携帯電話の通知欄に浮かんだ文字は、一瞬だけラケイアの命令文へ歪み、すぐに韓国語のニュース見出しへ戻った。
ユチャンは画面を握ったまま、呼吸を止めていた。蛍光灯の片側がじりじりと鳴り、壁の薄いワンルームに雨でもない水音が染みていた。排水口から上がる湿気、古い布団の汗の臭い、床に転がったカップ麺の容器。どれも見覚えがありすぎるほど現実だった。
それでも彼は、最初に現実を疑った。
『処刑台の続きか』
ラケイアは記憶を使う。死ぬ寸前の後悔を餌に、過去の部屋を作ることもできた。安い壁紙、割れたスマートフォン、配達用ジャンパー。どれもユチャンを油断させるための餌なら、あまりにもよくできていた。
彼は布団を蹴って立ち上がろうとした。だが膝に力が入らず、床へ片手をついた。腕は細かった。筋肉は落ち、手の甲の骨が浮いている。牧場で何百回も別の兵士の肉体へ押し込まれた身体ではなく、配達員として夜の坂道を走っていた頃の自分だった。
左肩に手を当てる。ある。腹を押す。刺された痕はない。首もつながっている。
「……戻った、のか」
声はかすれていた。十年ぶりに自分の喉から出た声なのに、頼りないほど軽かった。
枕元の携帯電話がまた震えた。画面には滞納家賃の督促が並んでいた。
――今月分家賃未納。三日以内に入金なき場合、契約解除手続きに入ります。
その下には配達アプリからの通知があった。未完了のシフト、評価低下、保険料の案内。どれも忘れていたはずの生活の残骸だった。ユチャンは通知を一つずつ開き、日付を確かめた。カレンダー、ニュース、コミュニティ投稿、配達アプリのログ。すべてが同じ日を指していた。
ネオヘイルの次世代ダンジョン・シミュレーター正式リリースまで三日。
ラケイア侵攻の二年前。
人類がまだ、ダンジョンをゲームの派手な広告だと信じていた日だった。
彼は古い携帯を操作し、ブラウザを開いた。回線は遅く、画面のひび割れが指先に引っかかった。検索欄へ「ネオヘイル 正式リリース」と打つ。公式ニュース、株価予測、事前登録イベント、コミュニティの期待投稿が次々に表示された。
「職業選択の自由度が高いらしい」
「初回チュートリアルで隠し職業を引いた人に賞金」
「公式配信は三日後の午前零時」
無邪気な文章が、ユチャンには屠殺場の案内板に見えた。
シミュレーターは娯楽ではなかった。侵攻の二年前から動いていた予知型装置。人間の戦闘パターン、恐怖反応、欲望、忠誠心、裏切りの傾向。ラケイアが牧場で刈り取っていたものを、地球の企業の皮を被って集めるための入口だった。
未来で、その事実に気づいた者はほとんどいなかった。気づいた時には遅かった。上位プレイヤーは覚醒者と呼ばれ、ハンター制度の基盤になり、やがてラケイアの契約網へ組み込まれていった。強い者ほど価値ある家畜として分類され、弱い者ほど実験材料として消えた。
ユチャンはブラウザを閉じた。
『本当に二年前なら、まだ始まっていない』
その考えが浮かんだ瞬間、肺の奥が潰れた。
痛みが戻った。
左肩を失った痛み。腹を貫かれた痛み。毒で内臓が溶ける痛み。宇宙船の通路で真空へ吸われた時の、目玉の奥が凍る感覚。死ぬたびに身体から剥がれたはずの残響が、肺の底から一斉に這い上がってきた。
ユチャンは喉を押さえ、床に倒れ込んだ。息が入らない。目の前の安い床板が赤い泥に変わる。蛍光灯の鳴る音が、処刑台の鎖の音に変わる。
「吐き出せ」
執行官の声が脳の奥で鳴った。
ユチャンは歯を食いしばった。吐くものなどなかった。あるとすれば、喉の奥に食い込んだままの黒い欠片だけだ。
熱が脈打った。
首の内側を爪で引っかくような感覚が走り、右目が焼けた。彼は壁のそばへ這い、ひびの入った姿見を見上げた。
鏡の中にいたのは、痩せた若い男だった。頬はこけ、髪は乱れ、目の下に濃い影がある。配達員時代のチョン・ユチャン。その右の瞳だけが、異物だった。
虹彩の端に、小さな灰色の紋様が滲んでいた。
ラケイアの命令文に似ている。だが完全ではない。文字というより、欠けた歯車の断面。管理者コアの欠片が、人間の眼球の奥に無理やり根を張ろうとしているようだった。
「夢じゃないな」
ユチャンは鏡を見つめたまま呟いた。
夢なら痛みはここまで正確ではない。幻覚なら、欠片の脈動まで再現する必要がない。ラケイアの処刑台で飲み込んだものは、まだ彼の中にあった。あの刃は彼を終わらせたのではなく、コアと一緒にこの時間へ弾き飛ばした。
だが、誰が。
