その息は、階段の板を伝って落ちてきた。
冷たい風ではなかった。誰かが上で長く我慢していた苦しさを、最後に少しだけ吐き出したような、細く湿ったため息だった。地下室の薬品臭も、錆びた金属管の匂いも、その一瞬だけ遠のいた。
ソユンの顔から、血の気が音もなく引いた。
ヘジュンは考えるより先に動いていた。妹の手首をつかみ、遺品の山と壁のあいだ、階段から少しでも遠い奥へ引き寄せる。ソユンの身体は軽すぎた。抵抗はなかった。ただ、膝から力が抜けかけ、ヘジュンが支えなければその場に崩れていた。
彼女は片手で口を固く押さえていた。指の隙間から声は漏れない。けれど涙だけが、せき止められずに頬を伝った。
ヘジュンは妹の目を見た。問いかけてはいけない。名前を呼んでもいけない。わかっているのに、喉の奥で「どうした」と形になりかけた言葉が暴れた。
ミンソがすばやく間に入った。黒い髪を揺らし、階段とソユンのあいだに身体を置く。彼女はメモ帳を開く暇も惜しむように、自分の手袋を外し、手のひらへペン先を強く走らせた。
『反応するな』
『息も声も返事にされる』
文字は乱れていたが、力はあった。
ソユンはその手のひらを見ても、首を縦にも横にも振れなかった。目だけが階段の上に縫い留められている。ヘジュンは彼女の視線を遮るように身体をずらしたが、聞こえるものまでは防げなかった。
上でもう一度、息が漏れた。
今度は短かった。肺の奥に残った空気を、痛みに耐えながら押し出す音。ヘジュンは知らないはずなのに、ソユンがなぜ凍りついたのか悟った。母の病室で、最後の数時間だけ聞こえていた音と同じなのだ。
白い壁。消毒液の匂い。乾いた唇。機械の規則的な音。母が目を開けるたび、ソユンは椅子から立ち上がった。ヘジュンはその日、店の支払いの電話で病室の外に出ていた時間が何度もあった。戻るたびに、ソユンは母の手を握ったまま、泣いていない顔で座っていた。
そのときの息を、妹だけは全身で覚えている。
ヘジュンは自分の胸が内側から潰れるのを感じた。なぜ今、それを使う。なぜよりによって、そこを選ぶ。
答えはわかっていた。ここは、いちばん痛む場所を探す家だった。
ジェヒが封筒の切れ端を震える指で開いていた。オ・ギョンテクの筆跡が残る紙片の端を、彼女はライトの下へ滑らせる。そこには、さっき読んだ順番の下に、細い補足のような一文があった。
『最も強い後悔が、最初に呼ばれる』
ジェヒはその文を指し示し、それからソユンを見た。断定はしない。だが彼女の目には、調査者としてではなく、一人の人間としての痛ましい理解が浮かんでいた。ソユンの中で、母の死はまだ閉じていない。小屋はそこを見つけた。
ドユンもそれを読んだ。声を失った彼は、壁際で身分証を抱えたまま、ひどく幼い顔をしていた。自分の名前さえ削られ始めている彼が、ソユンへ何か書こうとしてペンを握る。だが指は震え、紙の端に短い線しか残せなかった。
階段の上の闇が、ゆっくり息を吸った。
ソユンの肩がびくりと跳ねた。ヘジュンは彼女の口元を押さえる手に、自分の手を重ねた。押しつけるのではなく、ここにいると知らせるためだった。だがソユンの指は氷のように冷たく、震えは止まらない。
『ソユン、聞くな』
そう書きたいのに、紙を探す余裕がなかった。
ミンソが代わりに動いた。自分の手のひらの文字を消すように袖でこすり、さらに大きく書き直す。
『上の声は人じゃない』
『お母さんじゃない』
『見るな』
ソユンは読みはした。読んだはずだった。けれど目の焦点は、手のひらではなく、その向こうの階段の暗がりへ引っ張られていた。
ひゅう、と細い音がした。
息だけではなくなっていた。声の前の震え。病人が一語を作る前に、喉のどこかを探る音。ヘジュンの背筋に汗が浮いた。小屋はまだ言葉にしていない。言葉になるまでの猶予を、わざと長くしている。
恐怖を育てるために。
「……」
ソユンの唇が手の下でわずかに動いた。音は出なかった。ヘジュンは心臓が止まりかけるほど強く妹を抱き寄せた。彼女は我に返ったように目を見開き、すぐに自分の口をさらに強く押さえた。爪が頬へ食い込み、赤い跡が残る。
ヘジュンはその手を止められなかった。痛みでも使わなければ、彼女は崩れてしまう。
上から、たどたどしい音が落ちた。
「……ソ……」
全員の身体が固まった。
それは名ではなかった。まだ呼びかけではない。だが、ソユンの名前の最初の音に似ていた。地下室の壁に積まれたリュックや靴が、いっせいに耳を傾けたように静まり返る。
ミンソが首を横に振った。激しくではない。静かに、だが絶対に、という動きだった。
