「今すぐ扉を開けろ」
救急箱の中の声は、ヘジュン自身の喉から出たものとしか思えないほど正確だった。低く抑えた調子。焦るほど語尾が短くなる癖。ソユンへ言い訳するときに出る、あのわずかなかすれまで混じっている。
ヘジュンは自分の口を両手で押さえた。今の声は違う。自分ではない。そう言いたい衝動が、舌の根元で暴れた。だがミンソの警告が、釘のように頭へ刺さっていた。否定も返事になる。
「開けろ。今すぐ」
また声がした。
救急箱の蓋が、内側から押されるようにぎしりと浮いた。ミンソは両手で押さえつけていたが、体重をかけても金具が震える。古い血の痕がこびりついた箱の隙間から、ざらついたノイズと湿った空気が漏れた。
ソユンは床に座り込んだまま、顔を伏せていた。さっき自分の口から出た言葉の記憶がまだ体を縛っているのか、肩だけが細かく揺れている。ヘジュンは手を伸ばしかけ、また止めた。触れていいのか、声をかけていいのか、その判断すら小屋に奪われていた。
ミンソが救急箱から片手を離し、壁際を指した。
「全員、壁へ」
短い声だった。命令であり、返事を求めない言葉だった。
ジェヒがすぐ動いた。ソユンの肘へそっと触れ、立てるかどうかを確かめる。ソユンは一度だけ小さくうなずき、ヘジュンが置いたままの手を見てから、自分の力で膝を立てた。ドユンはカメラを胸に固定したまま、青い顔で後ずさる。レンズだけが救急箱と扉を交互に追っていた。
「扉を開けろ」
箱の中のヘジュンが、同じ言葉を繰り返した。
今度は少しだけ速かった。急かしているのではない。覚え込ませているようだった。何度も聞かせれば、誰かの手が勝手に動くと知っている声だった。
ミンソは救急箱を床へ押しつけたまま、腰のロープを引き抜いた。黒い髪を結んだ横顔に汗が光っていたが、手つきは揺れない。彼女は箱の上から離れる瞬間を測るように、ヘジュンへ顎で扉を示した。
ヘジュンは理解した。声は出さなかった。工具袋から短いカラビナを取り出し、壁際の棚に打ちつけられていた太い釘を確かめる。古いが、まだ抜けていない。
ミンソは一気に救急箱から手を離した。蓋が跳ねた。中から布に包まれた無線機が生き物のように暴れ、金属の箱へぶつかる。
「開けろ、ヘジュン。外を見ろ。おまえがやるんだ」
自分の声に名を呼ばれ、ヘジュンの背筋が冷えた。喉が勝手に返事を探しかける。違う。違う。彼は奥歯を噛みしめ、扉へ飛びついた。
ドアノブは湿っていた。手袋越しでもぬるりと滑る。外から誰かの手が握っていたあとのように温かかった。ヘジュンはロープをノブへ巻き、ミンソが反対側を受け取る。二人は互いに目だけで合図し合い、扉の横の柱と棚の釘へ八の字に締めた。
「もっと」
ミンソが言った。
ヘジュンはさらに巻いた。ロープが木へ食い込み、古い扉板が低く鳴った。ミンソは結び目へカラビナを噛ませ、体重をかけて引いた。救助隊で何度も命を吊った手つきだった。扉は動かない。少なくとも今は。
ジェヒは壁際でソユンを支えながら、窓のほうへ目を走らせていた。釘で留めた地図の端は濡れ、紙の表面には水滴が浮いている。霧の白さが、紙の裏側から染み出しているようだった。
「匂いが、扉側にも来ています」
ジェヒの声は低かった。
ヘジュンはうなずく代わりに息を吐いた。酸のような薬品臭が鼻の奥を焼く。外と床下と窓が、少しずつ同じものへつながっていく感覚があった。
救急箱の中の無線機は、まだ喋っていた。
「ヘジュン。おまえが開けろ。ソユンを連れて外へ出ろ」
ソユンの肩がびくりとした。兄の声で自分の名を呼ばれたせいだった。ヘジュンは振り返りたかったが、見れば何か言ってしまいそうで、ロープの結び目だけを見つめた。
そのとき、ドユンがかすれた息を漏らした。
「待って……待ってください。これ、やっぱりおかしい」
ミンソの目が鋭く向いた。
「何が」
「さっきの映像です。録画時間、戻ってたんです。森の中でも。今もたぶん、同じことが起きてる」
「今それを見る必要がありますか」
ジェヒが問うた。
ドユンは唇を舐めた。恐怖で乾ききっているのに、いつものように理屈で逃げようとしている顔だった。
「必要ありますよ。外の声が本当に外にいるのか、映像に何か残ってるかもしれない。加工じゃないって証拠にもなるし……いや、違う、そうじゃなくて」
彼は自分の言葉に自分でつまずいた。再生数の話をしなかっただけ、まだ理性は残っていた。胸のカメラを外し、小さな画面を震える指で操作する。ミンソは止めなかった。扉から目を離さないまま、壁際へ下がれと手で示した。
ドユンは膝をつき、さっき撮った映像を巻き戻した。画面には、床に崩れたソユン、布で包まれる無線機、救急箱の蓋を閉めるミンソが映っていた。小屋の中の暗さを、カメラライトが白く削っている。
