ほどけていく靴紐の動きは、あまりにも遅かった。
結び目がひとつ緩み、濡れた床へ黒い紐の先が垂れる。誰かが目の前にしゃがんで、丁寧に解いているようだった。ミンソは反射的にライトを靴の周囲へ走らせた。だがそこには誰もいない。リュックの山の影、壁際の裂けたジャケット、ぬめる水膜の上にも、人の形はなかった。
ヘジュンは階段の途中でロープを握りしめたまま、ソユンへ振り返った。彼女はまだ上の壁際に立っていた。両手で口を塞ぎ、目だけで下を見ている。ここへ降ろしてはいけない。そう判断するのに、迷いはなかった。
ヘジュンは片手を上げ、手のひらを下へ向けて止まれと示した。ソユンは小さく頷いた。声を出さない。その約束だけが、今この場で人間の側に残された細い線だった。
ミンソが一歩、靴へ近づいた。足跡を踏まないように、つま先を横へずらす。低いコンクリートの天井は彼女の頭上すぐにあり、束ねた黒髪が梁のざらついた縁に触れそうだった。地下室は狭いのに、壁沿いの荷物だけが人の背丈ほど積み上がっている。色とりどりのリュック、傷だらけの登山靴、防水の縫い目から中綿をのぞかせたジャケット。濡れた土の匂いに、甘く腐った悪臭と薬品の刺激が混じり、息を吸うたび喉の奥を削った。
ジェヒは階段の下から半身だけ降り、ライトを構えた。彼女の視線は床だけでなく壁にも向いていた。コンリートの一部には、黄色と黒の塗装が剥がれた跡が細く残っている。人が暮らす場所ではない。保管庫と呼ぶにも、あまりに湿りすぎていた。
ドユンは上から三段目にいた。胸のカメラを両手で押さえ、震える指で録画ボタンを確認する。声を失った喉が上下し、何も言えないまま、レンズだけを地下室へ向けていた。赤いランプが点いているのを見たヘジュンは、今は止めなかった。証拠が必要になる。そう思ったからではない。ドユンからカメラまで奪えば、彼自身をつなぐものが何も残らない気がした。
ミンソは靴の前で止まり、指を二本立てた。足跡、二つ。濡れた床には、地下室の奥から靴の前へ来たようにも、靴の前から階段へ向かったようにも見える裸足の跡があった。水はまだ縁で盛り上がり、埃も沈殿物もかき乱されていない。たった今、そこに足が置かれた証拠だった。
ヘジュンは工具ナイフを握った。下へ降りきる前に、まず何か確かめなければならない。彼はミンソへ目で許可を求める。ミンソは短く頷き、リュックの山の手前にある一つを顎で示した。赤い子供用ではなく、濃紺の古い登山リュック。泥で膨らみ、ファスナーが錆びて動かないものだった。
ヘジュンは階段を最後まで降りた。天井の低さに首を縮め、足跡を避けて膝をつく。ロープの一端は自分の腰に巻き直し、もう一端をジェヒが握った。ミンソは靴とヘジュンの間に立ち、何かが動けばすぐ押し返せる姿勢を取る。
リュックの布は水を吸い、触れると冷たい肉のように沈んだ。ヘジュンは刃を短く出し、縫い目へ差し入れる。仕事で何度も切ったナイロン生地だった。だがいつものようにほつれを整えるためではない。中に残された誰かの最後の荷物を、勝手に開くためだった。
刃が走ると、濁った水がじわりとにじみ出た。中から出てきたのは、濡れた靴下、くしゃくしゃに丸められたレインカバー、割れた携帯用コンパス。そして透明なビニール袋に入った、薄い紙の束だった。
ヘジュンは手袋越しにそれを取り出した。ビニールは破れていて、中の写真は半分水を吸っていた。ライトを近づけると、若い夫婦と小さな男の子が、山道の入口らしい看板の前で笑っているのが見えた。父親は登山帽を斜めにかぶり、母親は子供の肩へ手を置いている。男の子は少し前歯の抜けた笑顔で、片手に菓子の袋を持っていた。
地下室の臭気と、その屈託のない笑顔が、同じ世界のものとは思えなかった。
