声が落ちた瞬間、ソユンの膝が折れかけた。
ヘジュンは背中から妹を抱き込んだ。自分の胸と腕で、階段へ向かう細い身体を塞ぐ。ソユンは口を押さえたまま、声を出さずに泣いていた。返事はしていない。けれど全身が、もう母へ駆け寄ろうとしていた。
「ソユン」
階段の上から、また呼ばれた。母の声だった。ヘジュンが覚えているより少し痩せ、病室の白い光に乾かされた声。それでも、怒るより先に心配してしまうときのやわらかさまで同じだった。
ソユンの足が一歩出た。
ミンソが横から腕を伸ばしたが、ソユンは見えていないようにすり抜けた。視線は蓋の向こうの闇に吸われている。ジェヒがライトを揺らし、ドユンが紙を掲げた。『だめ』という字は黒い傷のように見えた。
ヘジュンは妹の腰を両腕で締めた。強く抱けば痛がる。弱ければ行ってしまう。その迷いを小屋が待っている気がして、彼は片手をほどき、ソユンの手のひらを探った。冷たい指をこじ開けるようにして、ペン先を押し当てる。
『母さんはもう亡くなった』
『あれは偽物だ』
文字は歪んだ。手の震えがそのまま線になった。ソユンは自分の手のひらを見下ろした。読めている。理解している。なのに涙は止まらず、首がゆっくり横に振られた。
知っている、という動きだった。
知っているのに、足が止まらない。
上の声が、細く息を吸った。
「ソル……寒いでしょう。こっちへおいで」
ソユンの目が濡れた光を返した。幼い子に毛布をかけるみたいな調子だった。地下室の腐った床に、消毒液と温い粥の匂いが一瞬だけ混ざる。ヘジュンの鼻の奥が痛んだ。
彼はその夜を完全には知らない。
知っているのは、廊下で取引先に頭を下げた自分の声だけだった。部品代を待ってほしい。今週中には必ず。母の病室の前で、彼は同じ言葉を繰り返していた。電話を切って戻ったとき、ソユンはベッド脇の椅子に座り、母の手を握ったままこちらを見なかった。
その沈黙を、ヘジュンは責めだと思った。
本当は、最後の言葉を抱えていたのかもしれない。
「ソユン」
母の声は、また名前を呼んだ。今度は小屋の板壁を通って、地下室の背後からも響いた。リュックの山の隙間、身分証の白く削れた顔、金属管の暗がり。すべてが母の喉になっていく。
ソユンの手が、ヘジュンの腕をつかんだ。
助けを求める力ではなかった。離して、と懇願する力でもなかった。ただ、身体のどこかが階段へ行こうとするのを、別のどこかが必死に引き止めている。彼女自身が二つに裂けていた。
ミンソが救急箱を引き寄せた。膝で蓋を押さえ、留め具を外す。古い包帯、消毒パック、ひび割れた体温計、酸素飽和度測定器の予備電池。彼女の手は速かったが、焦りで何度か箱の縁に当たった。鎮静剤を探しているのだと、ヘジュンは遅れて気づいた。
ジェヒはオ・ギョンテクの紙片を開き、短く書いた。
『後悔を入口にされる』
『抱えていてください』
ヘジュンは頷いた。頷いたはずだった。
そのとき、上から咳が落ちた。
弱い咳。途中で痛みに負け、息だけになって終わる咳。ソユンが目を見開く。ヘジュンの腕の中で、彼女の力が一瞬抜けた。
「……母さん、もう長く話せないの」
その一文で、地下室は病室に変わった。
白いシーツ。点滴の透明な管。ベッド脇で点滅する小さな緑の光。ヘジュンには見覚えのあるものと、覚えのないものが混ざっていた。小屋が見せているのではない。ソユンの記憶が声に引きずり出され、彼の頭の中へまで流れ込んできていた。
母が、ヘジュンのいない数分を選んでいた。
廊下で彼が金の電話をしていた間。ソユンだけがベッドのそばに残っていた間。母は乾いた唇を少し開き、声にならない声で娘を呼んだ。
