赤い雨が降っていた。
それは水ではなかった。熱を失った血と、焼けた鉄粉と、記憶牧場の空から落ちてくる感情残滓が混ざったものだった。戦場の名はラケイア第七十八仮想戦線。地球の地図には存在しない惑星の、存在しない国境線。だがそこで裂かれる肉の痛みだけは、嫌になるほど本物だった。
チョン・ユチャンは泥の中に片膝をついていた。左肩から先はもうなかった。腹には異形兵の湾曲した刃が深く刺さり、刃先が背中から覗いている。肺に入る空気は焦げ臭く、息を吐くたびに喉の奥で泡が潰れた。
目の前で、兜をかぶった誰かが叫んでいた。
「隊長、後退命令を!」
その言語を、ユチャンは知らない。知らないはずなのに理解できた。今回の肉体に流し込まれた兵士の記憶が、命令系統と恐怖だけを自動的に訳してくれるからだ。
『またこの手順か』
ユチャンは心の中で呟いた。
恐怖はなかった。もう残っていなかった。死は初めてなら崖だった。十回目なら穴だった。百回を越えると扉になり、千回に近づく頃には、自分は開け閉めの順番まで覚えた機械になっていた。
敵の刃が胸骨の間を割った。視界が白く跳ね、次に黒く潰れる。普通ならそこで終わるはずだった。
だがユチャンは、終わらないことを知っていた。
次に目を開けた時、彼は別の戦場に立っていた。膝下まで雪に埋まり、手には木製の槍。次は砂漠の塹壕。次は鉄の城壁。次は宇宙船の通路。死に方は毎回違った。首を刎ねられ、焼かれ、圧潰され、毒で内臓を溶かされ、味方の砲撃に巻き込まれた。
十年。
地球の暦で十年なのか、ラケイアの牧場で数えた十年なのか、ユチャンにも正確には分からなかった。ただ、彼が死んだ数だけは身体が覚えていた。死の直前に跳ねる心臓、骨が割れる音、失禁する兵士の臭い、助けを求める声。それらは全部、牧場の管理者たちに吸い上げられた。
ラケイア人は人間を鉱夫として連れてきたのではなかった。
彼らにとって人間は、深層鉱脈を掘る道具であり、同時に恐怖を搾る家畜だった。戦場に放り込み、後悔を育て、忠誠心を植えつけ、裏切りを誘発し、最後に死なせる。死の寸前に最も濃くなる精神反応を刈り取り、記録し、分類する。
誰が恐怖で従うか。誰が希望で立つか。誰が仲間を売るか。誰が最後まで命令を守るか。
そのすべてが、ラケイアの食料であり、兵器資料だった。
「起床。次の記憶群へ移行」
空の上から声が降った。人間の声帯では出せない、金属片を噛み砕くような音だった。
ユチャンは目を閉じたまま、わずかに笑った。
管理者たちは知らなかった。家畜が柵の形を覚えることを。屠殺場へ向かう道順を、死ぬたびに数えていたことを。
最後の日、彼は戦場にいなかった。
清掃奴隷の灰色の布をかぶり、長い柄のブラシを押しながら、中央制御棟の廊下を歩いていた。背中は曲げ、足音は他の奴隷と同じ幅にした。警備個体の視線が通る周期は二十四秒。床下の赤い脈管が収穫データを送る間隔は七秒。彼は十年の死で覚えた数字を、ひとつも忘れていなかった。
中央制御室の扉は、奴隷の網膜では開かない。
だからユチャンは、前日の戦場で死ぬ直前に噛み千切っておいた監督兵の指を、布の中から取り出した。腐りかけた指先を認証盤に押しつけると、扉が低く唸った。
中には巨大な柱が立っていた。柱というより、透明な棺だった。無数の人間の記憶が光の粒になって流れ、その中心で黒い欠片が脈打っている。
管理者コア。
本体ではない。端末の欠片にすぎない。だがラケイアの命令文と牧場の接続権限を持つ、唯一の異物だった。
「清掃個体、停止」
背後で声がした。
ユチャンは振り返らなかった。ブラシの柄を折り、中に隠していた骨片を取り出す。何百回も戦場で死ぬ中、同じ形の封印を見つけるたびに、削り方だけを練習してきた道具だった。
封印に骨片を差し込む。焼けるような痛みが腕を走った。爪が剥がれ、皮膚の下を数字が這い回る。それでも彼は手を離さなかった。
「停止せよ。おまえは記録資産だ」
「違う」
十年ぶりに、ユチャンは自分の声で答えた。
「俺は廃棄予定品だ」
封印が砕け、黒い欠片が掌に落ちた。思ったより小さかった。奥歯ほどの大きさしかない。これのために、自分は何百回も死んだのかと思うと、笑いが込み上げた。
