黒い郵便受けの奥で低い音が鳴り止んだあとも、ナギョンはしばらく膝をついたまま動けなかった。
黄ばんだメモは指先の汗を吸って、今にも崩れそうに柔らかかった。最初に見えた三行だけでも十分すぎたのに、紙の下半分には、まだ薄い文字が残っていた。ナギョンは息を止め、にじんだインクを光に透かすようにして読み進めた。
『同じ日に二通を入れてはならない』
唇の内側が乾いた。
『一人が先に書いたなら、相手の返事を待て。返事が届く前に次を入れれば、先の手紙は閉じ、次の道も開かれない』
つまり、昨夜入れた葉書は、二十三歳の自分が返事をしたからこそ、白い封筒になって戻った。返事がなければ、次はなかった。郵便受けは願いを叶える穴ではない。片方が言葉を投げ、もう片方が答える。その往復が崩れた瞬間、過去は閉じる。
最後の一文は、さらに悪かった。
『郵便局が壊される時、すべての交信も終わる。残った手紙はどちらの時間にも届かない』
「……壊されたら、終わり」
声にしても意味は変わらなかった。外の電動工具がまた短く唸り、天井から細かな埃が落ちた。三日後に取り壊される建物。その三日が、今はただの工事予定ではなく、過去へ伸びる細い糸の寿命になっていた。
ナギョンは便箋と封筒を慌ててまとめ、黄ばんだメモを鞄の内ポケットへ入れた。中にもう一枚紙がないか郵便受けをのぞいたが、暗い底は黙っている。さっきまで鳴っていた金属音も、今はただの古い箱の沈黙に戻っていた。
「待って。まだ、何も……」
何を待てと言うのか、自分でもわからなかった。返事を書かなければ、次は来ない。けれど何を書くべきかもわからない。ウジンを待つなという最初の手紙は、真実を知らない恨みでできていた。次の一通まで同じように早まれば、十年前の誰かをさらに深く傷つけるかもしれない。
それでも、何も書かなければ終わる。
ナギョンは立ち上がり、ふらつく足で非常口へ向かった。作業員に見つかる前に、取り壊し告知をもう一度確認しなければならなかった。メモが本物なら、そこに書かれた期限もまた本物だ。
外へ出ると、朝の光が目に刺さった。仮囲いの向こうで作業員が資材を積み上げている。ナギョンは旧郵便局の正面へ回り込み、赤煉瓦の壁に貼られた告知文の前で足を止めた。
撤去予定日、五月二十九日。
その下に、黒いペンで書かれたチョン・ウジンの名前がある。そこまでは昨日と同じだった。問題は、紙の端に貼られた小さな追記だった。前日、ナギョンが確かに見た時には、残り三日と印字されていたはずの作業案内。その数字が、淡々と貼り替えられていた。
残り二日。
たった一文字の差なのに、胸の奥が冷たく沈んだ。
「昨日は、三日だった」
作業員の一人が怪訝そうにこちらを見たが、彼女は目をそらさなかった。昨日の写真にも、頭の中の記憶にも、三日という数字があった。だが今、紙は二日だと告げている。工事が早まったのか、過去が動いたせいなのか。どちらであっても結果は同じだった。
時間が減っている。
ナギョンは携帯電話を取り出し、告知文を撮影した。ついでに昨日ミンソから受け取った再開発資料の写真を開く。指がもつれ、画面が何度も滑った。ようやく見つけた資料画像では、告知の端に小さく『残り三日』と写っていた。現在の壁には『残り二日』。同じ建物、同じ掲示板、同じ位置。違うのは、時間だけだった。
いたずら。幻覚。疲労。どの言葉も、弁護士としての自分が依頼人の証言を疑う時に使う分類にすぎなかった。だが目の前の告知と携帯の写真は、分類を拒んでいた。昨夜から今朝までの出来事をまとめれば、ありえないもののほうが筋が通る。
黒い郵便受けは過去へ届く。過去が変われば、現在の記録も変わる。
その考えを認めかけた瞬間、右手首に小さな痛みが走った。
「っ……」
