灰色の武服の裾が闇へ消えても、俊瑞は追わなかった。追えば誰だったか分かるかもしれない。だが医薬堂では郭進が血を流している。優先順位を間違えた現場は、必ず死人を増やす。
「小平、布です。古い武服でも寝具でもいい。清潔なものを先に、足りなければ煮沸できるものを」
「しゃ、煮沸?」
「湯で煮ろという意味です。薬草の残りかすも全部持ってきてください。粉でも茎でも構いません」
「そんなもので傷が塞がるのかよ!」
「塞がらなくても、血が止まるまでの時間は稼げます」
俊瑞は空の薬箱を抱え、倉庫から駆け出した。痩せた身体はまだ自分のものになりきっていない。足裏が石畳を叩くたび、前世の工場で煙の中を走った感覚が重なった。あの時も、誰が許可したかを待っている時間はなかった。
医薬堂の戸は開け放たれていた。中は灯明の油臭さと血の臭いで重く濁っていた。床には若い弟子が一人、左腕を抱えて横たわっている。郭進だった。顔は紙のように白く、裂けた袖の下から赤黒い血が細い川のように流れ、板床の溝へ入り込んでいた。
そばにいた医薬堂の弟子は、布を押し当てるでもなく、棚の前でうろうろしていた。
「傷薬は?」
俊瑞が問うと、弟子は泣きそうな顔で首を振った。
「ないんです。帳面では残っているはずなのに、箱が空で……」
「誰が最後に開けた」
「鍵は、医薬堂と倉庫と内堂の三人で……使い回していて」
「三人の名は」
「ええと、小平と、内堂の当番と、趙傑兄弟子の組の誰かが……」
「記録は」
弟子は黙った。その沈黙が答えだった。
俊瑞は郭進の横に膝をついた。裂傷は深い。動脈そのものではないが、腕の内側を大きく切られている。血を流し続ければ、薬がなくても死ぬ。薬があっても、押さえなければ死ぬ。
「布を替えるな。今押さえている布の上から重ねろ。剥がせば固まりかけた血も剥がれます」
「で、でも血で濡れて……」
「重ねろ」
声が短く落ちた。医薬堂の弟子は肩を震わせながら、言われた通りにした。俊瑞は郭進の手首を取り、かすかな脈を探った。弱い。速い。呼吸は浅く、唇の色が悪い。
『まだ間に合う。間に合うはずだ』
そこへ小平が転がるように戻ってきた。腕いっぱいに古い布を抱え、腰の袋には乾いた薬草の屑が詰められていた。顔は真っ青だが、足だけは止めなかった。
「持ってきた! けど、これ、床に落ちてた残りだぞ。使えるのか?」
「選びます。土の混じったものは捨てる。匂いが腐っているものも捨てる。残ったものを湯に入れて、布を浸してください」
「なんでお前が仕切るんだよ。下級武人のくせに、俺たちに命令して……」
小平の声には恐怖が混じっていた。俊瑞に逆らいたいのではない。誰の許可もない処置をした後で責められるのが怖いのだ。前世にも同じ顔があった。非常停止ボタンの前で、上司の承認を待っていた班長の顔だ。
俊瑞は小平を見上げた。
「責任者を待ちますか」
「……」
「待っている間、郭進の血は止まりません」
その時、郭進の胸が一度大きく浮き、次の呼吸が来なかった。医薬堂の空気が凍った。
小平の目が見開かれる。
「郭進?」
「顎を上げろ。舌を落とすな。肩を押さえすぎるな、胸を見ろ!」
俊瑞は郭進の体勢を直し、血に濡れた布をさらに強く押さえた。郭進の喉がひゅっと鳴り、細い息が戻る。小平はそこでようやく動いた。火鉢へ湯をかけ、布を浸し、薬草の屑を震える手で選り分ける。
「これ、使えるか」
「そちらへ。茎は潰して。粉は湯に溶かす。残りは傷の周りだけに」
「分かった、分かったよ!」
声は裏返っていたが、手は動いた。医薬堂の弟子も布を運び始めた。誰が上で誰が下かなどと言っている余裕は消え、部屋の中の全員が、血の流れる速度だけを見ていた。
やがて郭進の呼吸がわずかに整った。出血は完全には止まらないが、布の濡れ方が遅くなった。俊瑞は腕を心臓より高く保たせ、裂けた袖を切り落とし、使った布の枚数を床の端へ並べさせた。
