その一行を見た瞬間、地下室の空気が固まった。
『俺のユーチューブチャンネルの名前、何だったっけ』
冗談には見えなかった。字は途中で力を失い、最後の「け」は紙の繊維を破るように歪んでいた。ドユンは自分で書いた文字を見下ろし、意味を追いかけるように何度も瞬きした。助けを求める顔ではなかった。自分の足元が消え、どこへ落ちているのか本人にもわからない顔だった。
ヘジュンは胸の奥で叫びかけた。だが、声になれば小屋に渡る。彼は歯を食いしばり、ドユンの肩を両手で押さえた。ここにいる。まだいる。そう伝えるために、強く握りすぎないよう気をつけた。
ドユンはペンを握り直し、紙の端へ何かを書こうとした。チャンネル名。企画名。自分を世間に差し出してきた看板。そのどれかを掘り起こそうとしているのはわかった。けれどペン先は同じ場所で震え、黒い点を増やすだけだった。
ソユンがマスク越しに浅く息をしながら、鞄から小さな手帳を引き抜いた。測定器の数字は九四と九五の間を揺れていたが、彼女はそれを外さず、片手でページを開いた。
彼女は大きな字で書いた。
『名前』
『住所』
『家族』
それからヘジュンを見た。問いかけるな、声にするなという目だった。ヘジュンが頷くと、ソユンは下へ候補を書き足した。パク・ドユン。父。母。妹。ソウルの区名らしい住所。車内でドユンが軽口まじりに話した断片を、必死に拾い集めたものだった。
ドユンはその文字を見た。パク・ドユンの行で、かすかに目が動く。自分の名前だけはまだ届いていた。だが父の行で眉が寄り、母の行で唇が震え、妹の行で目が迷子のように泳いだ。
彼はペンを走らせた。
紙に刻まれたのは名前ではなかった。短く裂けた線。横へ折れた線。丸にも文字にもならない黒い傷。何度書いても、そこには意味が生まれなかった。
ソユンの顔から血の気が引いた。彼女は住所の欄を指差す。ここは、あなたの家。そう示しているのに、ドユンはその行を、読めない外国語のように見つめるばかりだった。やがてペンを握ったまま、手帳の上に意味のない線を何本も引いた。線は重なり、黒い穴のようになった。
ミンソがドユンの手首をそっと押さえた。止めるためではなく、紙を破る前に休ませるためだった。ドユンは抵抗しなかった。彼の目尻から涙だけが落ち、頬の泥へ混じった。
ジェヒはそのあいだ、録音機の下に残された封筒の切れ端を調べていた。湿気で貼りついた紙をペン先で剥がすと、内側に細かな文字が残っていた。オ・ギョンテクの筆跡だった。
『順番がある』
最初の一文を見て、ジェヒの指が止まった。彼女はメモを床に置き、全員が読めるようライトを当てた。
『一、声。返事をした者は声を失う。外のものが声色と息を使う』
『二、私的記憶。名前、住所、家族、過去の喜び、恥。声に結びつくものから空になる』
『三、他者記憶。周囲の者が、その人を思い出せなくなる。写真、記録、顔が先に壊れる』
『最後、存在。荷物だけが残る』
最後の行だけ、筆圧が深く紙を削っていた。
ヘジュンはドユンを見た。声はもう奪われている。今、家族や住所が抜け落ち始めている。なら次は、彼らの中からドユンが消えるのか。
ついさっきまで車の後部で機材の値段を語り、動画の題名を得意げに並べ、危険を軽く見ていた男。その軽さに苛立った記憶まで、自分の中から薄まる日が来るのか。考えた瞬間、ヘジュンの腹の底が冷えた。
ソユンが急いでドユンの顔を見た。覚えようとしているのだと、ヘジュンにはわかった。目の形、濡れた前髪、派手な防風ジャケットの色、喉を押さえる指。忘れてはいけないものを、今すぐ頭の中へ縫いつけようとしていた。
だが地下室は、それを許さないように、かすかに軋んだ。
