郵便受けの底に浮かんだ一文は、ナギョンが瞬きをしても消えなかった。
『私がウジンを突き放せば、お母さんは助かるの?』
濡れた影でできた文字が、黒い金属の内側に貼りついている。封筒を差し入れようとしていた指先は、そのまま固まった。紙の角が人差し指の腹に食い込み、痛みだけが現実の重さを伝えてきた。
まだ投函していない。二通目はまだ、過去へ届いていない。
それなのに、二十三歳の自分はもう問いを返していた。最初の葉書だけを読んで、母の病室の前で、ウジンを切り捨てるかどうかを考えている。
ナギョンはゆっくり封筒を引き戻した。仕分け台の上に置こうとして、手が震え、封筒は埃の積もった床へ滑り落ちた。拾うこともできず、彼女はその場に膝をついた。
「違う……そういう意味じゃない」
声は旧郵便局の湿った空気に吸われた。
彼女が過去へ送ったのは、母を助ける方法ではなかった。ウジンを待つなという命令だった。なぜ来られないのか、何を抱えているのか、誰に追われているのか、そのすべてを消した、短くて冷たい結論だけだった。
二十三歳のナギョンにとって、未来の自分は絶対に近い声だったはずだ。十年後から届いた警告。痛みを知っているはずの自分。そこに「彼は結局、来ない」と書かれていれば、若い彼女は信じる。信じてしまう。
郵便受けの底の文字が、かすかに揺れた。
助かるの、と問うている。母の命と、ウジンへの未練を、同じ秤に載せている。
ナギョンは両手で口元を押さえた。吐き気がせり上がった。湿った埃と錆の匂いが喉に絡む。自分は十年間、あの夜に捨てられたと思って生きてきた。だから二十三歳の自分を雨の中から救うつもりだった。だが実際にしたことは、病院代を置いて走り回っていた男の手を、未来から振り払うことだった。
「やめて。お願い、まだ決めないで」
返事はなかった。
黒い郵便受けは、ただ小さな口を開けているだけだった。一日に一通。返事がなければ次は開かれない。規則は無慈悲だった。いま床に落ちている封筒を入れれば、さらに過去を動かす。入れなければ、若い自分はあの問いの答えを一人で選ぶ。
ナギョンは床に座り込んだまま、時間の感覚を失った。
外では雨が仮囲いを打ち、遠くで解体用の鉄板が軋む音がした。撤去告知は残り二日。だがこの郵便受けが、二日もここに残る保証はない。なのに今、彼女は一文字も書けなかった。
『ひとりで決めないで。必ず誰かに見せて』
封筒の中に入れたその一行が、今さら虚しく思えた。もう若いナギョンは決めようとしている。誰にも見せず、未来の自分の言葉だけを握って、母とウジンのどちらを守るか選ぼうとしている。
その時だった。
郵便受けの奥で、乾いた紙が金属を擦る音がした。
ナギョンは反射的に顔を上げた。底に浮かんでいた問いが、水を拭われるように薄れていく。代わりに、小さな扉の隙間から白い封筒の角がゆっくり押し出された。
彼女は息を止め、両手でそれを受け取った。
封筒は湿っていなかった。紙の表面だけが妙に冷たく、宛名はやはり二十三歳の自分の字だった。線が乱れている。急いで書いたのではない。泣くのをこらえて、何度も筆圧を失った字だった。
ナギョンは封を破った。
便箋の最初には、短い日付があった。二〇一三年十一月十五日、夜。そこから先は、まるで息継ぎを忘れたような文章で埋まっていた。
『未来の私へ。さっきの問いを書いたあと、返事が来るのを待ったけど、何もなかった。だから、私が決めるしかないと思った』
ナギョンの目がその一文で止まった。何もなかった。そうだ。自分はまだ二通目を投函していなかった。若いナギョンが待っていた間、現在のナギョンはここで震えていただけだった。
続きを読む指が冷えた。
過去のナギョンは、ハンビッ医院の病室の前にいた。母のイ・スンヒは追加検査を受ける必要があるのに、会計の未納分があって、精密検査の予約を確定できないと言われていた。看護師は悪い人ではなかった。ただ申し訳なさそうに、「来週までに保証金の確認ができれば、検査枠は押さえられます」と説明したという。
その時、病室のドアのそばの椅子に、茶色い封筒が置かれていた。
『最初は誰かの忘れ物だと思った。だけど封筒の裏に、お母さんの名前が小さく書いてあった。イ・スンヒ様保証金。中には現金が入っていた。数えたら、ちょうど翌週の精密検査まで進められる金額だった』
ナギョンは便箋を握る手に力を込めた。
ウジンだ。
名前は書かれていなくても、わかった。彼はまた、名を隠そうとしていた。会計窓口で名乗らされる前か、名乗った後かはわからない。どちらにしても、母の検査を止めないために、金を置いていったのだ。
便箋には、看護師との会話が続いていた。
『看護師さんが、これで来週の精密検査は受けられると思いますって言った。お母さんの検査が遅れずに済むかもしれないって。私はその場で泣きそうになった。誰が置いたのか聞いたけど、看護師さんは、会計に確認しないとわからないって言った』
そこまで読んだ時、ナギョンの胸の奥に淡い安堵が浮かびかけた。
金は届いていた。母の検査は受けられる。なら、まだ間に合うかもしれない。そう思った直後、次の行が彼女を突き落とした。
