同じ呼吸が、薄いガラス一枚の向こうで湿っていた。
窓を塞いだ古い地図が、また内側へふくらんだ。紙の中央だけが丸く盛り上がり、誰かの口がそこへ押しつけられているようにへこんで戻る。釘は抜けていない。隙間もない。それでも霧は、外からではなく、窓そのものの中でうねっているように見えた。
ソユンの視線が、そこへ吸い寄せられた。
ヘジュンは手を引いた。握ったまま、妹の体をこちらへ向けさせようとした。だがソユンの首は固く、目だけが窓を見つめている。瞳の焦点は紙ではなく、その奥の何かに合っていた。
「ソユン」
名前を呼んだ瞬間、ヘジュンは自分の失敗に気づいた。返事ではない。無線機に向けたものではない。そう思おうとしても、小屋の中では、声を出した事実だけが重く床に落ちた。
ミンソが鋭く振り向いた。
「呼ばない」
短い叱責だった。ヘジュンは唇を噛んだ。謝ることもできない。
無線機は黙っていた。だから余計に、窓の向こうの呼吸が大きく聞こえた。ひゅう、ひゅう、と浅く、規則正しい。ソユンが息を止めれば止めるほど、その向こうの誰かは彼女の代わりに呼吸を続ける。
ドユンはカメラを胸に固定したまま、笑いに似た表情を貼りつけていた。
「いや……これ、今の、かなりまずいですよね。音、外からじゃなくて窓から入ってるみたいに――」
「黙って」
ミンソが低く言った。
ドユンは肩をすくめようとしたが、うまく動かなかった。赤い録画ランプだけが小刻みに瞬いている。画面の隅の録画時間は、ちらちらと乱れ、数字の輪郭が一瞬だけ溶けた。
ジェヒはストーブのそばで採取瓶の蓋を閉め、顔をしかめた。
「匂いがさらに濃くなっています。床下だけじゃない。窓側にも回っている」
「毒ガスですか」
ドユンがささやく。
「断定できません。でも、反応しています。声と、私たちの動きに」
その言葉が終わる前に、窓の紙が激しく揺れた。
外で何かがぶつかったのではなかった。霧がガラスを叩いたのだ。白いものが波のように押し寄せ、窓全面がどん、と鈍く鳴った。紙を留めていた釘の頭が一つ、かすかに浮いた。古い地図の端から、冷たい湿気が蛇の舌のように染み込む。
ソユンの唇が開いた。
ヘジュンは反射的に手を伸ばした。声を出すな。言うな。そう叫びたい衝動ごと、自分の手で妹の口を塞ごうとした。
だが間に合わなかった。
「……私、お兄ちゃんを恨んでる」
その声は、あまりに静かだった。
無線機からではない。ヘジュンの隣にいる、本物のソユンの唇から出た声だった。小屋の空気が一瞬で凍りつく。ヘジュンの手は彼女の口の前で止まり、触れることも、引くこともできなかった。
ソユンは窓を見たまま続けた。
「嘘ばかりついて、困ったときだけ私を呼ぶ。お母さんが死んだときも、店のことも、全部そう。……だから、窓のほうを見て。今のお兄ちゃんの顔を、ちゃんと見て」
一字一句、違わなかった。
たった今、電源のない無線機から流れてきた言葉そのものだった。間の取り方も、低く乾いた響きも、最後に少しだけ息がかすれる癖まで同じだった。ソユン自身が言ったというより、さっきの声が彼女の喉を通って出てきたようだった。
ヘジュンの胃が沈んだ。
「ソユン、違う。今のは――」
ミンソの手が彼の胸を強く押した。
「答えないで」
その一言で、ヘジュンは喉の奥を閉じた。違うと言いたかった。お前の本心じゃないと言いたかった。たとえ本心が混じっていても、こんなふうに言わされるものではないと、すぐに否定したかった。
だがそれも返事になる。
ソユンの目が、ようやく揺れた。窓に貼りついていた焦点がほどけ、自分の唇へ遅れて意識が戻ってくる。彼女は片手で口を押さえた。指先が震え、爪が頬に食い込む。
「……私、今」
声になりかけた言葉を、彼女は飲み込んだ。