ナギョンは反射的に袖をまくった。内側の薄い皮膚に、昨日まではなかった赤い点が浮かんでいた。針を刺した後のような、細く丸い痕だった。周囲がわずかに熱を持ち、押すと鈍い痛みがある。
採血か注射の後に貼る小さな絆創膏を剥がした時の、あの浅い赤み。覚えのある痛みだった。覚えがあるはずのない痛みでもあった。
その瞬間、頭の奥に知らない場面が差し込んだ。
白い蛍光灯。ハンビッ医院の処置室。若いナギョンが椅子に座り、看護師に右腕を差し出している。母の追加検査の同意書を握ったまま、血圧が下がったのだから念のため栄養注射を打とうと言われ、断りきれずに袖をまくる。ウジンからのメッセージが携帯に届き、画面に『病院代のことは心配するな』という一文が光る。針が入る直前、若いナギョンは泣きそうな顔で目を閉じる。
ナギョンは壁に手をついた。
記憶が、あった。
昨日まではなかったはずの記憶が、最初から自分のものだったような顔をして頭の中に居座っていた。あの日、ハンビッ医院で注射を受けた。そう言われれば、確かに受けた気がする。針の冷たさも、消毒綿の匂いも、帰り道に絆創膏が袖へ引っかかった不快感も、今なら思い出せる。
けれど昨日のナギョンには、そんな記憶はなかった。
「やめて……」
小さな声が漏れた。手首の赤い痕は返事をしない。ただそこにあるだけで、すべてを証明していた。過去の二十三歳の自分が病院で注射を受けたなら、三十三歳の自分の皮膚にも痕が残る。記憶だけではない。写真や予定だけでもない。身体まで、何の許可もなく書き換わる。
十年前の自分が一つ選べば、今の自分の体に傷が増える。なら、次の手紙で若いナギョンを病院へ走らせたらどうなるのか。ウジンを追えと書いたら。待つなと書いた時のように、彼を本当に遠ざけてしまったら。母の治療、ロースクール、ウジンの消息、そして今ここに立つ自分自身まで、どこまで変わるのか。
答えはどこにもなかった。
ナギョンは旧郵便局を見上げた。崩れかけた赤煉瓦の建物は、何も知らない顔で朝の街に立っている。だがその内部には、十年前の自分が答えを待つ黒い箱がある。一日一通。返事がなければ次は開かれない。壊されれば永遠に途切れる。
規則は、親切な説明ではなかった。刃だった。
彼女は鞄から封筒を取り出した。二十三歳の自分の字で書かれた『私がこれを読まなかったら、ウジンは消える』という一文が、朝の光の中でやけに黒く見えた。若い自分はまだ迷っている。ウジンを信じたいと思っている。未来の自分に答えを求めている。
今のナギョンが黙れば、その迷いは一人きりになる。
けれど返事をすれば、現実はまたねじ曲がる。
ミンソからのメッセージ通知が鳴った。『先生、午前の件はチョ弁護士に回しました。本当に大丈夫ですか』。平凡な心配の文面が、別世界の言葉のように見えた。ナギョンは返信できなかった。大丈夫ではない。だが、何が起きているのか説明すれば、正気を疑われるだけだ。
携帯を握ったまま、ナギョンは旧郵便局の中へ戻った。
黒い郵便受けの前に立つと、息が浅くなった。仕分け台の上には、昨夜と同じ黒軸の万年筆が置かれていた。さっきまでなかった。白い葉書も一枚、清潔な顔でその横にある。
返事を書け、ということだった。
ナギョンは万年筆をつかんだ。右手首の赤い痕が痛んだ。たった一行で世界は曲がる。たった一文で十年の恨みが嘘になる。なら次の一通は、誰の人生を奪うのか。
ペン先を葉書に近づけた瞬間、郵便受けの奥で、まだ投函していないはずの消印が低く鳴った。
ナギョンの手が止まった。黒い口の向こうから、紙が擦れる音がした。返事を待っているのは、二十三歳の自分だけではない。何かが、次の一通を急かしていた。
受取人、10年前の私へ。どうか一人で消えようとする彼の手を離さないで
8話 病院代を払った男の名
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