足は動かなかった。
テオはその事実を、船室にいる誰よりも先に体の奥で受け止めた。心拍は戻った。呼吸も、自分で吸おうとしている。だが爪の付け根を押しても、足首を曲げても、ボンシクの表情は痛みを探すだけで、体は反応しなかった。
「触っているのは分かりますか」
「……分からん。足が、遠い」
テオは毛布を戻し、濡れた部分をもう一枚の乾いた布で覆わせた。減圧症による脊髄障害。言葉にすれば短い。けれどその言葉は、この男がもう一度海へ潜れるか、歩いて家へ帰れるかを左右する重さを持っていた。
「酸素は続けます。流量を急に上げない。体を冷やさない。担架に移す時も、首と背中をまっすぐ」
「先生、連絡船、港に入ります」
ソジンの声と同時に、甲板の外で警笛が近く鳴った。灰色の朝の中、海洋警察の連絡船が白い波を割って岸壁へ寄ってくる。船室にいた者たちの肩から力が抜けかけたが、テオは手を上げて止めた。
「今がいちばん危ないです。揺らさないでください」
救急隊員が二人、担架と酸素バッグを抱えて飛び込んできた。テオは短く状態を伝えた。潜水後の意識消失、心停止、胸骨圧迫、自己心拍再開、下肢感覚消失。言葉を削り、必要な情報だけを並べる。隊員の顔が一段硬くなった。
「高気圧酸素治療が必要です。受け入れ先に神経症状ありと必ず伝えてください」
「了解しました」
ボンシクを担架へ移す時、船室の全員が息を止めた。大柄な体は信じられないほど重く、けれど誰も乱暴に持ち上げなかった。グムレは足元側に立ち、毛布がずれないよう押さえた。指先に血の気は戻りきっていない。白髪の結び目から落ちた汗が顎を伝っても、彼女は拭かなかった。
「ボンシクさん。今から本土へ行きます。動かないで。息だけ続けてください」
ボンシクのまぶたが震えた。マスクの内側で、唇が何かを作ろうとした。声にはならなかった。担架が船室の出口を越える瞬間、彼は毛布の下から片手をゆっくり持ち上げた。指先は震え、手首はすぐに落ちそうだった。
それでも、その手はテオのほうへ向いていた。
礼なのか、頼むという合図なのか、本人にも分からなかったかもしれない。テオはその手に触れなかった。触れれば、余計な力を使わせると思った。ただ目を合わせ、短くうなずいた。
「行ってください」
担架は連絡船へ運ばれていった。ソジンが隊員に付き添い、最後の状態をもう一度伝える。エンジン音が高くなり、白い船体が港を離れた。ボンシクの手は、出航の直前まで担架の上でかすかに持ち上がっていた。
グムレは船首を見つめたまま何も言わなかった。怒りも、問いも、感謝もなかった。ただ肩の線だけが硬く、十年前の別の船を同じ場所から見送った人間の背中だった。テオはその横に立ったが、声をかけなかった。言える言葉はどれも遅すぎた。
午後、保健支所の前には初めて列ができた。
最初に来たのは、血圧の薬を二か月先延ばしにしていた老人だった。次に、糖尿の薬が切れかけている女。咳が続く夫を連れてきた妻。入口の前でためらっていた親たちは、子どもの手を引いたり、背中に負ぶったりして、互いの顔色を見ながら少しずつ中へ入った。
朝まで港にいた者もいた。テオを疑い、船を出せと怒鳴った者もいた。彼らは今、受付の前で名前を告げる時だけ声を低くした。
「診療録が古いままの方は、新しく作ります。名前、生年月日、飲んでいる薬を分かる範囲で」
テオは一人ずつ呼んだ。ソウルでは病室番号が先に浮かんだ。だがここでは、名前を呼ばなければ誰も診察室へ入ってこない。古いカード箱は叔父の字で埋まっていたが、抜けも多く、薬の記録は何週間も途切れていた。
「キム・ヨンスさん」
「はい」
老人の血圧を測り、残薬を確認し、処方を組み直す。次に子どもの咳を聞き、喉を見て、熱の経過を尋ねる。薬棚はまだ貧弱で、検査も足りない。それでも扉の外の列は途切れなかった。
グムレは待合室の端に立っていた。診察を受けるわけではない。ただ親たちが騒ぎ出さないよう、老人が順番を抜かさないよう、低い目で見ている。彼女がそこにいるだけで、保健支所の空気は少し整った。
「次、チェ・ミンジュ」
若い母親が五歳くらいの女の子を椅子に座らせた。子どもは恥ずかしそうに袖口を握りしめている。
「熱は?」
「昨日の夜に少し。朝には下がりました。虫に刺されたみたいで、かゆがるんです」
テオは腕を出してもらった。左の肘の内側から上腕にかけて、淡い赤の発疹が細く連なっていた。湿疹にしては境界が妙にはっきりしている。掻いた跡だけではない。丸いものと線状のものが混じり、同じ幅で肩のほうへ伸びていた。
「いつからですか」
「三日前くらいです。海風に当たったからだと思います」
テオは診療録に日付と部位を書いた。発熱、発疹、左上肢。子どもはかゆいと言いながらも元気に足を揺らしている。重症感はない。けれど、視線が紙から離れなかった。
「次」
二人目の子どもは男の子だった。母親は咳だけを訴えたが、聴診のため服をめくった時、テオの手が止まった。右の肘から肩へ、さきほどとほとんど同じ赤い発疹が走っていた。
「これは?」
「ああ、それも虫です。島はこの時期、みんな出ますから」
母親は軽く笑った。テオは笑わなかった。左右は違う。だが部位と広がり方が似すぎている。彼は発疹の端を指で軽く押した。色は一度薄くなり、すぐ戻った。
「熱はありましたか」
「少しだけ。すぐ下がりました」
同じ答えだった。
待合室のざわめきが遠くなった。テオは叔父の古いカード箱を一瞬見た。そこには、発熱、湿疹、感冒という短い言葉が何枚も埋もれているはずだった。今まで別々に処理されてきたものが、目の前で同じ形を取り始めていた。
「次、パク・ヘリン」
三人目の子どもは母親の膝の上で眠そうにしていた。母親は申し訳なさそうに笑いながら言った。
「先生、うちは本当に大したことないんです。隣の子たちが来るって言うから、ついでに。少し赤いだけで」
テオはうなずき、袖を上げた。
その瞬間、指が止まった。
肘の内側から肩の手前まで、同じ形の発疹が広がっていた。淡い赤、細い連なり、途中で枝分かれするような線。先の二人より範囲が広く、境界はもっとはっきりしていた。眠そうだった子どもは、テオの視線を見て不安になったのか、母親の服をつかんだ。
「ね、大丈夫でしょう? 子どもは肌が弱いから」
母親の笑い声が診察室に落ちた。周りに聞こえれば不安が広がる。そう思って、あえて明るくしている声だった。
だがテオには、その笑い声が聞こえていないようだった。彼は子どもの腕を支え、発疹の境界を指先でゆっくりとなぞった。肘から肩へ。一本、二本、枝分かれした赤い線。三人分の腕が頭の中で重なった。
偶然ではなかった。
テオは顔を上げずに、低く言った。
「ソジンさん。今日来た子どもの名前を、全員別の紙に書いてください。発疹がある子は部位も。薬を出す前に、もう一度全員の腕を見ます」
待合室のざわめきが止まった。入口に立っていたグムレの目が細くなる。
母親の笑みが、そこで初めて消えた。
その島では、雨が降る前に患者が増える
8話 同じ月へ戻る三つの症状
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