警報が鳴り響いた。赤い光が制御室を塗り潰し、壁面の記憶群が一斉に震えた。追跡者が来る。執行官が来る。牧場全体が、たった一匹の家畜を捕まえるために動き出す。
ユチャンは迷わなかった。
黒い欠片を口へ放り込み、噛まずに飲み込んだ。
喉が焼けた。内側から鋭い爪で裂かれるようだった。欠片は食道を落ちず、喉の奥に食い込んだまま脈打った。血が口の端から流れたが、彼は両手で首を押さえて耐えた。
捕まったのは、その三分後だった。
処刑台は牧場の中心にあった。これまで数えきれないほど見上げてきた刃が、今度は彼の頭上に吊られている。両腕は金属の輪で固定され、膝は石床に押しつけられていた。周囲には管理者たちが並び、人間の形を真似た仮面の奥で、冷たい光を揺らしていた。
執行官が前へ出た。背が高く、首が異様に長い個体だった。
「吐き出せ」
命令は韓国語ではなかった。だが脳に直接刺さり、意味だけを強制的に理解させた。
ユチャンは血を吐いた。だが欠片は吐かなかった。
「吐き出せ。管理者コアの断片は、記録資産が所有する物ではない」
「なら」
喉が潰れて、声はかすれていた。
「取りに来い」
執行官の仮面に、初めて感情らしき揺れが走った。怒りではない。理解できないものを見た時の、わずかな停止だった。
ユチャンはそれだけで十分だった。
こいつらにも分からないことがある。人間が最後の瞬間に何を握り締めるのか。どれだけ痛めつけても、何を手放さないのか。
刃が上がった。
処刑台の向こうに、赤い戦場の空が広がっていた。十年のあいだ、彼を殺し続けた空。そこに浮かぶ収穫ルーンが、一斉に彼の精神反応を測っている。
恐怖。後悔。怒り。忠誠心。屈服。
数値が跳ねる。
ユチャンは目を閉じた。恐怖を消す必要はなかった。後悔を隠す必要もなかった。すべて持っていけばいい。ただし、彼らの望む形では渡さない。
『これで終わりなら、それでもいい』
喉の奥で、コアの欠片が熱く脈打った。
『終わらないなら、次はおまえたちの番だ』
刃が落ちた。
首の骨が砕ける音より先に、世界が反転した。赤い空が裂け、処刑台の石の冷たさが消える。血の臭いが遠ざかり、代わりに湿ったカビ臭さが鼻を突いた。
ユチャンは息を吸った。
肺に入ったのは、焦げた戦場の空気ではなかった。安い壁紙の接着剤の臭い、古い布団に染みついた汗、排水口から上がる生ぬるい湿気。どこかの部屋だった。
天井が低い。蛍光灯が片方だけ切れかけている。壁には黄ばんだシミ。床にはコンビニ弁当の空き容器と、脱ぎ捨てられた配達用ジャンパー。
ソウル。新林洞(シンリムドン)のワンルーム。
ユチャンはしばらく呼吸の仕方を忘れていた。首に手を当てる。つながっている。肩も、腹も、足もある。痛みは残響だけになって、肉体そのものは若く、痩せて、頼りない。
夢ではない。
夢なら、喉の奥にあの熱が残るはずがなかった。
彼は震える腕を動かし、枕元の古い携帯電話を掴んだ。画面が割れている。充電は七パーセント。通知欄には滞納した家賃の督促と、配達アプリの未読メッセージが並んでいた。
そして、その下。
ニュース通知が一件、眠たげに光っていた。
――ネオヘイル、次世代ダンジョン・シミュレーター正式リリースまで三日。事前登録者数、過去最高を更新。
ユチャンの指が止まった。
三日。
正式リリースの三日前。
彼は壁時計の下に貼られた古いカレンダーを見た。日付は、記憶の中で何度も巻き戻したはずの、あの日だった。ラケイアの侵攻が始まる二年前。人類がまだ、ダンジョンを娯楽の延長だと思い込んでいた時期。
喉の奥で、黒い欠片がもう一度脈を打った。
ユチャンは起き上がることもできず、薄暗い部屋の中で固まっていた。十年の地獄は終わったのか。それとも、処刑台の刃は彼を逃がしたのではなく、もっと大きな戦場へ送り込んだだけなのか。
携帯電話の画面が暗くなりかけた瞬間、通知欄の文字が一瞬だけ別の形に歪んだ。
人間の文字ではない。
ラケイアの命令文だった。
システムすら騙すF級生産職〜人類初の覚醒者であることを隠し、廃業寸前のゲーム塾から異星への反逆を始める〜
2話 三日前に刻まれた条件
次の話