『でも、あなたの葉書が頭から離れなかった』
ナギョンは唇を噛んだ。
『チョン・ウジンを待たないで。彼は結局、来ない。未来の私がそう書いたなら、私はあの人を待って壊れるんだと思った。お母さんの検査を助けてくれたとしても、最後には私を捨てるんだと思った。もしかしたら、お金を置いたのも、別れるためかもしれないと思った』
「違う……」
かすれた声が漏れた。
便箋の文字は止まらない。
『メッセージを送った後、私はウジンに電話した。出ないでほしかった。出たら、きっと何か言ってしまうから。でも、三回目の呼び出しでつながった。向こうはすごくうるさかった。雨の音か、車の音か、男の人の声みたいなものも聞こえた。ウジンは最初に、病院に行ったのかって聞いた』
ナギョンの視界が揺れた。
十年前のウジンの声を、彼女はもう正確には思い出せないと思っていた。けれど便箋の上の言葉だけで、低く焦った声が蘇る。病院に行ったのか。金は届いたのか。母は検査を受けられるのか。そんなことばかり気にしていたはずの声。
『私は、お金を見つけたと言った。ありがとうとも言えなかった。あなたの葉書を思い出したら、怖くて、悔しくて、先に突き放さないと私が捨てられると思った』
次の数行は、インクがにじんでいた。
『ウジンが、今どこにいるのか聞かないでくれって言った。あとで説明するから、九時に旧郵便局で待っていてくれって。必ず行くって。声が変だった。苦しそうだった。でも私は、言ってしまった』
ナギョンは読みたくなかった。だが目は勝手に次の行を追った。
『もう連絡しないで。病院にも来ないで。お金は返すから、私たちに関わらないで』
便箋が手の中で震えた。震えているのは紙ではなく、ナギョンの指だった。
『ウジンはしばらく黙っていた。何か言おうとして、誰かに遮られたみたいに息をのんだ。それから、小さく、わかったと言った。お母さんの検査だけは受けさせろ、と言った。俺のことはいいから、と。そこで電話が切れた』
ナギョンの目から、ようやく涙が落ちた。便箋の端に丸い染みができる。彼女は慌てて紙を離したが、もう遅かった。
若いナギョンの手紙は、最後に短く結ばれていた。
『未来の私へ。私は正しいことをしたの? お母さんを助けるためなら、ウジンを突き放してもよかったの? あなたがそうしろと言ったんだよね。そうじゃなかったら、私、何をしたの?』
ナギョンは便箋を膝の上に落とした。
旧郵便局の中が、急に遠くなった。雨音も、鉄板の軋みも、埃の匂いも、すべて膜の向こうへ沈んだ。自分の最初の葉書が、どれほど浅かったかを、いま骨の内側から思い知らされた。
彼女はウジンを直接突き放したのではない。もっと悪い。二十三歳の自分の口を借りて、彼に最後の説明の機会すら与えなかった。
その瞬間、携帯電話が震えた。
ナギョンは反射的に画面を見た。通知一覧に、母の診療予約が並んでいた。さっきまでそこにあった予定。ハンビッ医院、精密検査、採血、画像検査、保護者面談、入院費確認。
一番上の通知が、音もなく灰色になった。
『ハンビッ医院 精密検査予約』の文字が薄れ、空白へ変わる。続いて二つ目の『採血・心電図』が消えた。三つ目の『画像検査』。四つ目の『保護者面談』。五つ目の『入院費確認』。
ナギョンは画面を叩いた。
「待って。消えないで」
だが通知は彼女の声を聞かなかった。五件の予約は順番に消え、一覧には何も残らなかった。代わりにカレンダーアプリの下部へ、小さな灰色の表示が出た。
『該当期間の診療予定はありません』
胸の奥で何かが裂けた。
ナギョンは立ち上がろうとして、膝から崩れた。旧郵便局の床に手をつく。冷たい埃が掌に貼りついた。過去を変えるとは、別の道を選ぶことではなかった。消えるはずのなかった予定を、誰かの体から一つずつ抜き取ることだった。
その時、彼女の自宅に置いてきたはずのロースクール合格写真が、頭の中で鮮明に浮かんだ。
青い傘。
二十三歳の自分の隣に、持ち主不明のまま立っていたあの傘。ウジンがいたかもしれない空白。黒くにじみ始めていた場所。
ナギョンは濡れた手で携帯を操作し、自宅の見守りカメラアプリを開いた。リビングの映像が表示されるまでの数秒が、異様に長かった。
画面がつながる。
本棚の上の額縁が映った。横断幕の前で笑う若いナギョン。昨日まで隣にあった青い傘は、そこになかった。
消えたのだ。
倒れた跡も、影も、濡れた床の記憶もない。最初から誰もそこに立っていなかったように、写真の余白だけが不自然に広く残っていた。
ナギョンは息を吸えなかった。
携帯の画面がまた震えた。カレンダーの消えた予定一覧の下で、新しい一行が、まだ読み込まれていない灰色の文字として浮かび上がろうとしていた。
『未登録の医療記録を同期中』
その文字の先に何が現れるのか、ナギョンにはもうわかってしまった気がした。
それでも目をそらせなかった。画面の灰色が黒へ変わり始める中、旧郵便局の郵便受けの奥で、消印を押す音がもう一度、深く響いた。
受取人、10年前の私へ。どうか一人で消えようとする彼の手を離さないで
12話 母を失う記憶の上書き
次の話