小さな扉は、途中で一度きしみ、また少し開いた。中から人の手が出てくるわけでも、封筒が落ちてくるわけでもなかった。ただ、暗い口がこちらを向いただけだった。
ナギョンは数秒、動けなかった。携帯電話のライトが揺れ、黒い郵便受けの内側を白く照らした。底は見えないほど深いわけではない。古い金属の箱だ。郵便局ならどこにでもあったはずの、手紙を一時的にためておく箱。ただそれだけのものに見えた。
見えた、はずだった。
仕分け台の上に、さっきまではなかったものが置かれていた。白い葉書が一枚と、黒い軸の万年筆。葉書は埃をかぶっていない。雨に濡れてもいない。まるで今しがた誰かがそこへ置き、ナギョンが気づくのを待っていたように、仕分け台の中央で白く浮いていた。
「……本当に、くだらない」
声に出すと、作業場の暗さが少しだけ薄くなる気がした。再開発前の廃墟に入り込んだ誰かのいたずら。昔の郵便局らしく、それらしい小道具を並べただけ。そう考えるのが一番まともだった。
まともな大人なら、ここで警察へ連絡して外へ出る。
ナギョンは携帯電話を握り直した。通報画面を開こうとした指が、なぜか葉書のほうへ伸びた。頭ではなく、指先が勝手に動いた。冷たい紙に触れた瞬間、胸の奥で何かがこすれた。
受取人、過去の私。
その紙に書かれた言葉が、まだ目の裏に残っていた。過去の私。二十三歳のイ・ナギョン。赤いマフラーを巻き、ソンブク洞の路地で、来ない男を夜明けまで待っていた愚かな自分。
万年筆を取ると、驚くほど手になじんだ。使い込まれた軸には細かな傷があり、キャップを外すと古いインクの匂いがした。十年前の講義室、安いノート、雨の日の図書館。忘れたと思っていた匂いが、細い線になって戻ってきた。
ナギョンは葉書を裏返した。宛名を書く場所には、薄い罫線だけがあった。差出人欄も切手もない。白紙のまま、こちらを待っていた。
『何を書けっていうの』
心の中で吐き捨てたのに、答えは最初から決まっていた。もし本当に、ありえないことに、この葉書が十年前の自分へ届くのなら。あの夜、まだウジンを信じて、濡れた靴のまま立ち尽くす自分に、たった一つだけ言えるのなら。
待つな。
ただそれだけだった。
ナギョンはペン先を紙へ置いた。インクはすぐににじまず、細く濃い線を残した。自分の字だった。法廷の書面に署名する時の、感情を削ぎ落とした硬い字ではない。二十三歳の頃、急いで講義ノートを取っていた時の、少し右へ傾く字だった。
『チョン・ウジンを待たないで。
彼は結局、来ない』
二文を書き終えた瞬間、ナギョンの指は止まった。
本当は、もっと書くつもりだった。あんな男のために泣かないで。夜明けまで濡れないで。何度も携帯電話を見ないで。彼に理由を与えないで。十年後の自分がどれほどその一夜に縛られたか、どれほど他人の別れを整理しながら自分の別れだけを憎しみで固めてきたか、全部ぶつけてやりたかった。
けれど、手が動かなかった。
ペン先は紙に触れたまま、小さな黒い点を作っていた。恨みは山ほどあるはずなのに、言葉にしようとすると、喉の奥でひび割れた。チョン・ウジンを憎むために十年かけて作った文章は、いざ過去の自分へ向けると、どれもあまりにみじめだった。
ナギョンは息を吐いた。古い埃が肺の奥へ入って、軽く咳が出た。
「これで十分よ」
誰に聞かせるでもなく言い、葉書を持ち上げた。紙は軽かった。たった二文しか載っていないのだから当然だった。それなのに、手首には妙な重さがかかった。
黒い郵便受けの口は、開いたままだった。中は暗く、底にライトを向けても奥行きがうまくつかめない。さっきまで金属の箱に見えていたものが、今は暗い井戸のように見えた。
ナギョンは一歩近づいた。床板が湿った音を立てる。背後では非常口の隙間から雨音が入り込み、作業場の天井を低く揺らしていた。濡れた路地、取り壊し告知、壁に残されたウジンの名前。そのすべてが、ここへ押し出してきたのだと思うと腹が立った。
自分はまだ、こんなものに揺らされる。
「二十三歳の私へ」
