指一本分。その距離が、現在のナギョンには十年分の崖に見えた。
画面の文字を見つめたまま、彼女は立ち上がった。過去へ手を伸ばす方法は、今はない。黒い郵便受けは黙っている。過去から返事が届いたばかりで、次の手紙を送れないという規則は、どれほど焦っても曲がらなかった。
「先生、追加で出ます。セミョン関連の公益訴訟、資料が古いものまで公開されています」
ミンソの声が廊下から近づいた。ナギョンは携帯を握りしめたまま、短く言った。
「保管室のセミョングループ関係。損害賠償、被害者家族、裏金、全部出して」
「今ですか?」
「今」
希望法律センターの保管室は、外から見るより深かった。金属棚には古い相談ファイル、訴訟記録の写し、新聞切り抜き、公益訴訟の参考資料が年度ごとに押し込まれていた。ナギョンは脚立を引き寄せ、セミョングループと書かれた段ボールを次々下ろした。紙の粉が舞い、喉の奥がざらついた。
カン・テソが特別代理人。
その肩書きは、味方の証明にも見えた。被害者側に立つ検事。公益のために財閥と争う代理人。けれど、ナギョンの体は違うと言っていた。十年前の自分が黒く消した「はず」の線。テソの口から自然に出たUSBという一語。パク・ドギュンの名を聞いた時の、ごく小さな眉の動き。
どれも証拠にはならない。だが、すべてが同じ方向を向いていた。
「先生、これは被害者家族が起こした損害賠償の準備書面です。セミョングループの下請け会社を経由した資金移動表が添付されています」
ミンソが薄いファイルを差し出した。
ナギョンは受け取り、表を広げた。日付、会社名、架空の業務委託費、寄付金、相談料、法律顧問料。何度も名前を変えながら、金が同じ口座群を通って移動している。右端には決裁ラインがあり、担当、室長、法務確認、最終承認の欄が細く並んでいた。
最初は見落としそうになった。
末尾の小さな署名。癖のある角張った字。
カン・ムンソク。
ナギョンは息を止めた。
別の表をめくる。年度が違う。会社名も違う。だが、法務確認の最終欄にはまた同じ名前があった。
カン・ムンソク。
カン・ムンソク。
カン・ムンソク。
名前は、判を押したように繰り返された。
「ミンソ」
声が低くなった。
「カン・テソの家族関係」
「検索中です。公開プロフィールでは父親が……」
ミンソの指が止まった。画面を見た彼女の顔色が変わる。
「カン・ムンソク。元セミョングループ法務顧問。チョンリム法律事務所の代表弁護士を経て、今は顧問職です」
ナギョンは表の端を押さえた。
初めて見る名前のはずだった。少なくとも、彼女の記憶ではそうだった。なのに、その四文字を目にした瞬間、胸の中で古い欠片がかちりとはまった。音がしたわけではない。ただ、ずっと形のわからなかった穴に、冷たい石がぴたりと落ちたようだった。
カン・テソの父。
セミョングループの元法務顧問。
資金移動表の末尾に何度も現れる最終承認者。
そして十年前、テソは帳簿の写しを受け取ろうとしている。
「……だめ」
ナギョンは思わずつぶやいた。
視界の端で、黒い郵便受けの投入口が暗く沈んでいた。だが、そこから紙は出てこない。消印の音もしない。過去は、まだ動いている途中だった。
その瞬間、記憶がずれた。
図書館の裏手にある小さな休憩室。白い蛍光灯、古い自動販売機、徹夜明けの学生が残していった紙コップ。二十三歳のナギョンは、テソの向かいに座っていた。ウジンは彼女の隣で、出入口が見える位置に立っている。
テソは休憩室の端末に自分のUSBを差し込み、穏やかに言った。
「ここでコピーを作る。原本でも写しでも、ひとつだけ持っている状態がいちばん危ない。君たちの目の前で複製して、僕が預かる分、君たちが持つ分、外へ出す分を分けよう」
「外へ出す分?」
若いナギョンが聞いた。
「監察へ渡す前に、内容が消えないようにするためだ。正式な提出は手順を踏む。ただし、証拠は一か所に置かない」
テソの説明は無駄がなかった。怖がっている二人に必要な言葉を、必要な順番で出してくれる。まるで、最初からこの状況を知っていた人のように。
ウジンが低く言った。
「早すぎます」
テソの手が止まる。
「何が?」
「判断も、準備も。あなたは俺たちが来る前から、USBをコピーする場所まで決めていたみたいだ」
