花の刺繍が見えた瞬間、ソユンは悲鳴さえ上げられなかった。
彼女の喉は、声を作る前に凍りついた。唇の端からにじんだ血だけが、震えに合わせて細く伸びる。ヘジュンは妹を抱えたまま、その布切れを見た。古く湿った白布。角に薄紫の花が三輪、ほつれた糸で縫われている。
見間違えるはずがなかった。
母の葬儀の日、棺の上に置いたハンカチだった。
ソユンが幼いころ熱を出すたび、母が額の汗を拭いていたものだ。洗いすぎて布は柔らかくなり、角の刺繍だけが妙に丈夫に残っていた。葬儀の朝、ソユンは泣き腫らした顔でそれを握り、最後まで手放そうとしなかった。
それでも、棺が閉じられる前にそっと置いた。
『寒くないように』
声には出さなかった。だがヘジュンは、妹の唇がそう動いたのを覚えていた。
そのハンカチは、火葬場へ向かう前に消えた。誰かが片づけたのだろうと親族は言い、葬儀社の人間も知らないと言った。ソユンは何も言わなかった。ただ、その日から何度も自分の鞄を探し、空のポケットを裏返していた。
その布が、今、地図にない小屋の階段を這って降りてくる。
あり得ない。
ヘジュンの頭は否定した。だが記憶は否定しなかった。棺の白い花、母の頬に触れた冷たい光、焼香の煙、喪服の袖を握るソユンの細い指。あの日のすべてが、布の湿り気に引きずられるように戻ってくる。
ソユンの目が、空っぽになった。
「……」
声は出ない。だが彼女の口は、母を呼ぶ形になりかけていた。ヘジュンは慌てて妹の顎を自分の肩へ押しつけた。強くはできない。小さな痛みさえ、返事の代わりにされる気がした。
ミンソが注射器を握ったまま、鋭く首を振った。黒い髪が頬に張りつく。彼女は、ハンカチへ向かって伸びかけたソユンの手を遮り、空いた手で何度も床を指し、それから両手を胸の前で大きく交差させた。
触るな。
その身振りは短く、乱暴で、救助現場の命令そのものだった。
ジェヒも同時に動いた。彼女はオ・ギョンテクの紙片を床に置き、ライトの光をハンカチへ当てないよう少しずらす。それからメモ帳へすばやく書いた。
『記憶を喰っている』
『声だけじゃない』
『物の形にしている』
『絶対に触らないで』
ヘジュンはその文字を読んだ瞬間、背筋の奥が冷たくなった。
小屋は声を借りるだけではない。本人しか知らない記憶を引きずり出し、その記憶に形を与えている。母の息、病室の匂、最後の頼み。そして今、葬儀の日に消えたハンカチ。
それが本物なのか、再現なのか、もう意味がなかった。
ソユンにとっては、母そのものだった。
「ソル……」
階段の上から、また母の声が落ちてきた。
ハンカチは一段下へ滑った。濡れた布が木にこすれる音がした。ず、ず、と息をするみたいに。ソユンの身体が、その音に合わせて前へ傾く。
ヘジュンは両腕で抱え直した。だが、妹の身体はさっきよりも重かった。力が抜けているのではない。どこか別のものに引かれている。足だけが、階段の上へ帰る道を知っているようだった。
ドユンが這うように近づいた。
彼は喉を押さえ、声にならない息を漏らしながらメモ帳を奪うように引き寄せた。ペン先が紙を破るほど強く走る。
『答えたら終わり』
大きな字だった。
その下に、もう一度。
『答えたら終わり』
ドユンはそれをソユンの目の前へ突きつけた。自分の声を奪われた者だけが知る恐怖が、その顔に浮かんでいた。目は赤く、涙と薬品臭で濡れている。彼は首を横に振り、何度も紙を叩いた。
ソユンは紙を見た。
見たはずだった。
けれど瞳の焦点は、文字の上を滑り、その向こうの布へ沈んでいった。理性がまだ奥で泣いているのに、表面から人間らしい光が消えていく。ヘジュンはぞっとした。妹が目の前にいるのに、少しずつ遠くへ運ばれている。
「ソユンさん」
ジェヒが声を出しかけ、すぐ唇を噛んで止めた。自分の失敗に気づいたのだ。音はほとんどなかったが、階段上の闇が嬉しそうに吸気を深くした。
ミンソはその隙に、注射器を袖の下へ隠すように持ち替えた。真正面から押さえればソユンが暴れる。暴れた拍子に声が漏れる。だから彼女は背後へ回るしかなかった。
ヘジュンの視線に、ミンソが一瞬だけ目を合わせる。
押さえて。
その命令は声にならないまま届いた。
ヘジュンは頷く代わりに、ソユンの手首を包んだ。細い骨が冷たく、皮膚の下で速い脈が跳ねている。妹は抵抗しない。抵抗しないことが、余計に恐ろしかった。
ハンカチが、また一段降りた。
もう地下室の床まで半分もない。古い白布の端から、黒ずんだ水滴が落ちた。床に触れた瞬間、その水滴が小さな丸い染みになり、すぐに白い葬儀花の匂いを放った。地下室に積まれたリュックも靴も、死者の身分証も、すべて棺の脇に並ぶ供花に見えかける。
ヘジュンは歯を食いしばった。
『見るな』
そう書きたい。だが手を離せない。言葉も出せない。
ソユンの唇がかすかに開いた。
ミンソが背後から一歩近づく。注射針の先がライトを受け、ほんの短く光った。ジェヒはライトを低く構え直し、針の影がソユンの目に入らないよう角度を変える。ドユンはメモを掲げ続けたまま、震える膝で床を押さえていた。
そのとき、母の声が消えた。
階段の上も、金属管の中も、扉の向こうも、すべて一瞬で黙った。あまりに急な沈黙に、ヘジュンは耳鳴りを聞いた。小屋が息を止めている。
次の声は、扉の外からではなかった。
階段の上からでもない。
「一度だけ、答えておくれ」
ソユンの耳元だった。
冷たい息がうなじに触れそうな距離で、母の声が囁いた。おぞましいほど優しかった。病室の白い天井も、葬儀場の花も、幼い夜に額へ当てられたハンカチの温度も、すべてその一言に折り畳まれていた。
ソユンの瞳に、光が戻った。
理性ではなかった。
母を見つけた子供の光だった。
ヘジュンは全身で押さえ込もうとした。だがソユンの足が、ひとりでに動いた。階段へ向かって一歩。床に散らばる身分証を踏まないよう、知らない誰かの記憶に導かれるみたいに正確な一歩だった。
ミンソが針を構えて飛び込もうとした。
その寸前、ハンカチが床へ落ちた。
音はなかった。けれどソユンの身体がびくりと反応した。ヘジュンの腕をすり抜けるように、彼女は階段へ手を伸ばす。ドユンがメモを押しつける。ジェヒが袖をつかむ。ミンソの針が追う。
それでもソユンは止まらなかった。
彼女は一段目に足をかけた。
地下室の空気が、いっせいに吸い込まれた。金属管の奥で何十もの喉が湿った歓喜を漏らす。上の小屋では、縛ったはずの扉が、ゆっくりと内側へ開いていく音がした。
ソユンは階段を上り始めた。
一段、また一段。ハンカチの花刺繍が彼女の足元を這い、まるで道案内をするように先へ滑った。ヘジュンが背後から腕を伸ばす。指先は届きそうで届かない。
そして階段の上、暗がりの中で、ソユンの白い手がゆっくりとドアノブへ伸びていった。
外から自分の声が聞こえても答えるな
31話 後悔を映す霧の窓
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