紙の擦れる音は、すぐには消えなかった。
ナギョンはペン先を葉書の上で止めたまま、黒い郵便受けの暗がりを見つめた。まだ何も書いていない。まだ投函もしていない。それなのに箱の奥では、誰かが先回りして封を切るような、薄く乾いた音が続いていた。
急かされている。
その感覚に背中が冷えた瞬間、ナギョンは万年筆を置いた。
「……だめ」
声はひび割れていたが、手は止まった。
昨日の自分なら、きっとそのまま書いていた。ウジンを待つな、と書いた時と同じように、怖さを怒りに変えて、短い命令にして過去へ押しつけていた。けれど右手首の赤い痕が、軽率な一文の代償を痛みで知らせていた。
今必要なのは、感情ではなかった。
ナギョンは葉書を裏返し、何も書かれていない白さを確かめてから、そっと仕分け台に戻した。郵便受けの奥で鳴っていた音が、一瞬だけ強くなった。抗議のようにも、警告のようにも聞こえた。
「先に確かめる。全部」
二十三歳の自分に何かを指示する前に、ウジンが本当に病院代を払ったのか、誰がそれを見たのか、どの時間に何が起きたのかを押さえなければならない。弁護士としてなら、いつもそうしてきた。証言を取り、記録を探し、感情の前に事実を置く。自分の人生にだけ、それをしなかった。
ナギョンは封筒と黄ばんだメモを鞄に入れ、旧郵便局を出た。朝のソンブク洞は騒がしくなり始めていた。仮囲の内側では作業員たちが足場を運び、赤煉瓦の壁を叩く音が短く響く。残り二日という追記が、風にめくれもせず貼りついていた。
車に戻ったナギョンは、まずハンビッ医院を検索した。
結果は冷たかった。
ハンビッ医院、二〇一八年廃業。院長死亡後、医療法人清算。建物は現在、リハビリ専門クリニックに変更。
ナギョンは画面を見つめたまま、短く息を吐いた。五年前に廃業している。十年前の会計記録が残っている保証はない。職員も散っているだろう。だが、名前だけは便箋にあった。若い男性が現金を置いていったと答えた受付職員。二十三歳のナギョンの手紙に、かすかに書かれていた姓。
パク。
それだけでは足りなかった。
ナギョンはクラウドの『二〇一三_下半期』フォルダを開き直した。入院手続き、保護者面談、精密検査予約。予定メモの隅に、十年前の自分が走り書きしたような小さな文字が見えた。
『医事課パクさん、午後六時まで』
昨日は気づかなかった。あるいは、今になって現れたのかもしれなかった。
「パクさん……」
ナギョンはすぐに病院跡地へ電話をかけた。現在のクリニックの受付は、ハンビッ医院時代の記録は持っていないと事務的に答えた。そこで終わらせず、清算法人の連絡先、旧院長の相続人の代理人、当時の会計担当者の名前を順に尋ねた。相手は面倒そうに言葉を濁したが、ナギョンが弁護士登録番号と医療費控除資料の確認だと告げると、ようやく古い管理会社の番号を教えた。
次の電話では、担当者が変わるたびに同じ説明を繰り返した。
「二〇一三年十一月十五日の入院保証金の確認です。患者名はイ・スンヒ。保護者はイ・ナギョン。当時の医事課職員の在籍確認だけで構いません」
嘘はついていない。すべて事実だった。ただ、過去へ手紙を送ったなどとは言わないだけだ。
三件目の電話で、年配の男性がため息交じりに言った。
「医事課のパクなら、パク・ギョンジャさんでしょう。会計窓口に長くいました。廃業の少し前に退職したはずです」
ナギョンはペンを握り直した。
「連絡先を教えていただけますか」
「個人情報ですから」
「では、こちらの連絡先を伝えてください。十年前の未確認入金について、本人確認が必要です。任意の聞き取りです。強制ではありません」
沈黙の向こうで、紙をめくる音がした。
「伝えるだけですよ。出るかどうかは知りません」
「それで構いません」
電話を切ると、ナギョンは車の窓にもたれた。体力を削られているのに、頭だけが異様に冴えていた。ミンソからまたメッセージが来ていたが、既読にできなかった。仕事の世界に戻れば、自分はまだ普通の弁護士でいられるのかもしれない。だが手首の注射痕は、その逃げ道を許さなかった。
十分後、知らない番号から着信があった。
ナギョンは一拍だけ遅れて応答した。
「イ・ナギョンです」
『ハンビッ医院の件で連絡をくれたそうですね。私、パク・ギョンジャです』
少し濁った女性の声だった。長年窓口で同じ説明を繰り返してきた人の、用心深くもはっきりした口調だった。
ナギョンは背筋を伸ばした。
「突然申し訳ありません。十年前、私の母がハンビッ医院に入院した際の保証金について確認しています。二〇一三年十一月十五日です」
『古い話ですね』
「覚えていらっしゃらないかもしれません。ですが、若い男性が診療時間後に現金を預けたという記録、または記憶はありませんか」
電話の向こうが、ふっと静かになった。
その沈黙だけで、ナギョンの喉が詰まった。
『患者さんのお名前は?』
「イ・スンヒです。保護者は、イ・ナギョン」
『ああ』
短い声だった。だが、それは思い出した人の声だった。
『覚えています。あの日は雨が降っていました。診療は終わっていて、会計も閉めかけていたんです。そこへ若い男の人が来ました。背が高くて、痩せていて、ずぶ濡れに近かった。封筒を出して、この患者さんの保証金にしてくださいと言いました』
