ソユンの指先がドアノブに触れる寸前、背後から腕を伸ばしていたヘジュンは、最後の力を振り絞って飛び込んだ。
考えるより先に身体が動いた。足元で白いハンカチがふわりと跳ね、薄紫の花刺繍が彼を避けるように滑ったが、もう見ていられなかった。暗がりの向こうで、縛ったはずの扉は指一本分だけ開いている。その隙間から霧は入ってこない。ただ、誰かが頬を寄せて待っている気配だけがあった。
ヘジュンはあと一歩踏み込み、妹の手首をつかんだ。
骨が折れそうなほど細い手首だった。冷たく、濡れている。ソユンはびくりと肩を震わせ、振り返らないまま腕を引いた。いつもの彼女なら、乱暴に触るなと睨んだはずだった。だが今のソユンは、兄を兄として見ていなかった。ただ扉の向こうにいるはずの母へ、遮るものを振りほどこうとしていた。
「……っ」
ソユンの喉が鳴った。声にならない音だったが、それだけで小屋の奥が湿った息を吸った。
ヘジュンは慌てて妹の口元へ手を伸ばす。ソユンはその手を噛むように振り払い、もう一方の手でドアノブを探った。爪が古い真鍮をかすめる。触れた瞬間、扉の隙間がほんのわずかに広がった。
外から、母の声がした。
「ソル……」
その一声で、ソユンの身体から力が抜けかけた。ヘジュンは背後から抱き込むように腕を回し、階段の壁へ押しつける。狭い踊り場で二人の足がもつれ、古い板が悲鳴を上げた。すぐ下ではジェヒがライトを持ち上げ、ドユンが声の出ない喉を押さえたまま、必死に首を横へ振っている。
ミンソも階段を上るソユンのすぐ背後に迫っていた。片手に注射器を構え、暴れる彼女に針を刺す機会を狙っている。だがソユンが暴れれば針は外れる。外れた痛みや驚きが声になる。それを小屋が待っている。
「ソユン、戻れ」
ヘジュンは言ってしまった。
短い声だった。命令というより、崩れ落ちる懇願だった。言った瞬間、彼は自分の失敗に気づいた。外の母が、ゆっくり笑うように息を吐いたからだ。
「お兄ちゃんは、いつもそうね」
母の声は優しかった。怒っていない。責めてもいない。だから余計に、ヘジュンの胸の奥を正確に裂いた。
「自分が苦しくなると、ソユンにだけ我慢させる」
違う、と言いかけた舌を噛んだ。
違わなかった。店のことも、金のことも、母の病室のことも、彼はいつも最後の最後でソユンへ押しつけた。言えば壊れると思って黙り、黙ることでさらに壊した。母の葬儀の日に妹が何を失ったのかも、今この場所に来るまで、本当には見ようとしなかった。
ソユンがその隙を逃さず、全身をひねった。
ヘジュンの手から細い腕が抜けかける。彼は慌てて握り直したが、指が震えた。母の声がその震えを待っていたように、扉の外からもう一度、あの言葉を落とした。
「ソル……お兄ちゃんを、あまり憎まないで」
ソユンの目から涙があふれた。
その涙はヘジュンを見ていなかった。病室の白い天井、乾いた母の唇、幼いころ額に当てられたハンカチ。そのすべてへ向かって落ちていた。彼女の唇が、母、と形を作る。
ヘジュンは掌で口を塞いだ。
ソユンは暴れた。肘がヘジュンの脇腹に入り、彼の息が詰まる。手首をねじり、肩をぶつけ、まだ開いていない扉へ這うように進もうとする。ドアノブは目の前だった。真鍮の丸い表面が、内側から濡れた眼球のように光っている。
「ソル、お願い」
母の声はさらに近くなった。
「一度だけでいいの。母さんに、返事をして」
ソユンの喉が小さく震えた。
ヘジュンの力が抜けそうになった。母の頼みを遮っているのは自分だ、という思いが鋭く突き刺さる。母は生きているあいだ、いつも二人の間を取り持とうとした。最後までそうだった。死ぬ間際でさえ、ソユンの怒りを受け止め、ヘジュンが孤立しないように願った。
その願いを、今の彼は力ずくで踏みにじっている。
『俺が扉を開けさせている』
そう思った瞬間、階段の壁の中から何かが喜んだ。木目の隙間がいくつも口の形に歪み、金属管の奥で濡れた喉が鳴る。ヘジュンの指は、ソユンの手首から剥がれかけた。
そのとき、下から紙が飛んできた。
ドユンが投げたメモだった。階段に当たり、ヘジュンの膝元へ滑る。大きく乱れた文字が、ライトの中で黒く浮いた。
『それは母親じゃない』
その下に、さらに強く。
『おまえの後悔だ』
ヘジュンは息を止めた。
後悔。入口。取っ手。ジェヒが何度も示した言葉が、ようやく頭の中で一本につながった。母の願いを踏みにじっているのではない。母の願いを餌にしたものに、ソユンを差し出そうとしているのだ。
ヘジュンは奥歯を砕くほど噛みしめ、手に力を戻した。