ヘジュンはしばらく息を止めた。写真の中の家族は、この地下室を知らない。低い天井も、濡れた床も、身分証だけが散らばる壁際も知らないまま、ここへ来たのだ。あるいは、ここへ引きずり込まれる直前まで、まだ帰れると思っていたのかもしれない。
写真の下から、古い身分証が滑り落ちた。名前の一部は水でにじんでいたが、顔写真はまだ残っている。先ほどの父親だった。笑っていない証明写真の顔は、家族写真の明るさを残していない。それでも同じ人だとわかる程度には、目元がはっきりしていた。
ジェヒが息を詰めた。声にはしない。だが彼女の目が、カードの日付へ吸い寄せられた。十年以上前。静寂稜線がまだ普通のキャンプ場として宣伝されていたころの日付だった。
ヘジュンは写真と身分証を床へ置かず、自分の膝の上の乾いた布に並べた。捨てられていたのではない。少なくとも、その扱いだけはしたくなかった。
ミンソがリュックの山を見上げた。彼女は一つを引き抜くのではなく、積み方そのものを確かめていた。濡れた荷物は無造作に投げ込まれれば崩れる。だがこの山は違った。重いリュックを下に、軽い上着を上に。靴は片方ずつ向きを揃え、ジャケットは袖を折り込んである。汚れていても、積まれ方だけは妙に整っていた。
ミンソはヘジュンへ手ぶりで示した。両手で肩紐をつかみ、後ろへ引き剥がす動き。次に、手首をひねって何かを奪う動き。最後に、畳んで積む動き。
自分から置いたのではない。誰かが剥ぎ取った。そういう意味だった。
ヘジュンの背筋に、冷たいものが走った。遭難者が荷物を捨てるなら、こんな畳み方はしない。逃げる者が靴を揃えるはずもない。ここには、荷物を奪う手順があった。生きている人間から背負い紐を外し、身分証を抜き、靴を脱がせる何者かの手順が。
ドユンのカメラが小さく震えた。レンズはヘジュンの手元から、濡れた写真へ移り、身分証へ移り、それから勝手に引かれるように靴のほうへ戻った。彼が向けているのではない。手が迷っているのに、焦点だけが一点へ吸い寄せられていく。
埃ひとつない登山靴。
その前の濡れた足跡。
ミンソがそれに気づき、素早く手を上げた。全員止まれ。ヘジュンは写真を布ごと胸へ寄せたまま固まる。ジェヒのライトが靴のつま先を照らした。黒い革は古く、側面には深い傷がある。だが紐だけは濡れて艶を帯び、今結び直されたように柔らかく垂れていた。
そして、靴の内側から水が落ちた。
ぽたり。
床の水音は小さかった。けれど地下室全体が、それを聞くために沈黙したように感じられた。水滴は足跡の縁に当たり、盛り上がっていた形を少しだけ崩した。
ドユンがスマートフォンを持ち上げた。震える親指が文字を打つ。
『今』
『靴の中に』
『誰かいるみたいに見えた』
ヘジュンは画面を見た瞬間、靴へ視線を戻した。見間違いであってほしかった。だが靴の履き口の奥、黒い空洞の中で、濡れた肌のようなものが一瞬だけ引っ込むのを見た気がした。
次の瞬間、階段の上から、外のドユンの声が降ってきた。
「見つけた?」
それは扉の外ではなかった。小屋の床のすぐ上、開いた蓋の縁に口を置いたような近さだった。ドユン本人の軽い調子で、楽しそうに、しかし地下室の空気を一段冷やすほど低く響いた。
「そこに並んでるの、全部お客さんの荷物だよ。次は誰のを畳もうか」
ソユンの肩が階段の上で跳ねた。ヘジュンは口を開きかけ、奥歯を噛んで止めた。答えてはいけない。怒鳴っても、否定しても、返事になる。
ミンソがライトを靴から離さず、片手で全員へ下がれと示した。そのとき、埃のない登山靴が、まるで履いている足首を持ち上げたように、ほんの少し前へ傾いた。
濡れた足跡が、もう一つ増えた。
今度の跡は、地下室の奥へではなく、階段の一段目へ向いていた。
外から自分の声が聞こえても答えるな
22話 遺品保管庫の名札
次の話