春川(チュンチョン)郊外の名声合気道場では、子どもたちの声が夕方の床にまだ残っていた。韓道潤(ハン・ドユン)は畳の端に膝をつき、最後の一人の帯を結び直してやった。七歳の少年は転がり方を間違え、額を赤くしていたが、泣くのを我慢していた。
「顎を引け。床を見るな。倒れる時に怖いものを見ようとすると、首から落ちる」
道潤が低く言うと、少年は鼻をすすってうなずいた。もう一度だけ、と自分から畳に手をつく。小さな身体がころんと回り、背中で音を逃がした。
「よし。今日はそこまで」
子どもたちが一斉に礼をし、父母の待つ玄関へ走っていく。道潤はその背中を見送りながら、汗の残った畳を雑巾で拭いた。二十一歳。道場では師範代と呼ばれていたが、彼自身はその呼び名をまだ身体のどこにも収めきれていなかった。
奥の壁際で、館長の呉明植(オ・ミョンシク)が腕を組んで立っていた。白髪まじりの短い髪、落ちたまぶた、曲がった指。道潤が物心つく頃から、その手に何度も投げられてきた。
「雑巾がけが雑だ」
「すみません」
「子どもの前では足を急がせるな。焦った大人の足は、子どもにうつる」
道潤は返事をして、拭き直した。呉は褒めない。怒鳴ることも少ない。ただ一番痛い場所を、一言で押さえる。それがいつもの稽古だった。
玄関の戸が開いたのは、最後の保護者の車が遠ざかった直後だった。ジャージ姿の青年が、靴を脱ぎもせずに土間で立ち止まる。パク・ジェミンだった。近くのボクシングジムに通う選手で、以前から道場に顔を出しては、合気道なんか試合で使えるのかと突っかかってくる。
その日は目尻に青い痣があった。
「韓道潤。少し相手しろよ」
道潤は雑巾を絞る手を止めた。
「道場は終わった」
「だからだろ。子どもに見せるわけじゃない」
パクは笑ったが、その口元は硬かった。昨日、道潤は偶然ジムの前を通り、彼が先輩選手にジャブで何度も顔を弾かれているのを見た。肩がわずかに上がる角度。踏み込みの前に息が詰まる癖。最後に床へ倒された時、隣のマットではレスリング出身の男がタックルの入りを教えていた。道潤は足を止めて数分見ただけだった。
呉が壁際から声を出した。
「やめておけ」
それがパクへの忠告なのか、道潤への命令なのか、すぐにはわからなかった。
パクは土間から畳へ上がり、グローブもつけずに拳を握った。
「お前、昨日見てただろ。人が打たれてるところを、涼しい顔で」
「見ただけだ」
「なら、見ただけで何ができるか見せてみろ」
道潤は呉を見た。呉は何も言わなかった。ただ目だけで、勝手にしろ、と告げていた。止めない時のほうが、呉は怖い。
二人は畳の中央に立った。ルールは決めなかった。パクがそれを望まなかったからだ。道潤は足を肩幅より少し狭く置き、両手を下げたまま呼吸した。パクの右肩に力が入る。殴るつもりではない。左を見せるための準備だった。
一合目。パクの左ジャブが走った。
道潤は半歩だけ外へずれた。拳が頬の皮膚をかすめ、風が耳を打つ。同時に、昨日パクを打ち続けた先輩選手の肩の角度が、道潤の身体に沈み込んだ。肩を上げすぎず、肘を残し、拳だけを置きにいく。道潤の左が短く伸び、パクの額を軽く叩いた。
本気で打ったわけではなかった。だがパクの目が変わった。
「今の……」
二合目。パクは低く入った。ボクシングの距離ではなく、胴を抱えに来る。昨日、隣のマットで見たタックルの形だった。膝が床すれすれを削り、肩が道潤の腰へ刺さる。
道潤の足は逃げなかった。見たばかりの入りのタイミングを、相手より半拍だけ早くなぞる。パクの肩が触れる直前、道潤は自分の腰を斜めに抜き、相手の後頭部ではなく肩甲骨へ手を置いた。押さえつけるのではない。進みたい方向を、ほんの少しだけずらす。
パクの膝が畳を滑り、体勢が前へ崩れた。
三合目。怒ったパクが跳ね起き、右の大振りを振り回した。もう技ではなかった。殴りたいだけの腕だった。
その瞬間、道潤の内側で何かが冷たく澄んだ。拳の軌道、足の重さ、怒りで遅れた肩の戻り。すべてが線になって見えた。道潤は踏み込み、パクの手首を取り、肘の外側へ身体を滑り込ませた。合気道の基本の制圧。けれど入り口は、さっき盗んだジャブの肩とタックルの拍子だった。
パクの身体が畳へ伏せられた。肘は極まり、頬が床に押しつけられる。
「……終わりだ」
道潤が力を抜くと、パクは荒い息を吐いた。すぐには起き上がらなかった。痛みより屈辱のほうが重い顔だった。
「ふざけんなよ」
パクはうつ伏せのまま言った。