階段の上の母が、その記憶を完璧になぞった。
「ソル……お兄ちゃんを、あまり憎まないで」
ヘジュンの腕から力が消えた。
それは責め言葉ではなかった。許せと言っているわけでもなかった。母が死を前にして、残される二人のあいだに少しでも柔らかい場所を残そうとした、最後の頼みだった。
だからこそ、残酷だった。
ソユンは息を呑んだ。手のひらの文字を握り潰すように拳を作り、次の瞬間、脚から力が抜けた。ヘジュンは支えようとしたが、自分の膝も同時に崩れ、二人は遺品の山の前へ座り込んだ。
「……っ」
声になりかけた音を、ソユンは自分の手で殺した。爪が唇の端を裂き、赤い点がにじむ。彼女は幻だとわかっている。偽物だと知っている。だが、母にその言葉を言わせたのは小屋ではなかった。
実際に、母はそう言ったのだ。
ヘジュンはその事実に押し潰された。妹が自分を憎んでいると知っていた。憎まれて当然だとも思っていた。母の葬儀、店の赤字、保証金の封筒、都合の悪い話を先延ばしにした日々。金が苦しいたび、彼はソユンから目を逸らした。
そして母は、それを見抜いていた。
「お兄ちゃんは、不器用だから」
上の声がさらに続けた。
ソユンが肩を震わせる。ヘジュンの腕は彼女の身体に回ったままなのに、もう抱き止める力になっていなかった。むしろ彼の罪悪感が、妹を階段のほうへ押しているようだった。
『俺のせいだ』
思った瞬間、金属管の奥で何かが喜ぶように息を吸った。
ミンソが振り向いた。彼女は救急箱の底を探り、古い薬包を放り出し、金属ケースをつかむ。中には注射器とアンプルが数本並んでいた。ラベルは古く、にじんでいる。ミンソはそれをライトにかざし、使えるものを選ぼうとする。
だが階段の上の声は、その小さな希望さえ見逃さなかった。
「ソル、怒ってもいいの。でも、ひとりにしないであげて」
ソユンの身体がまた階段へ傾いた。ヘジュンは腕に力を入れようとした。入らなかった。母の頼みを、自分が聞く資格などない。妹に耐えろと言う資格もない。そう思った瞬間、彼の指がほどけた。
ドユンが無音で飛びつき、ヘジュンの手首をつかんだ。声を失った喉を震わせ、必死に首を横に振る。彼は片手で紙を押しつけた。
『返事したら終わり』
その字で、ヘジュンはかろうじて戻った。
彼はソユンを抱え直した。謝るな。呼ぶな。泣くな。どれも声にできない。代わりに、妹の手のひらへ額を押しつけた。許してほしいのではない。今だけ、行かないでくれ。それだけを、震える息を殺して伝えようとした。
ミンソがアンプルを折った。小さな硝子の音さえ、地下室では刃物のように響いた。彼女は注射器へ液を吸い上げながら、ジェヒへ目で合図する。ジェヒがライトを固定し、ソユンの腕を押さえる位置を探した。
そのときだった。
階段の上、蓋のさらに向こうで、きい、と古い蝶番が鳴った。
全員の動きが止まった。扉だ。小屋の上の扉。ロープで縛り、外の霧から閉ざしていたはずの扉が、ほんのわずかに開いた音だった。
隙間から風は来なかった。代わりに、何か白っぽいものが、床板の端へ触れた。
それは布だった。
古く、湿って、ところどころ灰色に汚れた布切れが一枚、階段上の闇からゆっくり滑り落ちてきた。落ちるのではない。自分で床を探るように、蛇のように身をくねらせて、段差を一段ずつ降りてくる。
ミンソの注射器が止まった。
ジェヒのライトが震えた。
ヘジュンとソユンは、同時に息を止めた。
布の角に、かすかに花の刺繍が見えた。
外から自分の声が聞こえても答えるな
30話 母の形見が這う地下階段
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