道潤が選んだのは、扉ではなく女の背中だった。
黒手袋の男が管理棟の外へ顔を出すより半拍早く、女はコンテナの影を縫って走った。速くはない。だが角を曲がるたびに、監視カメラの死角だけを踏んでいる。道潤は顎の痛みを噛み殺し、左手首の熱を抱えたまま後を追った。
三つ目のコンテナ列を抜けたところで、女は低い搬入口の前にしゃがみ、錆びた金網を持ち上げた。
「潜れるか」
「答えが先だ」
「ここで答えている間に捕まる。動け」
道潤は一瞬だけ管理棟を振り返った。青白い画面光の中に呉明植の名があった。あの続きを見ずに離れることが、喉の奥に引っかかった。だが革環はまだ熱い。警告を無視して戻れば、李偉戦と同じように怒りを表へ差し出すだけだ。
道潤は金網の下をくぐった。
裏通路は港湾倉庫の排水路につながっていた。潮と機械油の臭いが濃く、天井の低いコンクリートに水滴が垂れている。女は迷わず進み、非常階段を二つ上がった先の古い詰所へ入った。窓には黒い布が貼られ、小さな携帯端末と救急バッグだけが机に置かれていた。
「座って。鼻と顎を見る」
「医者か」
「理学療法士。国際スポーツリハビリチーム所属。名前は徐恩彩(ソ・ウンチェ)」
ようやく名乗った女は、手袋を外して消毒綿を取った。左手首の白い傷跡が、薄明かりの下ではっきり見える。革か金属を長く巻かれていたような、輪の形に近い痕だった。
道潤は椅子に座らなかった。
「館長を知っているのか」
「昔、少しだけ教わった。弟子と名乗るほど長くはいなかったけど、館長と呼ぶくらいの時間はあった」
「黒手袋会の人間か」
恩彩は消毒綿を持ったまま目を上げた。怒りもしない。想定していた質問だという顔だった。
「そう見えるなら、今すぐ私を倒して戻ればいい。管理棟の端末の前で、君の怒りと負傷をまた記録されるだけだけど」
道潤は拳を握った。反論できる材料はなかった。彼女が制止しなければ、自分は扉を開けていた。呉明植の映像を餌にされたと分かっていても、開けたはずだった。
恩彩は机の端末を起動し、暗号化された音声ファイルを開いた。ファイル名は短かった。
『D-2、弟子へ』
道潤の喉が固まった。
「巡礼へ出る前、館長が私に送った。開封条件は、第一路を生きて抜けた者が革環を開けようとした時」
「どうやって知る」
「革環が知らせる。詳しい仕組みは私も知らない」
恩彩は再生ボタンに指を置いた。
「信じろとは言わない。聞くだけ聞いて」
低い雑音のあと、かすれた男の声が流れた。
「……道潤」
その一音だけで、道潤の背筋が伸びた。病室の酸素マスク越しではない。道場で何度も床に転がされた時の、短く沈んだ声だった。ただし息は荒く、録音の向こうで痛みを押し殺しているのが分かった。
「これを聞いているなら、第一路は越えたんだろう。いいか。革環を先に開くな。中身は答えじゃない。扉の前に立つまでは、鍵を壊すな」
道潤の視線が手首へ落ちた。熱は消えかけていたが、内側の硬い部分はまだ骨に触れている。
音声の中の呉は、短く咳き込んだ。
「黒い手袋の連中は、勝敗だけを見ていない。お前が何に怒り、どこで崩れ、何を真似るかを見る。怒って勝とうとするな。お前が先に壊れる」
道潤は唇を噛んだ。李偉の膝が顎を打ち上げた瞬間と、喉へ伸びた自分の手が重なった。
「第二の関門は、トルコ。エディルネ。相手は……」
そこで音声が大きく乱れた。金属を擦るようなノイズが混じり、呉の言葉は途切れ途切れになった。
「低い……構えを、見るな。目で追えば……遅れる。革環は、まだ――」
ぷつり、と音が切れた。
詰所の中に、排水路の水音だけが戻った。
道潤はしばらく動けなかった。呉明植は生きている。病室で息をしている。だがこの音声の呉は、倒れる前にすでに自分が追われると知っていた。弟子が同じ道へ来る可能性まで読んでいた。
「続きは」
「ない。壊れているのか、誰かが切ったのかも分からない」
「本当の記録はどこにある」
「今の私が言えるのは、あの管理棟ではないということだけ。第二路以降の運営サーバーに断片が移されている。エディルネへ行けば、少なくとも次の接続先が分かる」
「利用するつもりか」
