道潤は運動靴の紐を最後まで結ばないまま、道場を飛び出した。春川から仁川空港までの道は、夜になるほど長く感じられた。タクシーの窓に映る自分の顔は、怒っているのか怯えているのか判別できなかった。
携帯電話は膝の上で何度も震えた。通訳からの短いメッセージだった。第2ターミナル、医務室、救急搬送待機。単語だけが並び、説明はなかった。道潤は読むたびに画面を閉じた。文字を追えば、呉明植が本当に倒れている事実まで認めてしまいそうだった。
空港に着いた時、出発ロビーはまだ明るかった。深夜便の旅行客、職員、清掃員、警備員。普段ならただ通り過ぎる人の流れが、その夜だけ異様に速く見えた。道潤は案内表示を見上げる余裕もなく、通訳が送ってきた番号の扉へ向かった。
医務室の前には、息を切らした男が立っていた。三十代半ばほどで、胸に通訳証をぶら下げている。頬には乾いた汗の跡が白く残っていた。
「韓道潤さんですね」
「館長は」
道潤の問いに、通訳は一瞬だけ目を伏せた。その反応が答えだった。道潤は肩で扉を押し開けた。
消毒液の匂いが鼻に刺さった。白い仕切りカーテンの向こうで、心電図の細い音が規則正しく鳴っている。担架の上に呉明植が横たわっていた。酸素マスクが顔の半分を覆い、目は閉じられている。白髪まじりの短い髪は汗で額に貼りつき、まぶたは落ちたまま動かなかった。
道潤は足を止めた。
十日前、空港へ向かう朝の呉は、古いバッグを肩にかけ、背中だけで道場全体を支えているように見えた。今そこにいる男は、同じ人間のはずなのに、十日の間に十年は老け込んでいた。頬がこけ、唇は青く、曲がった指だけがかすかに布団の外へ出ている。
「館長」
声は出たが、届いた感じがしなかった。畳の上で何度も道潤を投げた手が、今は点滴の管をつけられて動かない。怒鳴られるほうがよかった。雑だ、と一言で切られるほうが、ずっとよかった。
「血は止まりました。ただ……」
医師がカルテを持って近づいてきた。韓国語は早口で、疲れが混じっていた。
「外傷だけなら説明はつきます。左肩、背部、右脇腹に打撲と裂傷。ですが問題はそこではありません。四肢の反応が均等ではない。神経系の麻痺パターンが通常の外傷と合わないんです」
「毒ですか」
道潤は自分でも驚くほど低い声で言った。医師は即答しなかった。
「まだ断定できません。血液検査、神経伝導検査、頭部と頸部の追加画像をすぐに回します。家族の方ですか」
「弟子です」
「では正式な同意は病院側で進めます。付き添いは一名だけ。今は触れないでください」
触れるなと言われて、道潤は初めて自分が担架へ手を伸ばしていたことに気づいた。拳を握り、下ろす。呉の顔を見ていると、胸の奥に熱いものが溜まっていった。パクを伏せた時の甘い熱とは違う。もっと重く、喉を塞ぐような怒りだった。
通訳が背後から小さく言った。
「先生は、セミナーの直後に一人で消えました」
道潤は振り返った。
「消えた?」
「ウランバートル郊外の体育施設でした。最後の実技指導が終わって、主催者と食事に行く予定でした。でも先生は、少し用があると言って……私にも場所を言いませんでした」
通訳の声はそこで震えた。彼は両手を揉むように握っていた。
「探しました。警察にも連絡しました。でも二日間、何もなくて。二日後の明け方、施設の裏の搬入口に戻ってきたんです。自分の足で、ではありません。壁にもたれた状態で。シャツが血で……先生は何か言おうとしていました。でも言葉にならなかった」
「誰がやったんですか」
「わかりません。先生の携帯は壊れていました。財布は残っていました。盗難ではないと思います」
「バッグは」
通訳ははっとしたように医務室の隅を見た。椅子の下に、見慣れた古びたバッグが置かれていた。呉がいつも遠征に持っていく、角の擦り切れた黒いバッグだった。道場の事務机の横で何度も見たものだ。だが今は、側面に乾いた泥がこびりつき、持ち手には薄く血の跡が残っていた。
