「どいてください」と重ねて言うより先に、テオは膝を床へついた。
船室の床は鉄板の冷えをまだ残していた。温水ホースから漏れる湯気が足元を白く曇らせていたが、ボンシクの胸はもう上下していない。テオは胸骨の位置を指で探り、両手を重ねた。
「ソジンさん、時間を。圧迫、始めます」
ソジンが携帯を握り直した。画面の光に照らされた顔は土気色だった。
「はい」
テオは腕を伸ばし、体重を落とした。最初の一回で、ボンシクの肋骨の奥が鈍く沈む感触が手のひらに返った。船室の誰かが短く声を漏らしたが、テオは止まらなかった。
「一、二、三、四」
数字だけを口にした。余計な言葉を挟めば、間隔が乱れる。圧迫するたび、鉄板の床がかすかに震え、その振動が膝から骨へ伝わった。生きている反応ではない。彼の手が作っているだけの動きだった。
「気道、もう一度。顎を上げます。マスクを密着。息を入れるときだけ、ゆっくり」
古いマスクを押さえていた男の手が震えていた。テオは圧迫を続けながら顔を上げずに言った。
「怖ければ交代してください。今、力が抜けるほうが危ない」
男は唇を噛み、手を固定した。グムレが背後からその手首を支えた。
「動かすな。先生の言うとおりにしろ」
低い声だった。さっきまでテオを責めていた声ではない。船室の狭い空気を押さえ込む、重い命令だった。
「三十。息を二回」
圧迫を止めた短い隙に、テオはボンシクの顎を持ち上げた。古いバッグはなかった。マスク越しの酸素と、胸がわずかに持ち上がるかどうかだけを頼りにするしかない。男が慎重にマスクを押さえ、テオが胸の動きを見た。
一回目。胸はほとんど動かない。
「顎、もっと上げる。舌が落ちています」
二回目。胸の中央が小さく持ち上がった。
「続けます」
また圧迫へ戻る。汗が額から落ち、ボンシクの冷たい胸に当たった。外ではエンジンの低い音が一晩中うなり、港の作業灯が窓の隙間から揺れていた。漁船の明かりはどれも消えていない。誰も帰ろうとしなかった。
「毛布、替えます!」
海女の一人が濡れた毛布を引き抜き、別の者が温めた毛布を差し込んだ。胸骨圧迫の邪魔にならないよう、肩と腹だけを覆う。その動きは初めよりずっと速く、誰かの指示を待つ前に次の手が伸びていた。
「湯、もう一本!」
「ホースの温度、熱すぎる。下げろ」
「酸素、針がまた落ちる!」
声が重なった。けれど混乱ではなかった。狭い甲板と船室のあいだで、住民たちは初めて同じ方向へ動いていた。誰が海女で、誰が船主で、誰が昨日までテオをにらんでいた男なのか、その境目は汗と湯気の中で薄くなっていた。
ソジンは入口のそばで無線機を握りしめていた。携帯は何度も圏外になり、海洋警察との連絡は途切れがちだった。
「こちらドレ港、急患一名、心停止から胸骨圧迫中。減圧症疑い、酸素残量少ない。連絡船の到着見込みをもう一度」
雑音だけが返った。ソジンは歯を食いしばり、アンテナを窓の外へ突き出した。
「聞こえますか。こちらドレ港。患者、まだ生きています。搬送を待っています」
まだ生きています。
その言葉が、テオの手に重く落ちた。医学的には、今この瞬間は心拍がない。けれど住民たちは、その言葉で手を動かし続けている。テオは訂正しなかった。胸を押した。
「交代しますか」
グムレがそばへ膝をついた。白髪の根元まで汗で濡れていた。
「できるなら、圧迫の位置をずらさないでください。肘を曲げない。僕が数えます」
グムレは一瞬だけ目を閉じた。それからテオの手と同じ場所へ手を置いた。細い体に似合わない力で押す。深さは足りない。
「もっと下まで。怖がらないで」
「骨が折れる」
「折れても、止めたら死にます」
グムレの顔がこわばった。次の圧迫は深かった。テオはその横でボンシクの首筋に指を当て、息の入りを見た。圧迫のたび、かすかな波が血管の奥に触れる。自発の脈ではない。それでも血液は少しずつ脳へ送られているはずだった。
二分ごとに交代した。テオ、グムレ、港の男。ソジンは無線を離さず、空いた手で時間を告げた。酸素ボンベは最後の一本になった。針は赤い線の上で震え、いまにも落ちそうだった。
「先生、海洋警察、連絡船を出すそうです。風が少し落ちたって。ただ、到着まで……早くて一時間半」
一時間半。テオは圧迫を止めずに計算した。酸素はもたない。ボンシクの脳も、脊髄も、減圧で傷ついている可能性がある。心拍が戻っても終わりではない。むしろ、そこからが始まりだった。
