三度目の消印の音が消えても、ナギョンはしばらく携帯の画面から目を離せなかった。
雨に濡れた画像の中で、若いウジンは路地の壁に押しつけられていた。胸ぐらをつかむ男の手は大きく、封筒を握ったウジンの指だけが白く浮いている。十年前の彼は、病院代を置いてすぐ、逃げたのではなく捕まっていた。
ナギョンは震える親指で写真を拡大した。画像は荒く、街灯の光が雨粒に割れていたが、右端の看板だけはどうにか読めた。
ハンビッ医院。
その下、路地の入口にかかった小さな板看板が、ぼやけた緑色で写っていた。最初は市場の店名かと思った。だが拡大して角度を変えると、上から貼られたビニールの下に、濃い青の文字が残っているのが見えた。
『テフン』
ナギョンの息が止まった。
「……テフン?」
聞き覚えのない名前ではなかった。離婚事件の債務整理資料や、闇金融被害相談の古い判例集で何度か見たことがある。だが十年前のハンビッ医院と結びつけて考えたことは一度もなかった。
彼女は車のドアを閉め、ノートパソコンを膝の上で開いた。モバイル回線が不安定で、検索画面が何度も止まる。指先がもつれ、同じ文字を二度打った。
テフン ソンブク洞 貸金業。
いくつもの広告と古いブログの残骸の間に、裁判所の判決検索ページが引っかかった。二〇一四年の民事執行停止、二〇一五年の貸金業登録違反、二〇一六年の不法取立損害賠償。社名は少しずつ変わっていたが、代表者欄と所在地が似ていた。
テフンキャピタル。
ナギョンは写真をもう一度拡大した。看板の下に、路地の奥へ頭だけ突っ込んだ古い銀色の車が写っている。車体は半分切れていたが、ナンバープレートの端が雨の反射の中で白く光っていた。
四桁のうち、最初の二つは潰れている。最後は七。いや、一かもしれない。ナギョンは画像補正アプリを開き、明度を下げ、輪郭を強めた。拡大するたびに荒れた粒子が増えたが、数字の形が少しだけ浮かび上がる。
「三……九……」
彼女は声に出して読み、すぐに首を振った。
確証がない。思い込みで過去を動かしてはならない。最初の一通で、もう十分に思い知った。
ナギョンは携帯を固定し、写真の端を何枚も切り出して保存した。看板、車、路地の角、街灯、雨樋。使える欠片をすべて別々にした。弁護士の癖で、証拠として扱える形に分ける。そうしていないと、今にも感情に飲まれてしまいそうだった。
地図を開くと、現在のハンビッ医院跡はリハビリ専門クリニックになっていた。十年前の航空写真に切り替える。古い地図は粗かったが、向かいの細い路地の奥に、灰色の小さな建物が見えた。住所を押すと、過去データの欄に一つの法人名が残っていた。
テフンキャピタル株式会社。
ナギョンの胃が冷えた。
その住所を判決検索の所在地欄に入れると、結果がさらに絞られた。二〇一三年十一月当時、そこには貸金業登録取消処分を受ける前のテフンキャピタルがあった。判決文の要旨には、債務者に対する夜間取立、第三者への脅迫、保証人名義の偽造という言葉が並んでいた。
どれも、紙の上では見慣れた単語だった。だが今は違った。
その場所の向かいには、母が入院した病院があった。そこへウジンがずぶ濡れで現金を置きに来た。名前を隠そうとし、外を何度も見て、会計窓口を出たあと、病室の方を一度振り返った。そして向かいの暗い路地で、貸金業者の男に捕まった。
事実が一つずつつながっていくたびに、ナギョンの中に残っていた怒りは形をなくした。
「来なかったんじゃない……」
声になった瞬間、胸の奥が音を立てて崩れた。
ウジンは、来なかったのではない。少なくとも、ただナギョンを捨てて姿を消したわけではなかった。母の病院代を払った直後、貸金業者のいる路地へ引きずり込まれていた。旧郵便局の夜九時に現れなかった理由が、初めて輪郭を持った。
彼は来られなかったのかもしれない。
十年間、ナギョンは自分が待たされた夜だけを抱えてきた。雨の中で赤いマフラーが重くなっていく感触、携帯の画面が冷えていく時間、夜明けの始発バスの中で最後に諦めた瞬間。そこにウジンの事情を置く場所など、作らなかった。
作らなかったのは、楽だったからだ。