「これだけは、先生が離しませんでした。搬送中も握っていて……さっき、ようやく」
通訳はバッグを両手で持ち上げ、道潤へ差し出した。見た目より重かった。肩にかけた瞬間、革の内側で硬い何かがごつりと当たる。道潤は反射的に中を開けようとして、呉の顔を見た。
留守の間、勝とうとするな。
声が記憶の底から上がってきた。道潤はファスナーに触れた指を止めた。今開ければ、何かを越えてしまう気がした。だが持たずにいる選択肢もなかった。
「これは俺が預かります」
「お願いします。先生が戻ってきた時、このバッグだけは……」
通訳の言葉が不自然に途切れた。
医務室の扉が開いていた。空港職員の制服を着た男女が何人か通り過ぎる。その中に一人、黒いスーツの男が混じっていた。背は高くない。髪は短く、顔立ちはどこにでもいる会社員のようだった。ただ、足音がなかった。
男はまっすぐ道潤の前に立った。
「関係者以外の荷物は、保安確認が必要です」
韓国語は滑らかだったが、抑揚が平板すぎた。道潤はバッグを肩から下ろさなかった。
「医務室の職員ですか」
男は答えず、手を伸ばした。動きは速くない。だからこそ不気味だった。相手が拒まないことを前提にした手だった。
道潤の身体が先に反応した。バッグを抱え込むように左腕を引き、右手で男の手首を取る。細い手首だった。だが触れた瞬間、骨の感触が普通の素人ではないとわかった。力を抜いている。抜いているから、どの方向へも逃げられる。
男の袖がずり落ちた。
手首の内側に、円形の紋章があった。刺青ではない。金属の薄い印章を皮膚に焼きつけたような、鈍い灰色の跡。十二個の鉄環が、精巧に噛み合い、一つの輪を作っていた。
道潤の背筋が冷えた。見たことのない模様なのに、呉のバッグの硬さと同じ匂いがした。
男の指がバッグの持ち手へ絡みかけた。道潤は手首を外へ捻り、肘を浮かせた。合気道の基本なら、ここで相手は膝をつく。だが男は肩を落とし、関節が極まる直前に自分から一歩沈んだ。痛みを避けるのではなく、痛みを通過するような動きだった。
それでも道潤は離さなかった。半歩入り、男の肘の外へ身体を置く。パクを伏せた時と同じ制圧の形。違うのは、相手が怒っていないことだった。男の呼吸は乱れず、目も揺れない。
「下がれ」
道潤は低く言った。
男の口元がわずかに動いた。笑ったのかもしれない。次の瞬間、彼は抵抗をやめた。力を抜かれると、制圧は深く入りすぎる。道潤は反射で圧を緩めた。そのわずかな隙に、男は水が引くように手首を抜いた。
通訳が悲鳴に近い声を上げ、医師が警備を呼ぼうとした。だが黒いスーツの男は走らなかった。二歩だけ下がり、乱れた袖を静かに直した。紋章は布の下へ消えた。
そして、道潤に向かってゆっくりとうなずいた。
脅しなのか。奪えなかった相手を覚えたという印なのか。それとも、何かの資格を確認したという合図なのか。道潤にはわからなかった。ただ、そのうなずきひとつで、今夜の出来事が病院と警察だけで終わらないことだけは理解できた。
男は空港職員の列に紛れ、次の瞬間には人の流れの中へ消えていた。道潤は追わなかった。追えばバッグから手を離すことになる。腕の中の古びた革が、呉の体温の代わりに重く沈んでいた。
その時、ファスナーの隙間から、硬い紙の角がわずかに覗いた。そこにも同じ紋章が押されていた。十二個の鉄環が噛み合う黒い円。
道潤は呉明植の眠る担架を見た。酸素マスクの下で、館長の唇がほんの少し動いた気がした。
聞こえない声が、道潤の胸の奥に落ちた。
開けるな、と言っているのか。
それとも、今度こそ見ろと言っているのか。
崩れざる模倣者は闇の格闘巡礼で世界の達人技を喰らい尽くす
3話 鉄環十二路への招待状
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