「ここまでは普通です。普通じゃないけど、撮ったものです」
誰も返事をしない。
ドユンは早送りを止め、フレームを一つずつ進めた。録画時間の数字が画面の上でちらつく。進むはずの秒数が、一瞬だけ後ろへ跳ねた。彼の指が止まる。
「ほら。今、戻った」
ヘジュンは画面を見た。数字は再び進んでいる。だが胸の奥で嫌な予感が膨らんだ。森の中で、録画済み時間が削られるように減っていた光景がよみがえる。あのときは機械の不具合だと信じたかった。
ドユンはさらに巻き戻した。いや、巻き戻したはずだった。ところが映像は先へ進んでいた。救急箱の場面を越え、まだ起きていないはずの室内が映る。ヘジュンとミンソが扉へロープを巻きつけている。まさに今の光景だった。
「……これ、今じゃないですか」
ソユンが震える声で言いかけ、途中で口を押さえた。声を出してしまったことに気づいたのだ。
無線機はその声へ反応するように、箱の中でざり、と鳴った。だがまだソユンを呼ばない。待っている。もっと大きな返事を。
ドユンは青ざめたまま、映像を進めた。
画面の中で、カメラが窓へ向いた。実際のドユンはそんな操作をしていない。胸に固定されたままなら、視線の向きとともに動くはずの映像が、誰かの手で持ち上げられたように滑らかに窓へ寄っていく。
古い地図の隙間から、外の闇が見えた。
最初は霧だけだった。白く濁ったガラスの向こうに、黒い木の影が揺れている。だがフレームが一つ進むたび、闇の中に人の輪郭が浮かび上がった。
五人いた。
ヘジュン、ソユン、ミンソ、ドユン、ジェヒ。
小屋の中にいる者たちと同じ顔、同じ服装だった。ヘジュンの手袋の汚れも、ソユンの袖についた床の埃も、ミンソの結んだ髪の乱れも、ドユンの派手な防風ジャケットも、ジェヒの白い手袋の薬品染みも、すべて同じだった。
ただ、顔だけが違った。
窓の外に立つ五人は、そろって笑っていた。口角だけを無理に吊り上げたような笑みだった。目は少しも笑っていない。濡れたガラス越しに、こちらを見ている。
ドユンの喉から、短い息が漏れた。
「僕たち……ですか」
画面の中の外の五人が、同時に手を上げた。
手のひらが窓ではなく、扉のほうへ向く。次の瞬間、映像の音声に、木を叩く低い音が入った。
とん。
間を置いて、もう一度。
とん。
ゆっくり、同じ力で、同じ間隔だった。誰かを驚かせる叩き方ではない。中にいる者が、必ずそのリズムを覚えるように刻む叩き方だった。
ミンソが扉を見た。実際の扉はまだ静かだった。ロープは張り詰め、ノブも動いていない。
ジェヒがドユンの手元へ身を寄せた。画面の隅を指で示す。
「タイムスタンプを見せてください」
ドユンは言われたとおり表示を拡大した。小さな白い数字が画面の端に浮かぶ。
現在より、四分先だった。
誰も息をしなかった。少なくともヘジュンには、そう感じられた。撮られていないはずの映像。まだ来ていない時刻。そこに、自分たちと同じ姿の何かが並んで、扉を叩いている。
「録画ファイルの時刻がずれた可能性は」
ヘジュンは言いかけて、声を落とした。これは無線機への返事ではない。だが小屋に理屈を口にすること自体が、すでに危うかった。
ジェヒは首を横に振った。
「ずれ方が一定ではありません。森で減った時間と同じなら、機械の時計だけの問題ではない」
ドユンの目が画面へ貼りついていた。恐怖を否定しようとしていた顔が、今は完全に崩れている。彼は加工の有無を確かめるために、映像の詳細情報を開いた。ファイル名、作成時刻、長さ。どれも彼のカメラが自動で作る形式だった。
「撮ってない。僕、こんなの撮ってない」
その声は、彼自身に向けた確認だった。
画面の中で、外のドユンが笑みを深くした。まるでこちらの言葉を聞いたように、首をわずかに傾ける。
その瞬間、実際の扉の向こうで、木が低く鳴った。
とん。
全員の視線が扉へ吸い寄せられた。ロープは動いていない。だが扉板の中央に、外から手のひらを置かれたような鈍い震えが走った。
ドユンのカメラ画面から、二度目の音が流れる。
とん。
それとまったく同じ間で、現実の扉も叩かれた。
とん。
ミンソが一歩、扉の前へ出た。ロープの結び目を握り、全身を硬くする。ヘジュンはソユンを壁際へ押しやり、ジェヒは採取瓶の入ったリュックを抱えたまま息を殺した。
三度目の音が来るまでの間が、異様に長かった。
画面の中の五人は、笑ったまま手のひらを上げている。
そして現実の扉の外で、誰かがゆっくりと、映像と同じリズムで叩き始めた。
とん。
とん。
とん。
次の一打の直前、救急箱の中のヘジュンの声が、低く笑った。
外から自分の声が聞こえても答えるな
14話 ドユンを誘う外の声と復元
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