「お前、ボクシング習ったことないだろ」
「ない」
「レスリングも」
「ない」
「じゃあ何でだよ」
道潤は答えられなかった。一度見れば、身体が覚える。角度も、間も、力が入る直前の沈みも。子どもの頃からそうだった。呉の投げも、先輩の足運びも、他道場の演武も、目に入ると勝手に自分の中で再生された。
才能だと言われたことはある。気味が悪いと言われたこともある。呉だけは、そのどちらも言わなかった。
「何で俺が一年かけて作ってる動きを、昨日見ただけのお前が使うんだよ!」
パクが拳で畳を叩いた。道潤の胸の奥が、わずかに熱くなった。勝ったという感覚ではない。もっと危ういものだった。相手の努力を奪い、相手の身体で相手を倒した瞬間に走る、甘い電流のような欲望。
これを公式の場で試したらどうなる。
その考えが、初めてはっきり形を持った。
呉がゆっくり歩いてきた。道潤は叱責を覚悟した。だが呉はまず、事務机の上に置かれていた茶封筒を手に取った。夕方、外部大会の関係者が置いていった提案書だった。若手異種格闘交流戦。韓道潤推薦枠あり。そんな文字が表に見えていた。
呉はそれを開きもせず、二つに裂いた。
紙の破れる音が、畳の上に乾いて落ちた。さらに四つに、八つに裂く。パクでさえ黙った。
「館長」
道潤の声は思ったより低かった。
「なぜですか」
「今のでわからないなら、まだ早い」
「相手を壊してはいません」
「壊したのは肘じゃない」
呉は紙片をゴミ箱へ落とし、道潤の手首をつかんだ。強くはない。逃げようと思えば逃げられる力だった。それなのに、道潤の足は動かなかった。
「お前は勝つために戦った。相手が崩れる場所だけを見て、そこへ自分を合わせた」
「試合なら、それが必要です」
「違う」
呉の声が少しだけ低くなった。
「勝つために戦うな。崩れないために戦え。相手が壊れた時に、自分まで壊れる戦い方を覚えるな」
道潤は唇を結んだ。頭ではうなずけた。呉が何を恐れているのかも、少しはわかった。だが畳にパクを伏せた瞬間、身体の奥を走り抜けた熱は、まだ消えていなかった。誰かの動きが自分の中へ入る。自分の動きになり、相手を越える。その快感を、なかったことにはできなかった。
パクが立ち上がり、道潤を睨んだ。
「いつか、リングでやれよ。逃げんな」
彼はそれだけ言って、靴を乱暴に履き、道場を出ていった。戸が閉まったあと、呉はしばらく無言で畳を見ていた。
「道潤」
「はい」
「お前の目は速い。だが速い目ほど、いらないものまで拾う。拾ったものを全部使えば、いつか自分の中心がなくなる」
「中心……」
「今日のことは忘れろ」
忘れられるはずがなかった。道潤はうなずいた。呉に逆らうつもりはなかった。けれど、胸の奥では別の声がずっと鳴っていた。公式の舞台。観客。審判。逃げられない相手。そこで自分の目と身体がどこまで届くのか。
それが、数日前のことだった。
夜が更け、道場の明かりが一つずつ落とされた。子ども用のミットを棚へ戻し、畳の端をそろえ、道潤は一人で事務室の椅子に座った。呉はあのスパーリングの翌日から、モンゴル遠征セミナーに出ている。いつもの古いバッグ一つを持って空港へ向かう前、呉は振り返りもせずに言った。
「留守の間、勝とうとするな」
その言葉が今になって重くなった。
机の上には、裂かれた提案書の破片がまだゴミ箱から少しだけ覗いていた。道潤はそれを見下ろし、手を伸ばしかけてやめた。拾えば、呉に逆らう気がした。拾わなくても、心はもうそこへ向かっていた。
時計が十一時を過ぎた頃、携帯電話が震えた。画面には知らない国際番号が表示されている。道潤は一瞬ためらい、通話を押した。
「……韓道潤さんですか」
荒い息の混じる韓国語だった。背後で空港のアナウンスのような音が割れている。
「そうです。誰ですか」
「私は、呉明植先生の現地通訳です。今、仁川(インチョン)へ戻る便に……先生が……」
声が途切れた。電話の向こうで誰かが怒鳴り、金属の台車がぶつかる音がした。道潤は立ち上がっていた。
「館長が、どうしたんですか」
通訳は息を吸った。次の言葉が続くより先に、道潤の手は事務室の隅に置いた運動靴の紐をつかんでいた。
そして、受話口の向こうから震えた声が落ちた。
「意識がありません。血が止まらないんです」
崩れざる模倣者は闇の格闘巡礼で世界の達人技を喰らい尽くす
2話 空港に現れた十二鉄環
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