それでも十分だった。自分が口を開いたこと。さっき聞いた言葉を、そのまま吐き出したこと。遅れてその事実を理解した瞬間、ソユンの膝から力が抜けた。
ヘジュンが支えようとしたが、彼女は床へ崩れ落ちた。両手で顔を覆い、声を出さないように体を丸める。肩だけが激しく震えていた。泣いているのか、吐き気をこらえているのか、ヘジュンにはわからなかった。
ドユンの口元に浮かんでいた含み笑いは、完全に消えていた。
「……今の、本人が言いましたよね」
誰も答えなかった。
「いや、確認です。編集じゃない。無線でもない。今、本当に――」
「黙れと言いました」
ミンソの声は、今まででいちばん低かった。
ドユンは唇を閉じた。だが目はカメラの画面へ落ちている。恐怖に負けながらも、そこに映ったものを確認せずにいられない顔だった。録画時間の表示がまた一瞬だけ乱れ、進むべき数字が、かすかに戻ったように見えた。
ジェヒがソユンのそばへ膝をつき、触れずに様子を見た。
「呼吸はあります。過換気に近い。でも、意識はある」
ヘジュンはしゃがみ込み、妹の背中へ手を伸ばしかけた。ソユンはびくりと身を縮めた。拒絶ではない。自分の体がもう自分だけのものではないことへの恐怖だった。
ヘジュンは手を止め、床板の上へそっと置いた。見える位置に、開いた手のひらだけを置く。
ソユンは顔を覆ったまま、その手を見た。触れなかった。けれど、目をそらすこともしなかった。
無線機が、ざ、と小さく鳴った。
全員が固まった。
ミンソはすぐ動いた。床に落ちていた厚手の布を拾い、無線機へ向かう。さっき触れようとしただけでノイズが跳ねたことを覚えているのか、今度は素手ではなく布で丸ごと包んだ。錆びた筐体が布の中でかすかに震えた。まるで捕まえられた虫のようだった。
「ミンソさん」
ヘジュンは声を低くした。
「そのまま置いておくほうが危険です」
ミンソは短く答え、棚の下にあった古い救急箱を引き寄せた。乾いた血のついた蓋を開くと、中には変色した包帯、錆びたハサミ、割れた薬瓶が乱雑に入っている。彼女は中身を手早く片側へ寄せ、布に包んだ無線機を押し込んだ。
ジェヒが眉を寄せる。
「密閉できません」
「音を少しでも遠ざけます」
「反応するかもしれません」
「わかっています」
ミンソは蓋に手をかけたまま、全員を見た。黒い髪を後ろで結んだ横顔は硬く、救助隊員だったころの顔に戻っていた。
「今から、外から何が聞こえても答えない。自分の声でも、家族の声でも、助けを求める声でも、絶対に返事をしない。否定もしない。謝らない。呼びかけ確認もしない」
誰も返事をしなかった。
ミンソはうなずきの代わりに、視線だけで確認した。ヘジュン、ソユン、ジェヒ、ドユン。最後にもう一度、壁の警告へ目をやる。
『外から自分の声が聞こえても、答えるな。』
その一文は、さっきより深く黒く見えた。
ミンソは救急箱の蓋を閉めた。
金具が、かちり、と鳴った。
直後、箱の中でノイズが爆発した。
布も金属も関係なかった。ざああああ、という轟音が救急箱の薄い壁を突き破り、小屋の中へ一気に膨れ上がった。古い包帯が隙間からはみ出し、蓋が内側から叩かれるように跳ねる。ソユンが顔を伏せたまま耳を押さえ、ドユンのカメラライトが大きく揺れた。
ミンソは救急箱の上へ両手を押しつけた。
「下がって」
今度は誰も動けなかった。
ノイズの奥で、声が形を持った。
低く、抑えた、聞き慣れた男の声。普段は丁寧で、追い詰められるほど短くなる声。ソユンの肩が凍りつき、ヘジュン自身の血の気が引いた。
救急箱の中から、ヘジュンの声が静かに、そしてはっきりと流れ出した。
「今すぐ扉を開けろ」
外から自分の声が聞こえても答えるな
13話 未来の映像が扉を叩く
次の話