濡れた舌が木をなめる音は、一度で終わらなかった。
ずるり、ずるり、と細い隙間の奥を湿ったものが通るたび、古い床板の黒い継ぎ目が少しずつ深くなっていくように見えた。ソユンはヘジュンの腕の中で息を止め、ドユンは喉を押さえたまま後ずさった。声にならない悲鳴が顔だけに浮かび、胸のカメラの赤いランプが小刻みに震えている。
外のドユンが、扉の向こうで楽しそうに言った。
「今、全員床を見た」
ヘジュンの背筋が固まった。返事はもちろん、息を荒くすることさえ返事にされる気がした。彼はソユンの耳を塞いだ手を片方だけ外し、自分の唇へ指を当てる。ソユンは涙で濡れた目のまま、何度も頷いた。
ミンソが動いた。彼女は床の中心から目を離さず、ドユンの足首を軽く押して壁際へ下がらせる。もう片方の手でメモ帳を広げ、乱れのない大きな字を書いた。
『声を出さない』
『床から離れる』
『視線で合図』
それを全員へ順に見せた。ヘジュンは頷き、工具袋から予備のロープを引き抜いた。扉に巻いたロープはまだ張っていたが、ノブの根元には汗のような水滴が浮いている。外から誰かが握っているわけでもないのに、金属はぬるく、ゆっくり脈を打つように湿っていた。
「ヘジュンさん、扉が気になる? 大丈夫だよ。そっちは今、開けなくてもいいから」
外の声が柔らかく笑った。
ヘジュンは奥歯を噛み、返事の代わりにロープをさらに二重に回した。ノブ、柱、棚の脚。ミンソが以前作った結び目の上から、自分の修理店で荷を固定するときの癖で固く締めていく。指が震え、結び目が一度滑った。すると外のドユンが間髪を入れずに囁く。
「焦ってる。結び方、店で配送箱まとめる時のやつだ」
ヘジュンの手が止まりかけた。
ソユンが腕を伸ばし、彼の袖をつかんだ。声は出さない。ただ首を横に振る。兄は短く息を吸い、結び目を力任せに引いた。ロープが軋み、柱の古い木肌へ深く食い込む。扉の向こうの声は、そこで初めて不愉快そうに沈んだ。
ミンソは裏口へ向かった。かかとを床から離さず、体重を散らす歩き方だった。床中央の黒い隙間を避け、壁際を伝って進む。裏口の取っ手に布をかけ、ゆっくり押す。動かない。引く。やはり動かない。木戸の縁には、外側から泥を詰め込まれたような暗い膜がびっしり張りついていた。
窓も同じだった。ミンソが古い地図の端を少しだけめくると、ガラスのすぐ外に霧があった。遠くの霧ではない。窓の向こうの空間そのものが、泥水を塗った壁みたいに濁って詰まっている。指で触れればガラス越しに押し返されそうな濃さだった。霧の表面には小さな泡が浮かび、ゆっくり弾けるたびに、薬品臭が室内へ染みた。
ミンソは眉を動かさず、メモを足した。
『裏口、不可』
『窓、霧が密着』
『割らない』
ドユンがその文字を見て、顔を歪めた。開けない、割らない、しゃべらない。残された道が床下だけに集まっていく。それを認めたくないのだと、ヘジュンにもわかった。
外のドユンは、今度は明るい配信者の調子へ戻った。
「出口確認、えらいえらい。でも窓はやめといたほうがいい。そこ、外じゃないから」
ソユンの指がヘジュンの袖に食い込んだ。ヘジュンは彼女を壁へ寄せ、床中央との間に自分の体を置いた。黒い隙間からはもう舌の音はしなかった。代わりに、下で何か大きなものがじっと息を潜めている気配があった。
ジェヒは床に膝をつきかけ、すぐにやめた。顔を近づけず、ライトだけを低く滑らせる。ストーブ周り、救急箱、寝袋の円、床板の継ぎ目。彼女は採取用の小瓶を出し、床の隙間から立ち上る空気を直接吸わないよう、布越しに口元を覆った。