休憩室の空気が固くなった。
若いナギョンは思わずウジンの袖をつかんだ。けれど、それは止めるためではなかった。自分も同じ違和感を感じていると知らせるためだった。
テソは怒らなかった。むしろ、ほんの少し困ったように笑った。
「君は本当に用心深いね。いいことだ。僕が早く動けるのは、似た相談を何度も見ているからだよ。闇金融、保証人偽造、警察内部の癒着。形は違っても、手順は似ている」
「似た相談を?」
「法学部の法律相談会で何度か。ナギョンも知っているだろう」
若いナギョンは、うなずきかけた。実際、彼女はテソが相談会で高齢者の保証人被害に怒っていた姿を覚えていた。書類を一枚ずつ読み、相手を責めず、制度の穴を説明してくれた先輩。弱い人の側に立つ検事になりたいと言っていた人。
信じたい。
ここまで来て、もう誰も信じられないと思いたくなかった。
ウジンの指が、彼女の袖をもう一度引いた。力は弱い。だが、その弱さがかえって切実だった。立ち止まれ、と言っていた。
若いナギョンは、その手を見た。
雨に濡れ、傷があり、震えている手。さっきまで何度も自分を引いて逃がしてくれた手。
それでも彼女は、そっとその指をほどいた。
「大丈夫」
声は自分に言い聞かせるほど小さかった。
「先輩は、手順を知ってる」
ウジンの目が一瞬だけ沈んだ。責めはしなかった。ただ、ほどかれた手をゆっくり下ろした。
テソは何も見なかったふりで、端末の画面を開いた。
「じゃあ、中身を確認する。君たちはここで見ていて」
現在のナギョンは保管室の棚に手をつき、息を吸い込んだ。今の記憶は、確かに過去から流れ込んできたものだった。テソの指がキーボードへ伸びる。USBの中身が開かれる。写しがコピーされる。どれほど危険かを、十年前の自分はまだ知らない。
「先生、大丈夫ですか」
ミンソが顔をのぞき込んでいた。
ナギョンは返事の代わりに、資金移動表をつかんだ。
「カン・ムンソクを検索して。二十年前まで」
「はい」
ミンソが端末に向かう。ナギョンも自分のノートパソコンを開いた。法律ニュース、古い新聞DB、判決検索、国会記録。検索窓に打ち込む指が冷えていた。
カン・ムンソク。
テフン相互金融。
捜査。
もみ消し。
いくつかの検索結果は有料記事で、いくつかは見出しだけしか残っていなかった。ナギョンは年代順に開いていく。やがて、画質の悪いスキャン記事が一つ表示された。
二十年前、闇金融組織捜査、証拠不十分で終結。
担当弁護士、強引な捜査を批判。
被害者団体、警察と金融業者の癒着を主張。
本文はところどころ潰れていた。だが、写真は残っていた。テフン相互金融の古い看板の前で、若いカン・ムンソクらしき男が記者に囲まれている。背後には刑事らしい男たちと、黒い傘を持った関係者。画面の端、コートの陰に、小さな子どもの顔が半分だけ写っていた。
ナギョンは拡大した。
解像度が荒く、輪郭はぼやけた。だが、目元だけは奇妙にはっきりしていた。相手を急かさず、穏やかに見つめるような目。十年前の図書館前で、封筒へ手を伸ばしていた青年と同じ形の目。
幼いカン・テソだった。
ナギョンの背筋を、氷のようなものが滑り落ちた。カン・テソは父の仕事を知らなかったのではない。少なくとも、あの場にいた。
彼女が画面をさらに拡大した瞬間、写真の下に小さなキャプションがにじんで読めた。
『カン・ムンソク弁護士、家族とともに取材現場を離れる』
そのすぐ横に、もう一つの名前が黒く潰れていた。潰れた姓の横には、手書きのような文字で小さく『再確認』とある。
チョン・ギソクの行と、同じ匂いがした。
ナギョンは椅子を蹴るように立ち上がった。過去の休憩室では、テソの指がコピー開始のボタンへ近づいている。現在の画面では、幼いテソが父の背後からこちらを見ている。
十年前に封筒へ伸びた手と、二十年前の記事の中の幼い目が、一本の線でつながった。
ナギョンは黒い郵便受けへ振り向いた。
まだ、消印は鳴らない。
だが投入口の奥で、紙ではない何かが、ゆっくり擦れる音を立てた。
受取人、10年前の私へ。どうか一人で消えようとする彼の手を離さないで
33話 チョン・ギソクの記録
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