ナギョンは、床に落ちた写真を拾えなかった。ミンソが何か言った気がしたが、言葉は水の中を通るように遠かった。黒いペンで書かれたチョン・ウジンという名前だけが、取り壊し告知の赤い日付より濃く目に残った。
「先生、本当に大丈夫ですか」
「……帰って。資料はチョ弁護士へ」
自分の声がかすれているのを聞きながら、ナギョンは写真を机の端へ伏せた。ミンソはまだ迷っていたが、彼女の顔を見て、それ以上踏み込まなかった。扉が閉まる音がして、事務所の空調だけが残った。
雨は夜になって強くなった。窓ガラスを細かく叩く音が、十年前の路地の音に似ていた。ナギョンはコートを脱がず、机の上の写真を何度も裏返しそうになっては手を止めた。
関係ない。古い建物に誰かが落書きをしただけだ。ウジンという名前は珍しくもない。そもそも、彼が今さらあの場所に何かを残す理由などなかった。
午後八時半、ナギョンは結局、地下駐車場へ下りた。運転席に座ってからも、エンジンをかけるまでに数分かかった。ただ、建物が消える前に一度くらい確認しておくだけだ。写真の名前とは関係ない。十年前に捨てた場所が本当に壊れるのを、自分の目で見ておくだけ。
理由を知ったところで、役に立つとは限らない。
昼間、依頼人へ投げた言葉が、今度は自分の喉を内側からこすった。
ソンブク洞へ近づくにつれ、道は細くなり、再開発区域の仮囲いが雨に濡れて灰色に光った。古い家々の窓は半分以上が暗く、営業を終えた店の看板が風で小さく揺れていた。ナビの案内が途切れた場所で車を止めると、旧郵便局までは歩くしかなかった。
傘を開いた瞬間、強い風が布を裏返そうとした。ナギョンは片手で柄を押さえ、濡れた石段を上がった。路地の入口に立った時、足が自然に止まった。
ここだった。
十年前、彼女はこの角から旧郵便局の正面を見つめていた。午後九時になる少し前、赤いマフラーを巻き直しながら、バス停のほうを何度も振り返った。誰かが角を曲がって現れるたび、心臓が跳ねる準備をしていた。
夜明けの始発バスが来た時、ようやく理解した。彼は来ない。連絡もしない。説明も残さない。
その瞬間から、彼女は待つことをやめた。少なくとも、そう思って生きてきた。
「馬鹿みたい」
雨音に紛れるほど低くつぶやいたのに、胸の中で言葉はひどく大きく響いた。三十三歳になっても、まだこの路地で息を詰めている。捨てられた側へ前を向けと言えるようになっても、自分は十年前の夜から一歩も離れていなかったのかもしれない。
旧郵便局は、記憶よりずっと小さかった。
赤煉瓦の壁は黒ずみ、雨水の筋が何本も垂れていた。正面のシャッターは錆びて波打ち、上から太いチェーンで縛られている。割れた窓には内側からベニヤ板が打ちつけられ、入口脇の郵便マークは色あせていた。
壁の右側に、写真と同じ取り壊し告知が貼られていた。雨よけの透明フィルムの内側で紙がふやけ、撤去予定日、五月二十九日の文字だけが妙にはっきりしている。
ナギョンは傘を傾け、告知の下の余白を見た。
あった。
チョン・ウジン。
印刷ではなかった。黒い油性ペンの線が、湿気で少しにじんでいる。誰かが最近書いたものなのか、ずっと前から残っていたものなのかはわからない。ただ、彼の名前はそこにあった。十年前、彼が現れなかった建物の壁に。
怒りは、思っていたよりもまだ熱かった。
もう会いたいわけではない。許したいわけでも、問い詰めたいわけでもない。そう思っていたのに、名前を見た瞬間、喉の奥に古い言葉がせり上がった。どうして来なかったの。どうして消えたの。せめて一言くらい残せなかったの。
「今さら、何を待ってるの」
誰に向けた言葉かわからなかった。ウジンへか、十年前の自分へか、それとも今ここに立っている自分へか。
ナギョンは告知から視線を外し、背を向けた。来た。見た。終わりだ。それでいい。明日になれば建物は重機に囲まれ、三日後にはこの壁も名前も瓦礫に混じる。そうなれば、今度こそ終わる。