自分の執念が奇跡を起こしたのか。コアが逃げ場を探して彼を器にしたのか。それともラケイアが、紛失した断片を回収するためにあえて過去へ追跡線を伸ばしたのか。
答えはなかった。
ユチャンは壁に背を預け、携帯をもう一度拾った。コミュニティの過去ログを開く。彼の記憶では、リリース前の三日間には奇妙な投稿がいくつかあった。接続前なのにチュートリアルの夢を見た、灰色の塔のアイコンを見た、通知文が知らない文字に変わった。未来では誰も真剣に扱わなかった雑談だ。
今見ると、ただの雑談ではなかった。
最初から漏れていたのだ。ラケイアの文法が。人間のシステムに混ぜたはずの異星の命令構造が、正式起動前から細い亀裂のように表へ出ていた。
ユチャンは投稿の時刻を控えようとして、机の上を探った。ボールペンはインクが切れていた。代わりに配達伝票の裏をつかみ、爪で強く折り目をつける。
三日後、午前零時。最初の接続者たちは一斉にチュートリアルへ入る。大半は派手な職業試験を選ぶ。剣士、魔法使い、射手、治癒師。未来で名を上げる連中も、その時点ではただのプレイヤーにすぎない。
だが、その裏に誰も選ばない入口がある。
灰色の塔。
戦闘力を測る場所ではない。恐怖反応と存在情報を分類する、ラケイア式の試験場。未来の記録でも、そこを正常に攻略した者はいなかった。そもそも大多数の人間には表示すらされなかったはずだ。
ユチャンは右目の紋様に意識を向けた。
『おまえが俺を戻したなら、道くらい示せ』
返事はなかった。
その代わり、部屋の温度が一段下がった。携帯の画面が黒く沈み、割れたガラスの内側に灰色の線が走る。ユチャンの視界の中央へ、半透明の四角いウィンドウが開いた。
ゲームのインターフェースではなかった。ネオヘイルの広告で見た青白い未来風の画面とも違う。線は細く、文字は硬く、意味だけが脳に直接刺さった。ラケイアの命令文を、人間が読める形へ無理やり折り曲げたような表示だった。
【初期覚醒条件を確認】
ユチャンの指が止まった。
【対象:チョン・ユチャン】
【状態:未登録/コア汚染/時系列外残留個体】
【人類初の覚醒条件】
【一、最初のチュートリアルダンジョンの核を、全接続者に先行して破壊せよ】
【二、存在登録時、固有情報を偽装せよ】
【三、登録名、職業、等級、行動履歴の整合性を破壊し、監視網に誤認させよ】
【失敗時:対象情報をラケイア回収網へ送信】
最後の一行を読んだ瞬間、ユチャンの喉がひくりと動いた。
祝福ではない。これは報酬ではなかった。処刑台から逃げ延びた囚人へ、次の処刑場の地図を渡しただけだ。
人類初の覚醒者。未来の誰もが欲しがった称号。その始まりが、核の破壊と存在の偽装だとは、あまりにもラケイアらしかった。正面から強くなれという条件ではない。登録の最初から嘘をつけという命令だった。
ユチャンは笑いそうになった。喉が焼けて、笑いは咳になった。
「いいだろう」
声は小さかったが、部屋の中で妙にはっきり響いた。
「俺が得意なことを、よく覚えてる」
牧場で彼が学んだのは英雄の戦い方ではない。監視の視線を読むこと。命令の隙間を探すこと。死ぬ直前の数秒を使って、次の檻の鍵の形を覚えること。ラケイアが人間を資産として分類するなら、その分類そのものを汚してやればいい。
だが三日しかなかった。
金はない。身体は弱い。部屋は家賃滞納で追い出されかけている。正式リリースまでの間に、接続場所を確保し、監視されにくい端末を選び、誰よりも早く灰色の塔へ入らなければならない。失敗すれば、彼の存在情報はラケイアへ送られる。二年前の地球に、牧場の執行官が目を向ける。
ユチャンはベッドの端に座り直した。窓の外では新林洞の狭い路地をバイクが走り抜け、誰かが酔った声で笑っていた。世界はまだ、何も知らない顔をして動いている。
視界の端で、システムウィンドウの文字が薄れた。
その直前、下部に小さな数字が現れた。
【残り時間:七十一時間五十八分】
秒が一つ減った。
ユチャンは携帯を握りしめた。三日という時間は、救済ではなかった。世界が家畜として登録されるまでの猶予であり、彼が最初の嘘を仕込める唯一の刑期だった。
そして次の秒が落ちた瞬間、灰色の紋様が右目の奥で回転し、まだ開いていないはずの灰色の塔の入口座標が、彼の視界に一瞬だけ浮かび上がった。
システムすら騙すF級生産職〜人類初の覚醒者であることを隠し、廃業寸前のゲーム塾から異星への反逆を始める〜
3話 灰色の塔への密かな入口
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