息遣いは、無線機の奥でさらに近づいてきた。
ひゅ、と浅く吸い込む音。喉の奥で震えを押し殺す、ソユンの呼吸そのものだった。だが本物のソユンは、唇を結んだままヘジュンの隣で硬直している。小屋の中で動いているのは、床に転がった錆びた無線機だけだった。
「下がって」
ミンソが短く言った。誰も返事をしなかった。返事をしないことが、たった今からの唯一の規則になったからだ。
無線機のスピーカーが、ざり、と乾いた砂を噛むように鳴った。ノイズの奥で、息遣いが言葉の形を取り始める。ソユンの顔から血の気が引いた。自分でも聞いたことのない、自分にそっくりな声が、ゆっくりと小屋の中へ満ちていった。
「……私、お兄ちゃんを恨んでる」
ヘジュンは息を呑んだ。
それはソユンの声だった。乾いていて、低く、兄を責めるときの刺すような硬さまで同じだった。けれど今のソユンは何も言っていない。言えないほど青ざめ、両手を胸の前で握りしめているだけだった。
無線機の声は続いた。
「嘘ばかりついて、困ったときだけ私を呼ぶ。お母さんが死んだときも、店のことも、全部そう。……だから、窓のほうを見て。今のお兄ちゃんの顔を、ちゃんと見て」
「やめろ」
ヘジュンは思わず声を出しかけ、最後の音を歯で噛み殺した。返事ではない。そう自分に言い聞かせたが、喉の奥が焼けるように熱くなった。
ミンソの視線が鋭く飛んだ。
「声を返さないで」
彼女はそれだけ言うと、床へ膝をついた。無線機には触れず、横に落ちていた電池蓋と本体の隙間をライトで照らす。さっき確認したとおり中は空だった。だがミンソは納得しなかった。腰のツールから細い金属片を抜き、電池室の縁へ差し込む。
「ミンソさん、危なくないですか」
ドユンが小声で言った。
「確認します」
彼女は余計な説明をしなかった。腐食した樹脂をこじると、ぱき、と嫌な音がして電池室の奥が割れた。白い粉を吹いた端子が崩れ、黒く膨らんだ基板の端がのぞく。導線は切れ、赤いランプへつながるはずの細い線も途中で腐っていた。
「電源はありません。ここからは絶対に鳴らない」
ミンソは断定した。なのにその言葉とは裏腹に、無線機は少しも揺らがず、ソユンの声を吐き続けていた。
「窓を見て。お兄ちゃんはまた、あなたを置いて逃げる顔をしてる」
「違う」
ヘジュンは今度こそ言いそうになった。だがソユンの肩がびくりと跳ねたのを見て、口を閉じた。違うと言った瞬間、それは無線機への返事になる。ソユンを安心させる言葉さえ、この小屋では餌になった。
彼は妹の肩を抱き寄せた。拒まれるかと思ったが、ソユンは動かなかった。体だけが細かく震え、視線は床の無線機から離れない。
「答えるな」
ヘジュンは耳元で、息だけを使うように囁いた。
「それがお前の声でも、お前じゃない。頼む。絶対に答えるな」
ソユンの唇が震えた。何か言い返そうとしたのではなく、声を出さないために必死で噛みしめている震えだった。ヘジュンはその肩を強く抱いた。普段なら、妹はすぐに振りほどいただろう。だが今は、兄の手を拒む余裕さえなかった。
ドユンのカメラライトが無線機へ向いた。
「これ、撮れてますよね……いや、これ、本当に撮れてたら」
「今、撮影の話をするな」
ヘジュンが低く言った。
ドユンは一度だけ唾を呑み、けれどカメラを下ろさなかった。恐怖と興奮が同じ顔の中でせめぎ合っている。赤い録画ランプが小屋の薄暗さの中で点滅し、画面の端に映った録画時間が一瞬だけぶれた。数字が進んだのか戻ったのか、ヘジュンには判別できなかった。
「だって、こんなの、大当たりですよ。声紋とか解析したら、絶対に合成じゃないって――」
ミンソが無言で片手を上げた。止まれ、という合図だった。ドユンは言葉を飲み込んだが、レンズだけは無線機を追っていた。
その時、ジェヒが顔を上げた。
「匂いが変わっています」
彼女はストーブのほうへ視線を移した。さっきまで湿った木と古い布に混じっていた薬品臭が、今は鼻の奥を刺すほど濃くなっている。消毒液に似ているが、もっと重い。酸で金属を洗ったあとのような、喉にまとわりつく匂いだった。