ソユンが短く呻いた。痛ませたかもしれない。だが離さなかった。彼は妹の腕を胸へ引き戻し、ドアノブから遠ざける。扉の隙間が、ぎり、と不満げに鳴った。
「ごめん」
声は出してしまった。けれど、それは扉へ向けた返事ではなかった。耳元の妹へ、息のように落ちた一語だった。ソユンには届いたのか、届かなかったのか分からない。ただ彼女は泣きながら首を振り、まだ母のほうへ戻ろうとした。
ミンソが動いた。
彼女はすかさず踏み込み、ソユンの背後へ身体を滑り込ませた。ジェヒが下からライトを固定する。注射針の影が階段の壁を走った。ソユンは気づいて腕を引こうとしたが、ヘジュンが抱きしめるように押さえた。
ミンソの手は迷わなかった。
袖をまくる余裕はない。彼女はソユンの上腕の布地をずらし、露出した肌へ針を刺した。細い針が白い皮膚に沈む。ソユンの身体が跳ねた。
「……う」
短い呻きだった。
小屋がその音を喰おうとした。壁の中の口が一斉に吸い込む。だが呻きは言葉にならないまま途切れた。ミンソが薬液を押し込み、すぐに針を抜いて指で押さえる。ソユンはもう一度だけ母へ手を伸ばした。指先は空をかき、ドアノブの手前で落ちた。
力が抜けた。
ヘジュンは妹の体重を胸で受けた。さっきまで扉へ向かっていた身体が、糸を切られた人形のように崩れ落ちる。彼は膝から階段へ座り込み、ソユンを抱えたまま背中を壁にぶつけた。
「ソユン」
今度は名前を声にしなかった。唇だけが動いた。彼女のまぶたは重く下がり、涙の跡だけが頬に残っている。唇の端の赤い傷が痛々しかった。
外の母の声が、急に低くなった。
「ヘジュン」
呼ばれた瞬間、彼の背筋が固まった。
母の声は、もうソユンだけを見ていなかった。
「あなたが、そうやって奪うのね」
ヘジュンは答えなかった。首を振ることすらしなかった。ミンソが彼の肩を強く叩き、下へ運べと合図する。ジェヒも階段の下から両腕を伸ばした。ドユンは先に降り、散らばった身分証やリュックを足でよけ、横たえられる場所を作ろうとしている。
ヘジュンはソユンを抱き上げた。
軽かった。こんなに軽かったのかと思うほど、腕の中の妹は小さかった。幼いころ、熱を出したソユンを母が抱えていた背中を思い出す。自分はその横で、何もできずにタオルを握っていただけだった。
今も似ている。
だが、今度は離せなかった。
一段ずつ降りる。背後で扉が、開ききれないまま小さく震えている。白いハンカチは踊り場に落ち、誰かの指に踏まれたようにくしゃりと縮んだ。触れてはいけない。見てもいけない。ヘジュンは妹の顔だけを見て、地下室へ戻った。
地下室の奥、遺品の山から少し離れた床へ、ミンソが遺品の中から見つけた比較的きれいなジャケットを何枚か重ねて広げた。汚れてはいたが、ほかに柔らかいものはない。ジェヒがマスクと測定器を用意し、ソユンの呼吸を確認する。ミンソは注射跡を押さえたまま脈を取った。
彼女は無言でジェヒのメモ帳を引き寄せ、すばやくペンを走らせた。
『浅い。でも、ある』
書き終えた彼女の表情は硬かったが、全員がその文字を見てかすかに肩の力を抜いた。けれど外は反応しなかった。母の声は、もう降ってこない。
全員がその沈黙に気づいた。
さっきまで階段、扉、金属管、壁の節穴から溢れていた声が、ぷつりと切れていた。発電機のような低音もない。無線機のノイズもない。地下室に残ったのは、ソユンの浅い呼吸と、誰かの靴底から落ちる泥の音だけだった。
沈黙は救いではなかった。
石の蓋のように重く、小屋全体へ下りてきた。声が消えたのではない。次の獲物を決めるために、耳を澄ませているだけだと、ヘジュンには分かった。
ジェヒがメモ帳に書いた。
『上へ戻す』
『床の中央から離す』
『全員、窓を見ない』
最後の一行を書いた瞬間だった。
窓が鳴った。
地下室ではなく、上の小屋の窓だった。だが音は床板を伝い、足裏から骨へ入り込んできた。ぴし、と薄い氷に亀裂が走るような音。続けて、もう一枚。さらに奥の一枚。
ヘジュンは顔を上げてしまった。
階段の上の開いた蓋越しに見える小屋の窓ガラスに、濃い霧が染み込んでいるのが見えた。紙で塞がれていたはずの窓が、内側から黒く湿り、そこへぼんやりと別の光景が浮かび始める。
店の奥だった。
ヘジュンアウトドアの修理台。閉めかけのシャッター。金庫の前に膝をつく、自分の背中。
ヘジュンの喉が凍った。
ガラスの中の彼は、震える両手で金庫を開けていた。中から取り出したのは、ソユンの名前が書かれた封筒だった。保証金、と小さく記された白い封筒。誰にも見られていないと信じて、彼がこっそり抜き取った夜の光景だった。
次の瞬間、その封筒を握る自分の両手だけが、霧の中から小屋の窓いっぱいに浮かび上がった。