小平が荒い息をつきながら座り込む。
「……助かったのか」
「今夜を越えれば。熱が出るかもしれません。誰か一人、半刻ごとに息と熱を見てください。替えた布の数も残す」
「残すって、何を」
「時刻。布の枚数。薬草の種類。誰が処置したか」
小平はぼんやりと俊瑞を見た。意味はすぐには届いていないようだった。
俊瑞は床の血を見た。許の時と同じだ。血は流れた瞬間には熱を持つが、少し経てば黒く固まり、ただの汚れになる。記録がなければ、その汚れが誰の命を削ったものなのか誰も覚えない。
夜明け前、閔光が医薬堂へ来た。
白い眉の下の目は冷たく、床の血よりも、騒ぎで起こされたことの方を不快がっているようだった。後ろには趙傑もいた。灰色の武服の裾が灯明の下で揺れている。倉庫の戸の向こうで見えたものと、同じ色だった。
「これは何の騒ぎだ」
医薬堂の弟子たちは一斉に頭を下げた。小平も反射的に膝をつきかけたが、俊瑞は郭進の腕を支えたまま動かなかった。
「対練で郭進が負傷しました。傷薬の在庫がありませんでしたので、止血を優先しました」
閔光の視線が細くなった。
「誰の許しで」
「許しを待てば死んでいました」
「口答えか」
低い声だった。部屋の温度が下がったように感じた。趙傑が一歩前へ出て、俊瑞を見下ろした。
「下級武人が医薬堂を乱し、補給担当に命じたそうだな。門派の秩序を何だと思っている」
俊瑞は郭進の唇に色が戻りつつあるのを確認してから、ようやく顔を上げた。
「秩序があるなら、傷薬の残数が分かるはずです」
小平が息をのんだ。医薬堂の弟子の肩も跳ねた。
閔光は床に転がる空箱を見たが、表情を変えなかった。
「薬材は常に必要な者へ渡される。細かな出入りをいちいち下級が疑うものではない。お前が騒ぎを広げたせいで、夜間警備にも穴が空いた」
「郭進は——」
「黙れ」
杖の石突きが床を打った。血の薄い溜まりが震えた。
「負傷した弟子の不運と、医薬堂の混乱は別の話だ。だが今夜、門派の規律を乱した者は明らかだ。李俊瑞。お前は自分の分をわきまえろ」
責任は、上から落ちてこない。横にも流れない。いつも最後に、名もない末端の頭上へ置かれる。前世の会議室で見た景色と何一つ変わらなかった。停止判断を遅らせた者ではなく、現場で叫んだ者が責められる。倉庫の鍵を曖昧にした者ではなく、血を止めた者が騒ぎを起こしたことになる。
俊瑞は反論しなかった。ここで声を荒らげても、郭進の熱は下がらない。倉庫の棚も満たされない。閔光は短く鼻を鳴らし、趙傑を伴って去った。趙傑だけが戸口で一度振り返り、薄く笑った。
「目立ちたがりの下級が、長く立っていられると思うなよ」
戸が閉まると、小平が床へ崩れた。
「……すまん。俺が、残りを数えていれば」
俊瑞は首を振った。
「一人で数えても続きません。誰が見ても分かる形にしなければ、また同じことになります」
「でも、長老が……」
「だからです」
その夜、俊瑞は宿舎へ戻らなかった。医薬堂の隅で郭進の熱を見ながら、空になった古い帳簿を一冊借りた。表紙は擦り切れ、最初の数ページには日付と品名だけが雑に並び、その後は白紙だった。
静かに暮らす。目立たず、生き延びる。
その考えは、郭進の止まりかけた息と一緒に終わった。
俊瑞は筆を取り、白紙の一行目にゆっくりと書いた。
薬材出納表。
日付、時刻、品名、出庫数、残数、使用者、負傷者、確認者。
墨が乾く前に、医薬堂の外で床板がきしんだ。小平ではない。夜番の足取りでもない。俊瑞が顔を上げると、閉じた戸の向こうから、聞き覚えのある乱暴な声が低く落ちた。
「李俊瑞。今度は何を書いている」
剣気より業務マニュアル 下級武人になった大企業代理、帳簿一冊で長老を裁く
4話 割れた修練表と杖刑の告発
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