戸の外の声は趙傑だった。
俊瑞は筆を止めず、最後の欄まで線を引いた。郭進の呼吸はまだ浅い。小平は火鉢の横で固まっている。戸が乱暴に開かれると、薄い灯明の中へ灰色の武服が踏み込んできた。
「李俊瑞。今度は何を書いていると聞いた」
「薬材の出納です」
俊瑞は帳簿を閉じなかった。隠せば、隠すものだと見なされる。前世でも、問題のある資料ほど机の下に押し込まれ、最後には燃える現場で誰かが死んだ。
趙傑は卓の上をのぞき込み、鼻で笑った。
「日付、時刻、品名、出庫数、残数、使用者……何だこれは。商人の真似か」
「傷薬が消えた理由を、次に探せるようにするためです」
「門派の薬材は長老が見る。下級が口を出すな」
「長老が見るなら、長老にも見える形にしておきます」
一瞬、趙傑の目が細くなった。殴られるかもしれない、と小平が息をのむ。だが趙傑は郭進の青い顔をちらりと見て、今は騒ぎを広げるのを嫌ったのか、舌打ちだけ残して戸を蹴って出ていった。
「好きに書け。だが、それを掲げて門派の秩序を乱せば、腕一本では済まんぞ」
戸が閉まった後も、小平はしばらく動けなかった。
「……お前、本気で続けるのか」
「続けなければ意味がありません」
「俺まで巻き込むなよ。補給担当の俺が長老に逆らったことになる」
俊瑞は帳簿を小平の前へ押した。墨の匂いがまだ濃い。
「逆らうためではありません。自分を守るためです」
「守る?」
「誰かが薬材を持っていって、後で足りなくなる。その時、責められるのは最後に棚の前にいた者です。昨日なら小平でした」
小平の丸い顔がこわばった。俊瑞は畳みかけなかった。ただ、空欄の一つを指で叩いた。
「出した時刻と相手の名が残っていれば、少なくとも全部を背負わずに済みます。残数が分かれば、足りない前に長老へ願い出られます」
「……でも、誰も書かない」
「最初は二人でいい」
「二人?」
「俺と小平です」
小平は泣きそうな顔で笑った。
「なんで当然みたいに言うんだよ」
「郭進の布を替えた枚数を覚えているのは、俺たちだけです」
その言葉で、小平は郭進を見た。末弟子は眠っているのか気を失っているのか、額に薄い汗を浮かべていた。左腕の布は赤く滲んでいるが、血の広がる速度は夜半より遅い。
小平は長く息を吐き、帳簿の端をつかんだ。
「……字が汚くても知らないからな」
「読めれば十分です」
翌朝、俊瑞は倉庫へ行った。眠っていない目は熱を持ち、痩せた身体は鉛のように重かったが、足を止める気はなかった。小平は何度も後ろを振り返りながらついてきた。
倉庫の棚には、昨日と同じように薬材の包みが乱雑に積まれていた。俊瑞は古い赤い糸を探し出し、傷薬、止血布、乾燥薬草、活血丹の箱ごとに結んだ。小平が割れた木箱の蓋を小刀で削り、小さな木札を作る。品名、現在数、最終確認時刻。字を書きつけ、赤い糸に結びつけた。
「こんな札、すぐ邪魔だって外されるぞ」
「外されたら、外された時刻も分かります」
「分かるのか?」
「外れていると気づいた時刻は分かります。何もないよりましです」
小平は不服そうに唇を曲げたが、手は動いた。昼までに主要な薬材の札はそろい、出納帳の隣には細い竹片で作った記入筆まで置かれた。
最初に使ったのは、俊瑞自身だった。郭進の布を替えるため、止血布を二枚出す。小平が時刻を書き、俊瑞が確認者の欄へ名を書いた。たった一行。だが空白だった場所に線が通った。
次に俊瑞が向かったのは、練武場の隅だった。壊れた板が雨ざらしで積まれ、誰かが捨てた古い標的も混じっている。俊瑞はそこから平らな板を一枚選び、泥を落とした。
「今度は何だよ」
小平の声には呆れが混じっていた。
「修練表です」
「薬材だけで十分目立ってるぞ」
「薬材だけでは足りません。郭進が倒れたのは薬がなかったからだけではありません。対練の後に休む時間も、傷を確認する手順もなかった」
俊瑞は板へ太い字で四つの欄を書いた。
基礎功。歩法。対練。回復。
その下に、朝の半刻は基礎功、次は歩法、対練は組を分けて短く、終われば必ず回復時間を取ると記した。回復の欄には、負傷確認、布替え、水、息の確認と小さく添える。