ジェヒはリュックから小さな採取瓶と綿棒を取り出した。無線機の声が続く中、彼女だけが異様に静かな手つきで動く。ストーブの脚元、床板の隙間、錆びた煙突の継ぎ目。白い手袋の先が汚れをすくい、瓶の中へ落とす。
「今やるんですか」
ドユンがこわばった笑いを浮かべた。
「今濃くなったからです」
ジェヒは短く答えた。
「声に反応しているのか、床下から上がっているのか。あとで確認できるものは残します」
「あとで、があればですけど」
その軽口に、誰も乗らなかった。
無線機の声が、急に低くなった。ソユンの声なのに、息の底に別のものが混じっている。水の底から口だけを借りているような、湿った響きだった。
「窓のほうを見て」
同じ言葉が繰り返された。
釘で打ちつけられた古い地図と作業票が、わずかに震えた。外から風が吹いたのではない。窓は閉じている。隙間を塞ぐ紙は、内側から誰かが息を吹きかけたように、中心だけがふくらんで戻った。
ソユンの目がそちらへ引かれた。
「見るな」
ヘジュンは反射的に彼女の肩をつかんだ。今度は強すぎた。ソユンが痛みに眉をひそめる。ヘジュンは力を緩めようとして、緩めきれなかった。窓を見たら何かが終わる。根拠はなかったが、体がそう知っていた。
ミンソは無線機の割れた電池室を床へ向けたまま、慎重に本体の位置を変えた。スピーカーを布でふさごうとしたのだろう。だが手袋の影が近づくと、ノイズが一段高く跳ねた。まるで触れられる前に身をよじったようだった。
「触らないほうがいいです」
ジェヒが言った。
「音量が変わった。反応しています」
「じゃあどうするんですか」
ドユンの声が上ずる。
「聞いて、答えない」
ミンソは本体から手を離した。
「今はそれだけです」
答えない。簡単なはずの行為が、こんなにも難しいとは誰も思っていなかった。声は問いかけではなく、傷に指を入れる形で近づいてくる。反論したくなる。否定したくなる。謝りたくなる。そのすべてが、小屋にとっては返事なのだと、壁の警告が暗い木目の中から見下ろしていた。
ヘジュンはソユンの横顔を見た。無線機に言われたことは、彼にとって完全な嘘ではなかった。ソユンが自分を恨んでいてもおかしくない。困ったときだけ頼った。大事なことほど隠した。母の病院でも、店でも、今日の山でも。
だからこそ、無線機の声は鋭かった。知らないはずの罪を、知っている声で突いてくる。
「ソユン」
名前を呼ぶだけで返事になる気がして、ヘジュンは言い直した。
「……手」
彼は自分の手を差し出した。言葉ではなく、握れという合図だった。ソユンはすぐには動かなかった。窓のほうへ傾きかけていた視線が、ゆっくりと戻る。彼女の目には涙が浮いていたが、こぼれてはいなかった。
その指が、ためらいながらヘジュンの手に触れた。
冷たかった。
ヘジュンは握り返した。妹が痛がらないぎりぎりの強さで、けれど離さないと伝わるように。
無線機の中のソユンが、そこでふっと黙った。
小屋の音が一瞬、全部消えた。床下のぐうん、ぐうんという低い振動も、ストーブの周りに濃くなった薬品臭の気配も、ドユンのカメラの小さな作動音さえ、耳から遠ざかったように感じられた。
沈黙は、救いではなかった。
それは息を吸う間だった。
次にスピーカーから漏れた声は、同じソユンの声でありながら、さっきよりずっと低かった。感情を削り落とし、未来の予定を読み上げるような声だった。
「もうすぐ、あなたが同じことを言う」
ソユンの手が、ヘジュンの手の中でかすかに震えた。
ヘジュンはその震えごと握りしめた。答えるな、と声にせず唇だけで繰り返す。だがソユンの視線は、本人の意志に逆らうように、釘で塞がれた窓へ一寸ずつ引き寄せられていった。
その窓の向こうで、誰かがこちらと同じ呼吸をしていた。
外から自分の声が聞こえても答えるな
12話 救急箱から響いた命令
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