声に出した途端、胸がきしんだ。ナギョンはそれ以上言わず、葉書を郵便受けの口へ差し入れた。白い紙の端が黒い金属に触れる。手を離せば、箱の底へ落ちるだけだ。軽い音がして、くだらない儀式は終わるはずだった。
指を離した。
葉書は落ちなかった。
ひゅっと、空気が吸い込まれるような感覚があった。紙は箱の中で沈むのではなく、暗がりに溶けるように消えた。床へ落ちる音も、金属に当たる音もない。手の中に残ったのは、急に軽くなった指先と、冷たい汗だけだった。
ナギョンは息を止めた。
「……何」
もう一度、郵便受けの中へライトを向けた。底は空だった。葉書はない。箱の内壁には錆の斑点があり、奥の継ぎ目から古い紙屑が少しのぞいているだけだった。どこかに隙間があるのかもしれない。仕分け台の下へ落ちたのかもしれない。そう思って台の裏を照らしたが、白い紙はどこにもなかった。
背中を冷たいものが滑った。
ナギョンは万年筆を台の上へ置こうとして、取り落とした。硬い音が室内に響き、彼女はそれにも驚いて一歩下がった。通報。今すぐ出て、警察へ連絡する。誰かが仕掛けた手品だとしても、ここに一人でいる理由はもうなかった。
踵を返した瞬間、奥の仕分け棚の影が動いた気がした。
ナギョンは振り向かなかった。携帯電話を握り、濡れた床板を踏みしめて非常口へ急いだ。途中で破れた郵袋につまずき、肩が棚へ当たった。埃が舞い、古い伝票が何枚か床へ落ちた。それでも止まらなかった。
扉を押し開けると、外の空気が顔に当たった。
雨音が、なかった。
ナギョンはその場で固まった。ついさっきまで、屋根の端から滝のように雨が落ち、路地の水たまりが絶えず波打っていた。傘を畳んだ時、袖はすぐ濡れた。非常口の隙間からも、雨が板の床へ吹き込んでいた。
それなのに今、路地は異様に静かだった。
濡れた地面は光っていた。雨どいの先から、最後の水滴が一つ落ちた。けれど空からは何も降っていなかった。雲は低く垂れ込めているのに、音だけが抜き取られたように消えていた。
ナギョンは震える手で携帯電話を見た。画面には通報画面ではなく、ロック画面が表示されていた。時刻を確認した瞬間、目が動かなくなった。
午後八時四十七分。
彼女が裏の非常口を開けた時、画面の隅に見えていた時刻は、確か午後八時五十七分だった。黒い郵便受けを見つけ、葉書を書き、差し入れるまでに数分は経っている。九時を過ぎていてもおかしくない。
なのに、時計は十分前へ戻っていた。
ナギョンは何度も画面を点灯させ直した。通信は生きている。日付も変わっていない。バッテリー表示も、着信履歴も、そのままだ。ただ時刻だけが、彼女の記憶を嘲笑うように十分も遡っていた。
「違う」
声が自分のものに聞こえなかった。
携帯電話の不具合だ。電波時計の誤差。アプリの表示の遅れ。弁護士として、彼女は証拠のないことを信じない訓練を積んできた。人の涙も、怒鳴り声も、証明されなければ法廷ではただの主張にすぎない。
だが、雨は止んでいた。
彼女の袖に染みた水は冷たいままなのに、空から次の一滴が落ちてこない。旧郵便局の正面へ回り込むと、壁の取り壊し告知も、黒いペンの名前も、同じ場所にあった。チョン・ウジン。その四文字だけが、夜の湿気を吸ってさらに濃く見えた。
ナギョンは壁から目をそらした。早く車へ戻るべきだった。ここに立っているほど、何かに見つかる気がした。過去の自分に宛てた二文が、本当にどこかへ届いたのだと認めてしまう前に、逃げ出すべきだった。
その時、背後の旧郵便局の奥から、重い音が響いた。
どん、と一度。
郵便物に消印を押す音に似ていた。裁判所へ届く書留、証拠郵便、期日通知。日々聞き流してきた事務的な音。それが廃墟の内側で、まるでたった今、誰かが彼女の葉書を受理したと告げるようにはっきり鳴った。
ナギョンはゆっくり振り返った。非常口の隙間から、黒い作業場が口を開けていた。
二度目の消印が、さらに近くで押された。
受取人、10年前の私へ。どうか一人で消えようとする彼の手を離さないで
4話 消えた履歴に残る病院代
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