ナギョンはハンドルを握った。指先が白くなる。
「その人は、名前を名乗りましたか」
『最初は名乗りませんでした。領収書を出すから名前が必要だと言っても、患者さん側には自分の名前を言わないでほしいとだけ言って』
「なぜですか」
『そこまでは。私も変だと思いましたよ。現金でしたし、診療後でしたから。だから何度も聞きました。あとで問題になると困るから、入金者名だけでも残さないといけないと』
ナギョンの耳の奥で、旧郵便局の消印の音がよみがえった。
「それで……その人は何と」
パク・ギョンジャは迷わなかった。
『チョン・ウジン、と言いました』
世界がそこで一度、止まった。
車の外では作業員が笑い、誰かの携帯が鳴り、トラックのバック音が機械的に繰り返されていた。なのにナギョンの耳には、たった今告げられた名前だけが残った。
チョン・ウジン。
十年間、捨てた男の名前として胸の奥に押し込めてきた音が、今はまったく違う形で立ち上がっていた。
「……間違いありませんか」
声が震えた。弁護士としては失格だった。だが、どうしても聞き返さずにはいられなかった。
『ええ。珍しいことでしたから覚えています。若い男の人が、財布からではなく、茶色い封筒ごと出したんです。中には現金がきっちり入っていました。金額も足りていました。ただ、手が少し震えていたのを覚えています』
「震えていた?」
『寒かったのか、急いでいたのか。外を何度も見ていました。誰かに追われているみたいに』
ナギョンの背中を冷たいものが滑った。
「その後、どこへ行ったか見ましたか」
『病院を出て、向かいの路地のほうへ行きました。表通りではなく、古い市場へ抜ける暗い道です。私が窓から見た時には、もう姿はほとんど見えませんでした』
ハンビッ医院の向かいの路地。
ナギョンはすぐにメモした。手がうまく動かず、文字が崩れた。
「その時、他に誰かいましたか」
『そこまでは見えません。ただ……』
「ただ?」
『男の人が一度、振り返ったんです。病院の二階を見上げるみたいに。病室のほうを。知り合いがいたんでしょうね』
ナギョンは目を閉じた。
若い自分は知らなかった。母も知らなかった。会計窓口に現金を置き、名前を隠そうとして、それでも問われてチョン・ウジンとだけ残し、濡れたまま病院の外へ出ていった男がいた。
消える直前まで、彼は助けていた。
冷たく捨てたのではなかった。少なくとも、その結論だけはもう成り立たなかった。ウジンは何かを隠していた。あるいは隠さなければならなかった。現金を工面し、名前を伏せ、外を気にしながら病院代を置いていくほどの何かに追われていた。
「パクさん。その日の領収書や控えは、残っていませんか」
『廃業の時に多くは処分されました。個人で持ち出すわけにもいきませんし。ただ、現金入金の一覧なら清算資料に残っているかもしれません。入金者名が読めるかどうかはわかりませんが』
「探せる窓口を教えてください」
パク・ギョンジャは少しためらったあと、古い保管会社の名を教えた。ナギョンは礼を言い、通話を終えようとして、最後にもう一度だけ尋ねた。
「その人の顔を、覚えていますか」
『はっきりとは。でも、優しそうというより、切羽詰まっていました。自分のためじゃなく、誰かのために怖がっている人の顔でした』
通話が切れた。
ナギョンは携帯を膝の上に置いたまま、しばらく動けなかった。怒りが消えていくのは、救いではなかった。怒りが支えていた十年分の自分まで崩れ、足元に散っていくようだった。
『チョン・ウジンを待たないで。彼は結局、来ない』
自分が書いた二文が、頭の中で何度も浮かんだ。彼が来なかった理由を確かめもせず、彼が来られなかった可能性を切り捨て、過去の自分に冷たい結論だけを渡した。もし二十三歳のナギョンがあれを信じて、ウジンを突き放したら。
ナギョンは口元を押さえた。
吐き気のような後悔が込み上げたその時、携帯電話が震えた。
聞き慣れない通知音だった。いや、聞き慣れていた。十年前に使っていた古いメールアプリの、短く乾いた郵便通知音。今の携帯には設定していないはずの音だった。
画面が勝手に点灯した。
差出人なし。
件名なし。
添付ファイル一件。
ナギョンは息を止めて、写真を開いた。
粗い画像だった。夜の雨ににじんだ街灯。右端に、ハンビッ医院の古い看板が見える。向かいの暗い路地の入り口で、若い男が壁際へ押しつけられていた。
チョン・ウジンだった。
濡れた髪が額に張りつき、片手には空の茶色い封筒らしきものを握っている。彼の胸ぐらをつかんでいるのは、見知らぬ大柄な男だった。肩幅が広く、黒い上着の袖口から太い手首がのぞいている。ウジンの足元はわずかに浮き、今にも路地の奥へ引きずり込まれそうだった。
写真の下には、文字が一行だけ添えられていた。
『病院代を払った直後』
ナギョンの指が震え、画面がぶれた。
その瞬間、郵便局のほうから三度目の消印の音が響いた。まるで、次に書くべき手紙の宛先はもう決まっていると告げるように。
受取人、10年前の私へ。どうか一人で消えようとする彼の手を離さないで
9話 路地裏で崩れた十年の恨み
次の話