「私は……」
言葉が続かなかった。
自分は彼に捨てられたのだと思えば、恨むだけで済んだ。理由を聞かずに済んだ。十年前の彼が何を背負っていたのか、どこへ連れていかれたのか、なぜ母の保証金を現金で払えたのか、考えずに済んだ。
そしてその恨みのまま、過去の自分へ二文を送った。
『チョン・ウジンを待たないで。
彼は結局、来ない』
ナギョンはハンドルに額をつけた。硬い革の匂いがした。呼吸がうまく入ってこない。
あの二文は、警告ではなかった。真実を知らない者の断罪だった。二十三歳の自分があれを読んだなら、ウジンがやっと病院代を工面して戻ろうとしても、冷たく背を向けるかもしれない。彼が助けを求めようとした瞬間に、未来の自分の声がその口を塞ぐかもしれない。
『待たないで』
その言葉は、ウジンを見限れという意味だった。
「ごめん……」
誰に向けた謝罪なのか、わからなかった。二十三歳の自分か。病室で何も知らず眠っていた母か。路地の奥へ引きずられていくウジンか。それとも、十年間恨みだけで自分を支えてきた、今のナギョン自身か。
謝っても、もう届かない。
黒い郵便受けは一日に一通しか許さない。返事がなければ次は開かれない。最初の手紙はすでに過去へ落ち、二十三歳のナギョンはそれを読んだ。現在はもう動き始めている。彼女の手首には、知らない注射痕がある。部屋には撮った覚えのないロースクール合格写真がある。
次に書く一文も、誰かの人生を変える。
ナギョンは顔を上げた。涙は出なかった。涙を流せるほど、まだ自分を許せていなかった。
彼女は写真の切り出し、判決検索の結果、古い地図の住所をすべて保存し、プリンターのある二十四時間コピー店へ車を出した。機械音が響く狭い店内で、濡れた路地の写真が何枚も紙に吐き出される。看板の『テフン』、車のナンバーらしき影、ハンビッ医院の古い看板、判決要旨の所在地。
紙の束を手にした時、ようやく事実の重みがはっきりした。
ウジンは病院代を払った。
その直後、テフンキャピタルの路地で捕まった。
そして十年前の約束の場所には来られなかった。
これだけは、もう恨みで塗り潰せなかった。
夜が更けるころ、ナギョンは自宅に戻った。
リビングの明かりをつけると、本棚の上の額縁がすぐ目に入った。ロースクール合格の横断幕の前で笑う二十三歳の自分。隣には持ち主のわからない青い傘が立てかけられている。昨日までは存在しなかったはずの写真。今は、部屋に長くあった物のように静かにそこにあった。
ナギョンは机に判決資料と写真を並べた。白い紙を一枚置き、黒軸の万年筆ではなく、普段使いのボールペンを握った。郵便局の万年筆でなければ届かないのかもしれない。それでも、まず書くべき内容を決めなければならなかった。
感情ではなく、事実。
命令ではなく、確認。
恨みではなく、引き止めるための言葉。
『ウジンのお金がどこから出たのか、必ず確かめて』
最初の一文を頭の中で組み立てる。
『彼を責める前に、ハンビッ医院の向かいの路地を見て。そこにテフンキャピタルがある。ひとりで行かないで。彼を、行かせないで』
書けば、過去のナギョンは動く。ウジンを止めようとするかもしれない。貸金業者に近づくかもしれない。母の病院へも影響が出るかもしれない。だが、何も書かなければ、二十三歳の自分は未来からの冷たい警告だけを握ったまま、ウジンを見捨てる。
それだけは、もうできなかった。
ナギョンはペン先を紙へ下ろした。
その時だった。
本棚のほうで、乾いた小さな音がした。額縁の中のガラスが、内側から爪でなぞられたように震えていた。
ナギョンは振り向いた。
ロースクール合格写真の中で、二十三歳の自分の隣にあった青い傘の影が、ゆっくり黒くにじみ始めていた。傘だけではない。横断幕の端、若いナギョンの肩の後ろ、誰も立っていないはずの空白に、濡れた墨のような黒が広がっていく。
まるで、そこにいた誰かを塗り潰すように。
ナギョンの手からペンが落ちた。
次の手紙を書く前に、現実はもう変わり始めていた。
受取人、10年前の私へ。どうか一人で消えようとする彼の手を離さないで
10話 郵便受けに浮かぶ問い
次の話