呻き声は、火災現場の警報より弱かった。だからこそ、俊瑞の足は一瞬も止まらなかった。
倒れていた下級弟子はまだ息をしていた。腹に巻いた布は赤黒く濡れ、指の間から血がにじんでいる。俊瑞は膝をつき、薬箱を引き寄せた。中には乾いた布切れと、割れた陶器の欠片だけが転がっていた。
「誰にやられた」
弟子は答えなかった。歯を鳴らしながら、門の外へ続く血痕を指しただけだった。俊瑞は追いかけなかった。今走れば、この弟子が死ぬ。前世の工場でも、火の元へ突っ込む前に退避させる人間を見誤っていれば、もっと多くが焼けていた。
彼は自分の袖を裂き、傷口を強く押さえた。
「名は」
「……許、です」
「交代者は誰だ」
許という弟子は、かすかに首を振った。知らない、という意味だった。
壁の交代札には、今日の日付すらなかった。木札の端は手垢で黒ずんでいるのに、墨の跡は古いものばかりだ。誰が立ち、誰が休み、誰が倒れたのか。そこに残るべき情報が、最初から存在しなかった。
俊瑞は喉の奥で短く息を吐いた。
『ここは門派じゃない。壊れた工程だ』
夜明け前、通りがかった雑役を捕まえて許を医薬堂へ運ばせた。医薬堂の戸口で眠そうな弟子が顔を出したが、負傷者を見るなり目をそらした。
「担当は誰です」
俊瑞が尋ねると、弟子は困ったように肩をすくめた。
「今夜は……たぶん内堂の誰かが」
「たぶん?」
「傷が軽ければ勝手に寝ます。重ければ、朝に長老へ報告が……」
言葉の途中で、弟子は自分でもまずいと気づいた顔になった。俊瑞は責めなかった。責めても血は止まらない。ただ、頭の中で空欄が増えた。負傷者の発見時刻、搬送者、治療者、薬材、経過確認。何一つ線でつながっていない。
朝の鐘が鳴る頃、俊瑞は一睡もせず練武場へ出た。痩せた身体は重く、昨日までの殴られたような痛みも残っている。だが眠気よりも、目の前の光景の方が彼を疲れさせた。
東側では白髭の長老が弟子たちに腹へ気を沈めろと叱り、西側では別の長老が胸の中心を開けと教えていた。さらに奥では、呼吸を止めて力を溜めろという声が飛ぶ。同じ門派の同じ朝稽古なのに、心法の入口さえ三つに割れていた。
「おい、新入りども。そこをどけ」
趙傑が練武場の中央へ歩いてきた。灰色の武服の裾を乱暴に払うと、並んでいた若い弟子たちの前へ割り込む。
「兄弟子、ここは新入りの基礎歩法の番です」
細い弟子が小さく言った瞬間、趙傑の鞘がその肩を打った。
「順番は、強い者が決める。弱い奴が地面を踏んでも土が汚れるだけだ」
誰も止めなかった。長老たちは自分の弟子だけを見ている。新入りたちは場所を奪われ、端の石畳へ押しやられた。俊瑞は反射的に口を開きかけ、すぐ閉じた。
今の自分にできることは少ない。剣は錆び、内功も分からない。趙傑に逆らえば、昨日の許の隣に自分が寝ることになる。
『まずは生き延びる。目立つな。構造だけ見ろ』
そう決めたはずだった。
昼過ぎ、俊瑞は北門の警備交代を終え、倉庫へ薪を取りに行かされた。倉庫番の机には薄い帳面が開かれていたが、そこに書かれているのは日付と品名だけだった。誰が、なぜ、どれだけ持っていったのかが抜けている。
補給担当の弟子、小平(ソピョン)が棚から薬材の包みを三つ取り出していた。丸顔で、気弱そうな目をした少年に近い青年だった。
「それ、医薬堂ですか」
俊瑞が声をかけると、小平はびくりと肩を跳ねさせた。
「な、なんだよ。お前、北門の李だろ。倉庫に用か」
「薪を取りに。薬材は三包ですか」
「帳面には五包とある。けど棚に三包しかないんだ。たぶん昨日、誰かが先に持っていったんだろ」