恩彩は持っていた消毒綿を道潤へ投げた。道潤は反射で受け取る。
「利用はする。君も私を利用すればいい。私は館長の記録を探したい。君は館長が何に倒されたか知りたい。目的が重なる間だけ、一緒に動く」
その言い方は冷たかった。だが曖昧な慰めよりは信じやすかった。
道潤はようやく椅子に腰を下ろした。恩彩は手早く鼻梁と顎を確認し、簡単な固定だけを施した。痛み止めは出したが、眠くなる薬は渡さなかった。
「次の相手は油を使う可能性が高い。エディルネならヤールギュレシ、オイルレスリングだと思う」
「映像は」
「送られてくるまでない。見て盗む準備ばかりすると、また足元を抜かれる」
道潤は答えなかった。
数時間後、二人は別々の便名で香港を離れた。恩彩は空港で他人のように歩き、座席も離した。道潤は窓際で眠ろうとしたが、目を閉じるたびに呉の声が戻った。
低い構えを、見るな。
見るなと言われても、道潤の武器は目だった。相手の肩、膝、爪先、呼吸、重さが移る直前の沈み。それを一度で拾い、身体へ移す。春川の道場でパクを倒した時から、それだけは揺らがないと思っていた。
エディルネの草原競技場へ着いたのは、曇った午後だった。
会場はスタジアムというより、低い観客席に囲まれた広い芝の広場だった。土と草の匂いに、獣脂に似た油の臭いが混じっている。旗が風に鳴り、黒手袋の進行係たちは観客席の後ろに散って、携帯端末を抱えていた。
恩彩は医療席の名札を借りるようにして隅へ入った。道潤は選手用の天幕で体重を量られ、肋骨と顎を軽く触られた。検査というより、損傷の現状確認だった。係の視線は、鼻の腫れよりも左手首の革環に長く留まった。
「第二路、対戦者。エミル」
進行係の声に、道潤は芝の中央を見た。
エミルはすでにそこにいた。大きな男ではない。だが裸の上半身と革の半ズボンに塗られた油が、曇り空の下でも鈍く光っている。肩から背、腕、首の後ろまで、むらなく油が伸びていた。指先でつかめそうな場所が一つもない。
それよりも、構えだった。
エミルは一歩も動いていなかった。膝を深く曲げ、腰を低く沈め、両腕を前へ垂らしている。攻撃の合図になる肩の揺れも、踏み替えも、呼吸の大きな上下もない。低いまま、そこに置かれた石のように静かだった。
道潤は目を細めた。
いつ動く。どこから来る。右足か、左肩か、腰の回転か。
何も見えなかった。正確には、見えているのに盗むものがなかった。李偉は軌道を折った。だが動きそのものはあった。パクにも、呉にも、映像の中の誰にでも、始まりの線はあった。
エミルには、それがない。
道潤の内側で、模倣の前提が音もなく揺れた。目で盗むには、盗む動きが必要だった。相手が動かなければ、自分は何を真似る。低く沈んだ姿勢だけを写せばいいのか。だが油をまとったあの身体に触れた瞬間、手は滑る。形だけを盗んでも接触が成立しなければ、技にはならない。
恩彩の声が医療席から飛んだ。
「肩じゃない。足裏を見ろ」
道潤は視線を落とした。エミルの足裏は芝に沈んでいた。だが沈み方に変化がない。重心は低い場所に固定され、風が吹いても揺れない。道潤の右足だけが、先に踏み出す場所を探して迷った。
進行係が鐘の横へ立った。
観客席のざわめきが細く引いていく。黒手袋の端末が一斉にこちらを向く気配がした。鼻の奥が痛み、顎の下の痕が熱を持つ。革環は沈黙していた。今度は警告さえない。
道潤は両手を上げた。合気道の入り、李偉の中心線、受け身の落下反動。使えるものを頭の中で並べても、相手が最初の一歩を見せなければ順番が決まらない。
身体ではなく、心が先に固まっていた。
鐘を打つ鉄片が持ち上がった。道潤は右足へ「出ろ」と命じた。足は半寸だけ芝を擦り、そこで止まった。エミルの肩も膝も変わらない。ただ、低い影だけが道潤の影へ少しずつ重なって見えた。
見えないものが、もう近づいている。
その事実に気づいた瞬間、鐘が鳴った。
崩れざる模倣者は闇の格闘巡礼で世界の達人技を喰らい尽くす
12話 油に滑る低き身体の罠
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