。
もう一拍を待った。来なかった。
テオの指先から、最後の震えが消えた。船室の誰かが息を呑む音がした。テオは顔を上げず、低く、しかし全員に届く声で言った。
「どいてください。胸を押します」
その島では、雨が降る前に患者が増える
6話 戻った脈、動かない足
次の話