薬品臭は、さっきより濃かった。ストーブの裏から漂っていた重たい臭いとは比べものにならない。鼻の奥を焼き、舌の付け根に金属の味を残す。酸の刺激に、腐った水と古い油を混ぜたような気配があった。ジェヒの目が細くなる。彼女はメモ帳に短く書き、床の隙間を指で示した。
『発生源は床下』
『ストーブより強い』
『換気ではなく吸い込み』
その最後の語に、ヘジュンは小さく息を止めた。
吸い込み。
外へ流れているのではない。小屋の空気が、床下の何かへ集められている。人の呼吸も、声も、震えも、全部そこへ落ちていくのではないか。そう考えた瞬間、外のドユンがくすりと笑った。
「ジェヒさん、いい線いってる。報告書に書くなら『吸い込み』? それとも『摂取』?」
ジェヒの指先が白くなった。だが彼女は顔を上げず、メモ帳を閉じもしなかった。返事の代わりに、隙間から一歩下がる。自分の恐怖を観察結果に変えるような、固い動きだった。
ドユンだけが、床から目を離せずにいた。彼は自分の胸のカメラへ手を伸ばした。ミンソがすぐに止めようとする。ドユンは激しく首を振り、口を開けずにスマートフォンへ打った。
『映像』
『さっきの続き』
『何か映ってるかも』
ミンソは一瞬だけ迷った。外の声は、ドユンを通して中を見ているかもしれない。カメラを触れば、また何かの入口になるかもしれない。だが床下の黒い隙間は待ってくれない。ヘジュンも頷いた。見るしかない。
ドユンは震える手でカメラの再生画面を開いた。液晶の光が彼の青ざめた顔を下から照らす。音量は完全に切られていた。それでも全員、無意識に耳を塞ぎたくなる。再生バーを巻き戻す指が、何度も行き過ぎた。外のドユンが小さく舌打ちをまねた。
「下手だな。そこじゃない。もっと前」
ドユンの肩が跳ねた。自分の声に操作を指示される屈辱が、顔に浮かぶ。だが彼は反論しなかった。画面を睨み、さらに巻き戻す。
映像には、さっきの小屋が映っていた。扉、ロープ、壁際のソユン、床を調べるジェヒ。ドユン自身の視界が揺れ、ミンソの背中が横切る。やがてカメラは床へ落ちるように傾き、寝袋の円を斜めから捉えた。
古い寝袋は、ただ乱雑に置かれているように見えていた。だが停止したフレームの中では違った。布の端が不自然に均等な間隔で開き、円の中央だけを避けている。そこに、薄い埃とワックスの艶に紛れて、黒い四角い輪郭があった。
実際の目では目立たなかった。床板の継ぎ目や汚れに見えていた。けれどカメラの低い角度とライトの反射が、そこだけをはっきり浮かせている。四角い線。床板ではない、蓋のようなもの。寝袋はそれを囲む目印のように広げられていた。
ドユンの指が止まった。
彼はスマートフォンへ急いで打ち、全員へ突きつけた。
『ここ』
『寝袋の真ん中』
『四角い線』
『床板じゃない』
ヘジュンは画面と床を見比べた。息を吸うたび、薬品臭が喉を刺す。ミンソが寝袋へ視線を走らせ、手ぶりで全員をさらに壁際へ寄せた。ジェヒはライトを低く構え、黒い輪郭の端を探すように照らす。
外のドユンが、静かに笑った。
「やっと見つけた」
その声はもう、からかっていなかった。待ち望んでいたものがそこにあると確信している声だった。
床下から、かり、と音がした。
木の内側を、硬い爪が引っかく音だった。かり、かり、かり。四角い輪郭のすぐ下から、冷たく規則正しく這い上がってくる。ソユンが口を塞ぎ、ドユンは声のない叫びで背中を壁に打ちつけた。
音は円の中心で止まらなかった。
かり。
黒い四角の一辺に沿って、何かが内側から線をなぞる。
かり。
次の辺へ移る。
かり。
三つ目の角で、床板がわずかに持ち上がった。
そして隙間の奥から、ドユンの奪われた声ではない、もっと低く古い息が吸い込まれた。
外から自分の声が聞こえても答えるな
19話 床下に隠された黒い扉
次の話