その時だった。
閉ざされたはずの建物の内側で、かすかな光が揺れた。
ナギョンは振り返った。正面の窓は塞がれている。シャッターも鎖で縛られている。だが赤煉瓦の角を回り込んだ奥、細い裏路地のほうから、雨に濡れた地面へ薄い黄色の光が漏れていた。
工事関係者だろうか。浮浪者が入り込んでいるのかもしれない。普通なら、そのまま警備会社か区役所へ連絡するべきだった。ナギョンは携帯電話を取り出したが、画面の上で指が止まった。
光はすぐ消えた。けれど、完全な闇には戻らなかった。建物の奥に、誰かが息を潜めているような、わずかな明るさが残っている。
ナギョンは傘を畳み、壁際を進んだ。裏路地は狭く、古い室外機と廃材が積まれていた。壊れかけた雨どいから水が落ち、革靴の先を濡らした。突き当たりに、緑色の非常口があった。錠前はぶら下がっていたが、かかっていなかった。風に押されるたび、扉が数センチ開いて、また戻る。
その隙間から、埃の匂いが流れ出てきた。
ナギョンはドアノブに触れた。冷たく、濡れていた。
「誰かいますか」
返事はなかった。雨音だけが背後で続いている。
彼女は扉を押した。錆びた蝶番が長く悲鳴を上げ、暗い室内がゆっくり開いた。携帯電話のライトをつけると、細い光の中に埃が白く舞った。
そこは郵便局の裏手の作業場だった。壁際には古い仕分け棚が並び、床には口の破れた郵袋がいくつも転がっている。天井から垂れた蛍光灯は割れ、片隅の事務机には黄ばんだ伝票が貼りついたままだった。十年前の夜、外から眺めるだけだった建物の内側が、死んだ生き物の腹のように静かに横たわっていた。
ナギョンは一歩入って、すぐに後悔した。床板が水を含んで柔らかく沈み、靴底の下で何かが割れる音がした。引き返すべきだ。ここで怪我でもすれば、ミンソに何と説明するのか。
それなのに、足は奥へ向かった。
仕分け台の上には、地域名の札がまだ残っていた。ソンブク、チョンノ、ヘファ。埃をかぶった小さな区画が、かつて誰かの手紙を待っていたように口を開けている。ナギョンは指先で台の縁に触れた。薄い埃が指にまとわりつき、その下から傷だらけの木目が現れた。
十年前、ウジンが本当にここへ来たなら、どこに立っただろう。
考えた瞬間、ナギョンは唇を噛んだ。考える必要はない。彼は来なかった。それだけが事実だ。
奥の壁際で、何かが小さく鳴った。
金属がこすれるような音だった。ナギョンはライトを向けた。仕分け台の端、使われなくなった配達区分の下に、小さな郵便受けが一つ置かれていた。
黒かった。
他の設備が錆び、灰色にくすみ、埃に飲まれている中で、その郵便受けだけが妙に輪郭を保っていた。塗装は剥げているのに、表面は雨に濡れた石のように沈んだ光を返している。壁に固定されているわけではなく、台の端の区画にぴたりとはめ込まれていた。鍵穴はあったが、扉はわずかに浮き、鍵はかかっていなかった。
ナギョンは近づいた。心臓の音が、雨音よりはっきり聞こえた。
正面に、古びた紙が貼られていた。透明なテープは茶色く変色し、端がめくれている。紙の中央には、誰かが丁寧に、まるで宛名を書くように文字を並べていた。
受取人、過去の私。
ナギョンはライトを持つ手を下ろせなかった。いたずらにしては古すぎ、告知の落書きにしては静かすぎた。何より、その言葉は彼女の胸のいちばん奥に残っていた夜へ、まっすぐ差し込んできた。
もう閉じたはずの封筒の底で、十年前の自分が息を吹き返す。
その時、黒い郵便受けの内側から、紙一枚が動くような乾いた音がした。ナギョンが反射的に身を引く前に、浮いていた小さな扉が、誰の手も触れていないのに、ゆっくりとこちらへ開き始めた。
受取人、10年前の私へ。どうか一人で消えようとする彼の手を離さないで
3話 過去へ落ちた二文
次の話