ジェヒはオ・ギョンテクの記録を閉じ、防水袋に押し込んだ。手元の資料より今は生きている人間を守るべきだと判断したのだ。彼女はソユンの前に膝をつき、メモ帳へ短く書いた。
『母親しか知らないことを言っても、返事しないで』
『記憶を借りているだけ』
ソユンの目から、また涙がこぼれた。彼女は震える手でメモ帳を受け取り、何かを書こうとした。ペン先は何度も紙を刺し、ようやく短い字になった。
『あの息』
『お母さんの最後』
ヘジュンはその文字を見て、呼吸の仕方を忘れた。
自分は知らなかった。病室にいたはずなのに、知らない。母が最後にどんな息で痛みに耐え、どんな間隔で眠りへ沈み、どんなふうにソユンだけを見ていたのか、兄である自分は知らなかった。
店の電話。支払い。納期。言い訳。母の死のそばで、自分は金のことを考えていた。
『俺を呼べ』
声に出してはいけない願いが、胸の奥で叫びになった。
ソユンじゃなくていい。母の声で俺を責めればいい。俺が病室を離れたことも、店を守るふりをして家族から逃げたことも、全部俺のほうへ投げればいい。妹を呼ぶな。
だが小屋は、ヘジュンの願いなど聞かなかった。
階段の上で、吸気が深くなった。さっきまでの衰えた息遣いに、かすかな湿りと、昔の穏やかさが混ざっていく。病人の胸から出る掠れた音なのに、そこには子供を寝かしつけるときのやわらかさがあった。
ソユンの瞳が揺れた。
「……ソル……」
小さな音だった。
ヘジュンは一瞬、それが誰を指すのかわからなかった。ソユンの名前ではない。彼が知っている家族の呼び名にもない。だがソユンは、身体を刺されたように硬直した。
メモ帳が彼女の手から落ちた。
幼いころ、熱を出した夜だけ母が呼んだ名。泣き疲れて眠れないとき、耳元で一度だけ囁かれた名。兄にさえ聞かせなかった、母と娘のあいだの小さな隠し場所。
小屋はそこまで掘り起こしていた。
ヘジュンは血が逆流するような怒りを覚えた。だが怒りも返事になる。彼は歯を食いしばりすぎて、顎が痛んだ。ミンソが彼の腕をつかみ、無言で強く握る。怒るな。動くな。妹を離すな。その力だけで伝えてきた。
上の声は、もう息ではなかった。
「……ソル……うちの……」
言葉は途中で崩れ、湿った咳のような音に沈んだ。だが、その崩れ方まで母に似ているのだろう。ソユンは首を横に振った。否定ではない。聞きたくない、けれど聞こえてしまうという悲鳴の代わりだった。
ドユンが床に落ちたメモ帳を拾い、大きく殴り書きした。
『だめ』
『返事したら取られる』
字は歪んでいた。自分が何を取られている最中なのか、彼は誰より知っていた。ドユンはその紙をソユンの膝へ押しつけ、必死に首を振った。
ソユンは紙を見た。見て、涙で滲ませた。それでも階段のほうへ、ほんの少し身体が傾いた。
ヘジュンは妹を抱き戻した。強くしすぎれば声を出させてしまう。弱ければ奪われる。腕の力加減がわからず、彼の指も震えた。ソユンは抵抗しなかった。ただ、母を呼び返したい衝動と、返事をしてはいけない理性のあいだで、身体だけが引き裂かれているようだった。
ジェヒがもう一度、例の一文を指で叩いた。
『最も強い後悔が、最初に呼ばれる』
そして自分のメモへ書き足す。
『小屋は後悔を入口にする』
『今はソユンさんが入口にされている』
ヘジュンはその文字を見た瞬間、理解した。これはただ母の声で妹を苦しめているのではない。ソユンを開けさせようとしている。扉でも蓋でもなく、彼女自身を。
階段の上で、床板がもう一度鳴った。
ぎし、ぎし。
誰かが降りてくる音ではない。声が形を得るたび、小屋そのものが近づいてくる音だった。闇の隙間から、病室の白い光と古い布団の匂いが混じったような錯覚が流れ込む。地下室の遺品たちが、そこだけ母の寝台へ変わっていくようだった。
ソユンの呼吸が乱れた。測定器は九二を示し、短く警告音を出しかけた。ミンソがすばやく機器を押さえ、音を殺す。だがその小さな振動にさえ、階段上の声は嬉しそうに息を吸った。
今度の声は、はっきりしていた。
弱っている。掠れている。けれど骨の奥へ直接染み込む、逃げ場のない母の声だった。小屋の天井でも、階段の上でもない。狭い板の隙間すべてから、ソユンの耳の内側へ入り込むように響いた。
「ソユン」
ヘジュンは妹の頭を胸へ押しつけた。ミンソが目を閉じるなと身振りで示し、ジェヒがライトを階段へ固定する。ドユンは自分の喉を押さえたまま、紙を掲げ続けていた。
声は、そこで一度だけ痛みに耐えるように息を継いだ。
そして、死んだ母だけが持つやさしさで、地下室の闇へ落ちてきた。
「ソユン、母さんよ」
外から自分の声が聞こえても答えるな
29話 母の声が残した最後の頼み
次の話