「酸素は最小で続ける。圧迫を優先。体温を下げない。意識が戻っても動かさない」
「戻るんですか」
誰かが尋ねた。テオは答えなかった。答えは、手の下にしかない。
三度目の交代で、テオは再び胸に手を置いた。肩が熱を持って痛み、指先の感覚が鈍くなっていた。それでも圧を抜くたび、同じ位置へ戻す。船室の時計は二時四十分を過ぎていた。外の空はまだ黒い。
「二十八、二十九、三十。息」
胸が上がった。今度はさっきより大きい。テオは首筋へ指を戻した。
何もない。
もう一度、胸骨圧迫に入る。
十回目を数えたところで、指先に何かが触れた気がした。テオは数を止めなかった。思い込みなら危険だ。二十、二十一。もう一度、首筋へ触れる。圧迫のリズムではない、遅く、弱い拍動があった。
「止めるな。確認します」
彼は耳を口元へ寄せた。浅い。だが、自分で吸おうとしている。喉の奥から濁った音が漏れ、ボンシクの胸が引きつるように持ち上がった。
「脈、戻っています。弱い。呼吸、補助を続けます」
船室の空気が一斉に緩みかけた。
「まだ騒がない。体を動かさない」
テオの声で、その緩みはかろうじて止まった。グムレは両手を膝に置いたまま、肩で息をしていた。誰かが泣き出しそうな声でボンシクの名前を呼んだが、彼女が振り向きもせず制した。
「静かにしろ」
それからの時間は、長く薄い膜の上を歩くようだった。脈は戻ったが、いつまた消えてもおかしくない。呼吸は荒く、時々止まりかける。テオは気道を開き続け、酸素の線を最後まで絞ってつなぎ、毛布の位置を直した。ソジンは十数分ごとに無線で位置を確認し、グムレは海女たちを甲板へ出して温水と乾いた布を絶やさなかった。
夜明け前、港の向こうが鈍い灰色に変わり始めた。漁船の作業灯がまだ全部点いているのを見て、テオは一瞬だけ目を細めた。誰も帰っていない。その事実は、疲れ切った体へ奇妙な重さで落ちてきた。
ボンシクのまぶたがかすかに動いた。
「ボンシクさん。聞こえますか。ハン・テオです。動かないでください」
荒い息がマスクの内側を白く曇らせた。ボンシクの目が少しだけ開いた。焦点は合っていない。それでも、戻ってきた意識だった。
「……ここ、どこだ」
「船です。港にいます。今から本土へ送ります」
船室の外で押し殺した安堵の声が広がった。誰かが甲板の手すりを叩き、別の誰かが泣き笑いのような息を吐いた。ソジンは無線機を握ったまま顔を伏せ、グムレは壁に片手をついて立ち上がった。
テオだけは、まだ表情を変えなかった。ボンシクの瞳を確認し、手を握らせ、左右の力を比べた。腕は弱いが反応がある。問題は、足だった。
「足を動かせますか。つま先だけでいいです」
ボンシクは眉を寄せた。唇が震えた。
「……先生」
その呼び方に、船室の安堵が止まった。
「足が、変だ。あるのに……ないみたいだ」
グムレの顔から色が引いた。十年前、船を待った夜の記憶が、その皺の奥へ一瞬で戻ったのが分かった。テオはすでに理由を理解していた。減圧症が中枢神経に入っている。脊髄がやられていれば、心拍が戻ったことだけでは救えない。
「痛みを見ます。答えてください」
彼はボンシクの足元へ移り、毛布を少しだけめくった。冷たいつま先を親指と人さし指で挟み、爪の付け根を強く押した。
「今、分かりますか」
ボンシクは天井を見たまま、息だけを荒くした。
「……何を、したんだ」
テオはもう一度、反対側のつま先をさらに強く押した。反応はなかった。引っ込める動きも、痛みを避ける震えもない。
甲板の外で、海洋警察の連絡船の警笛が遠く鳴った。助けが来る音だった。だがテオの背筋は、夜の底より冷たくなった。
「ソジンさん、到着したらすぐ伝えてください。心拍は戻った。でも足の感覚がない」
グムレがかすれた声で言った。
「それは、治るのか」
テオはボンシクの動かない足を見下ろした。朝の光が船室の入口から差し込み、濡れた鉄板の上に細い線を作っていた。
「時間との勝負です」
そう答えた瞬間、ボンシクの足は、もう一度強い刺激を受けても、ぴくりとも動かなかった。
その島では、雨が降る前に患者が増える
7話 震える手と三つの赤い線
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