「武功の時間を休みに使うって、趙傑兄弟子が聞いたら笑うぞ」
「笑われても、傷口は塞がりません」
板は練武場の端、末端弟子たちが水桶を置く壁に貼った。堂々と中央へ掲げるほど俊瑞は愚かではなかった。だが隠すほど弱くもない位置だった。
最初に近づいたのは小平だった。彼は誰も見ていないのを確かめてから、基礎功の欄の前に立ち、ぎこちなく腕を伸ばした。次に、包帯を巻いた郭進が医薬堂の戸口から現れた。左腕を吊っているため対練はできない。俊瑞は回復の欄を指した。
「お前はここです。布替えの時刻と熱だけ見る」
郭進は青い顔でうなずいた。
「俺、稽古を休んだら……また弱いって」
「血が止まらないまま剣を振る方が弱くなります」
短い言葉だったが、郭進の目が少し揺れた。彼は回復欄の横に小さく自分の名を書いた。
二日目、郭進の傷は悪化しなかった。熱は出たが、半刻ごとの確認で早く冷やし、汚れた布も替えられた。対練の場から引きずられるように来た別の末端弟子が、郭進の腕を見て立ち止まった。
「……本当に膿んでないのか」
郭進は困ったように袖を上げた。
「まだ痛い。でも昨日よりましだ」
その弟子はしばらく修練表を眺め、何も言わずに歩法の欄へ移った。三人目は夕刻に来た。四人目は水桶を運ぶふりをして、回復欄だけを読んでいった。
小さな変化だった。だが俊瑞には十分だった。前世の工場でも、現場は命令書一枚で変わらなかった。最初は一人が保護具を正しく着ける。次に隣が真似る。そうやってしか、壊れた工程は戻らない。
三日目の昼、趙傑が練武場へ現れた。
兄弟子たちを数人連れている。彼らは板の前で足を止め、同時に笑い出した。
「見ろ。基礎功、歩法、対練、回復だと」
「次は飯を噛む回数も書くのか」
「剣を持つ武林人が、帳簿と板を眺めて強くなるらしい」
小平は顔を伏せた。郭進は反射的に自分の名を袖で隠そうとした。俊瑞は筆を置き、板の前へ歩いた。
趙傑は俊瑞を見ず、板を見たまま言った。
「誰の許しで貼った」
「末端の修練待機が重なって負傷が出ています。時間を分ければ減らせます」
「減らす? 負傷を恐れる者が武功を学ぶな」
「恐れるのではなく、管理するだけです」
趙傑の口元から笑みが消えた。
次の瞬間、彼の足が板を蹴った。乾いた音が練武場に響き、修練表は壁から外れて地面へ転がった。さらに二度踏まれ、板は中央から割れた。墨で書いた回復の欄が泥に擦れる。
「管理だと? お前ごときが門派を管理するのか」
兄弟子たちの嘲笑が広がった。末端弟子たちは目をそらす。誰も板を拾わない。拾えば次に蹴られるのは自分だと知っているからだ。
俊瑞の手は、ほんの少し震えた。
怒りではない。記憶だった。赤い警告灯、積み上がった不良資材、誰も止めなかったライン。手順を笑った者たちは、火が出た瞬間には現場にいなかった。燃える場所に残るのは、いつも名前も残らない作業者だった。
『無秩序は、人を殺す』
俊瑞はしゃがみ、割れた板の欠片を拾った。趙傑の靴先が目の前にあったが、退かなかった。
「また書きます」
「何?」
「割れたなら、小さく書き直します」
趙傑の顔が歪んだ。だが俊瑞は欠片の泥を袖で拭い、残った余白に筆を走らせた。基礎功、歩法、対練、回復。字は前より小さい。だが、消えていなかった。
「こいつ……」
趙傑が胸倉へ手を伸ばした、その時だった。
練武場の入口で、杖の石突きが一度、重く鳴った。
笑い声が止まった。小平の顔から血の気が引く。末端弟子たちが一斉に膝を折り、兄弟子たちでさえ背筋を正した。
閔光長老が立っていた。白い眉の下の冷たい目は、俊瑞の手にある割れた板と、赤い糸の結ばれた倉庫の方角を順に見た。彼の右手には、訓戒用ではない、杖刑に使う太い杖が握られていた。
「李俊瑞」
低い声が練武場を押し潰した。
「門派の伝統を汚し、下級弟子を惑わせ、帳簿をもって秩序を乱した罪を問う」
閔光は一歩踏み出し、杖の先を俊瑞へ向けた。
「今この場で、罰を受けてもらう」
剣気より業務マニュアル 下級武人になった大企業代理、帳簿一冊で長老を裁く
5話 帳簿、杖刑を保留させる
次の話