遺品の山の奥で、身分証が一枚滑り落ちた。かさ、と乾いた音がしただけなのに、全員の肩が跳ねた。ミンソがライトを向ける。床に落ちたカードの写真欄は、白く削られていた。
ミンソは黙って近づき、手袋越しにカードを拾った。続けて周囲に散らばる身分証を一枚、また一枚と集める。財布の中、壊れたスマートフォンケースの裏、ビニール袋の底。動きは速く、無駄がなかった。救助現場で遺留品を回収する手順そのものだった。
やがて十数枚の身分証が、床の上に並んだ。
名前は読めた。生年月日も、住所も、発行機関も残っていた。だが写真の顔だけが、どれも判別できなかった。爪で横に引っかかれたもの。硬いもので押し潰されたもの。湿気ではなく、顔だけを狙って削られたもの。笑っていたはずの口元も、目元も、鼻筋も、全部が白い傷や黒い汚れで消えていた。
ジェヒが口を押さえた。メモの三番目。写真、記録、顔が先に壊れる。
ヘジュンは自分の記憶の中にあるドユンの顔を確かめようとした。まだ思い出せる。集合場所で予定より早く来て、車の後部を覗き込み、軽く手を振った男の顔。小屋で無理に笑っていた顔。声を奪われて床に倒れた顔。
まだある。
だが、そう確認した瞬間、恐怖は増した。確認しなければならない時点で、もう侵食は始まっているのではないか。
ドユンが並べられた身分証を見た。彼は自分の胸ポケットを探り、カメラのストラップに引っかかっていた財布を抜いた。中から自分の身分証を取り出そうとして、指が何度も滑る。ヘジュンが手伝おうとすると、ドユンは首を横に振った。まだ自分でできると訴えるような、切ない強さだった。
カードが床へ落ちた。
ライトが写真欄を照らす。ドユンの顔は、まだ残っていた。少し古い写真で、今より髪が短く、笑い方も作り慣れていない。けれど確かにドユンだった。
全員がほんの一瞬だけ息を緩めた。
そのとき、写真の右頬に細い白い線が走った。
誰も触れていない。カードは床に置かれている。なのに、内側から表面が裂けるように、もう一本、目元へ向かって傷が伸びた。ドユンの目が見開かれる。彼はカードへ手を伸ばしかけたが、ミンソがその手を押さえた。
触るな。小屋が反応を待っている。
白い線は止まった。だが写真の中の笑顔は、もう少し歪んで見えた。
ここは墓だ、とヘジュンは思った。
人を殺して埋めるだけの場所ではない。声を剥ぎ、記憶を吸い、顔を削り、最後にその人がいたという事実まで畳んでしまう墓。リュックや靴や身分証は、遺品ではなく、食べ残しだった。
その確信が胸に落ちた瞬間、階段の上で床板が鳴った。
ぎしり。
小屋の床からだった。地下へ続く蓋の向こう、彼らが降りてきた階段の上。誰かが歩いた音ではない。長いあいだ閉じていた肺が、冷たい空気を吸い込む前に軋んだような音だった。
全員が階段を見上げた。
ヘジュンの声ではなかった。外で喋るドユンの声でもなかった。ミンソでも、ジェヒでも、ソユンでもない。
もっと古い。
生きていた時間をとっくに失い、名前も顔も削られ、それでも息だけが地下と小屋のあいだに残ったもの。そんな冷たいため息が、階段の上からゆっくり流れ落ちてきた。
ソユンの身体が、はっきり震えた。
マスクの下で、彼女の唇が色を失っていく。測定器の数字が九三へ落ちた。彼女は声を出していない。返事もしていない。ただ、その息遣いを知っている者だけが見せる恐怖で、目を見開いていた。
ヘジュンは妹の手首をつかんだ。次に来るものが何か、まだ知らなかった。だが、ソユンが聞いてしまったことだけはわかった。
階段の上の闇で、もう一度、細く息が漏れた。
そして、死んだはずの誰かが、言葉になる直前のやさしさで息を吸った。
外から自分の声が聞こえても答えるな
28話 母の声が落ちる地下室
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