「誰が?」
「知らないよ。忙しいんだ。いちいち聞いてたら怒られる」
小平は言い捨て、三包を布に包んだ。俊瑞は帳面の行を見つめた。五包出庫。実支給三包。差異二包。原因不明。
その数字が、前世の不良率報告書の赤い欄と重なった。投入数と良品数が合わない。廃棄承認が遅れ、仮置き場がふくらみ、誰も責任を取らないまま温度だけが上がる。差異は、いつも事故の前に現れる。
「残数は数えないんですか」
「残数?」
小平は本気で意味が分からない顔をした。
「棚に残った数です。次に必要な時、足りるかどうか」
「薬材なんて、なくなったら長老に願い出るものだろ。下級が数えたって増えない」
正しい。数えたところで薬材は増えない。だが数えなければ、なくなった瞬間に初めて気づく。そして気づくのは、いつも血を流している誰かの横だ。
俊瑞は黙って薪を担いだ。静かに生き延びる。そう決めた言葉が、胸の中で軽く軋んだ。
その夜、北門哨所の警備を終えた後、彼は倉庫へ戻った。月明かりだけを頼りに、棚の前へしゃがむ。鍵はかかっていなかった。これも問題だったが、今は怒る余裕がない。
傷薬、活血丹、止血布、乾燥薬草。読める字だけを拾い、棚ごとに数えた。紙も筆もなかったため、割れた木片で土間に数字を刻む。左から三、二、零、七。別の棚は一、零、四。
数えていくほど、背中が冷えた。医薬堂で日常的に使うはずの傷薬が、ほとんど残っていない。帳面上では余裕があるはずなのに、棚の実物は空に近かった。
その時、倉庫の戸が外から乱暴に開いた。
「誰か! 誰かいないのか!」
飛び込んできた小平は、昼の気弱な顔とは別人だった。両手が血で汚れ、袖にも赤い飛沫が散っている。息が詰まり、声が裏返っていた。
俊瑞は立ち上がった。
「誰の血です」
「郭進(クァク・ジン)だ! 対練で腕を裂かれた。医薬堂に運んだけど、傷薬が一つもない!」
小平は棚へ駆け寄り、空の箱をひっくり返した。木箱が乾いた音を立てて床を転がる。
「昼に三包出しただろ」
「足りないんだよ! 長老の弟子が先に持っていったって言う奴もいるし、趙傑兄弟子が使ったって言う奴もいる。けど、記録がない。誰が持っていったのか、どこにも書いてない!」
倉庫の中が静まり返った。外では夜風が戸を揺らしている。俊瑞は土間に刻んだ数字を見下ろした。零。傷薬の欄に刻んだ、たった一つの文字。
静かに生き延びる。目立たず、構造だけ見て、危険から距離を取る。
その方針は正しかった。少なくとも、自分一人の命を守るには。
だが医薬堂では今、郭進という末弟子が血を流している。昨日の許と同じように、誰が責任者かも分からない空白の上で震えている。前世で燃えた工場と同じ匂いが、今度は薬材の乾いた棚から立ち上っていた。
俊瑞は錆びた剣ではなく、床に落ちていた空の薬箱を拾い上げた。
「小平。医薬堂へ戻ります。止血布になる布を全部集めてください」
「お、お前が命令するのか?」
「命令ではありません」
俊瑞は空箱の底を指で叩いた。乾いた音が、倉庫の梁へ冷たく響いた。
「このままだと、次に死ぬ者の名前も記録に残りません」
小平の顔から血の気が引いた。その背後、倉庫の半開きの戸の向こうで、誰かの足音が一歩だけ止まった。
俊瑞は振り返らなかった。だが月明かりの下、戸の隙間からのぞく灰色の武服の裾だけが、音もなく闇へ消えていった。
剣気より業務マニュアル 下級武人になった大企業代理、帳簿一冊で長老を裁く
3話 白紙に刻む薬材出納表
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