鐘の音が芝の広場に落ちた瞬間、道潤は先に前へ出た。
待てば飲まれる。エミルの低い構えには、始まりが見えない。ならば、始まりをこちらから作るしかない。李偉の中心線へ踏み込んだ時の圧を思い出し、道潤は右肩を小さく沈めて間合いを詰めた。
エミルは動かないように見えた。だが、半歩の中で腰だけがさらに落ちた。膝が開き、足裏が濡れた芝を押す。道潤の目はその変化を捕まえた。遅れてはいない。見えている。
道潤は左手を伸ばし、垂れたエミルの右手首へ触れた。親指の付け根を押さえ、肘の逃げ口を塞ぐ。李偉を伏せた時の角度だった。壊さず逃がさない。相手の抵抗が来る前に、腰を置き直す。
だが、掌が空を掴んだ。
「っ」
手首はそこにあった。皮膚も骨も感じた。なのに、押さえたはずの力が一瞬で滑った。油が指の腹を滑り、エミルの腕は水の中の魚のように道潤の手の外へ抜けた。
観客席の一部が低く笑った。
道潤は追わなかった。追えば前へ崩れる。そう判断したつもりだった。だが次の瞬間、エミルの額が胸元の高さまで潜っていた。低い。想像していたよりずっと低い。肩ではなく、腰の下へ来る。
道潤は右肘を落とし、首筋へ当てて止めようとした。肘も滑った。油の膜は打撃の面さえずらし、骨へ力が通る前に外へ逃がす。エミルの頭は止まらず、道潤の脇腹へゆっくり入ってきた。
速くない。だから余計に嫌だった。
李偉の拳は見えなかった。エミルの侵入は見えている。見えているのに、止める場所がない。掴めない。押せない。押した先で、自分の手だけがずれる。
『低い構えを、見るな』
録音の中の呉明植の声が戻った。見るなと言われた理由が、今さら骨に染みた。目で追えば、道潤は必ずそこへ手を出す。手を出せば、油に滑らされる。見えた動きへ身体が引っ張られるほど、接触は成立しない。
道潤は奥歯を噛み、首を取りに行くふりをして右膝を前へ置いた。距離を作る。打撃で一度離れれば、組みつきの形を崩せる。パクのジャブを小さく混ぜ、肩先でエミルの顔の前を打つ。
拳は当たった。いや、当たった感触だけがあった。
油をまとった頬が斜めに逃げ、拳の芯はずれた。濡れた芝に置いた道潤の右足が、反動を受けきれず半寸滑る。踏ん張り直す前に、エミルの左腕が道潤の膝裏へ差し込まれた。
「足を止めないで!」
医療席から恩彩の声が飛んだ。
道潤は分かっていた。止まれば腰を巻かれる。だが動こうとした足が、芝の水を踏んで空回りした。前夜の雨で柔らかくなった草が、靴底の下で薄く剥がれる。香港の倉庫の乾いた床とは違う。力を入れた場所が、そのまま地面に残らない。
エミルの右手が腰へ回った。
道潤は反射的にその手首を取った。合気道の基本。親指側から畳み、肩の線を折る。何千回もやった。相手が汗をかいていても、血がついていても、骨の向きさえ取れれば逃げられない。
だが油は、骨の向きを手前に残さなかった。
手首を捻ったはずなのに、皮膚だけが回る。エミルの肘は折れない。肩もついてこない。道潤の指は、油で光る腕を強く握るほど外へ逃げ、握力だけが削られていく。
観客席の後ろで、黒手袋の進行係たちが一斉にタブレットへ視線を落とした。
「接触保持、〇・七秒」
誰かが英語でつぶやいた。
「握力低下。再試行」
道潤の耳に、その数字だけが刺さった。試合の実況ではない。失敗の記録だ。李偉戦の時と同じだ。怒り、視野、受け身。今度は掴めない時間と、握力が落ちる間隔。
恩彩は医療席で唇を固く結んでいた。名札を借りた白い椅子に座っているが、患者を見る目ではない。画面を覗く進行係の指先を見ていた。道潤が滑るたび、彼らの指は同じ場所を押す。単なる勝敗なら、こんな細かい入力はしない。
道潤はその視線を横目で拾い、胸の奥を冷やした。
怒るな。記録される。
そう思った瞬間、エミルの額が道潤の肋骨下へ深く入った。痛みは鋭くない。押し潰すような重さだった。エミルはぶつかってこない。少しずつ、少しずつ、道潤の腰の下へ自分の腰を滑り込ませる。
道潤は左腕を差し込み、エミルの首を抱えようとした。油で滑る。ならば布を掴む。革の半ズボンの端へ指をかける。だがそこも油が染みていた。指が引っかかった瞬間、エミルは膝を内へ寄せ、道潤の手を自分の腰骨の外へ流した。
低い重心が、すべての組みつきを腰より下へ飲み込んでいく。
道潤は初めて後ろへ下がった。一歩だけのつもりだった。だが右足が芝を切り、踵が沈む。体重が後ろへ逃げた瞬間、エミルの両腕が道潤の腰の後ろでつながった。
「道潤、腰を切って!」
恩彩が叫んだ。
道潤は腰をひねった。李偉の肘を制した時のように、相手の力の出口を横へずらす。だがエミルの腕は固定ではなく、巻きつく輪だった。ひねった分だけ油を塗った胸が滑り込み、道潤の骨盤の下へさらに深く入る。
模倣が空転する。
道潤の中で、これまで見てきた動きが次々に浮かんでは消えた。パクの踏み込み。李偉の中心線。呉の受け身。どれも形はある。角度もある。だが今必要なのは、相手の動きを写すことではなかった。触れられない相手に、どう触れるかだった。
それを、道潤はまだ知らない。
エミルの背中がわずかに盛り上がった。油に光る肩甲骨の下で、筋肉がゆっくり動く。ようやく見えた始まりだった。投げる。そう分かった。分かったのに遅かった。
道潤は両足を広げ、膝を落とした。受け身ではなく、倒されないための支え。春川の畳なら間に合ったかもしれない。だが草は重さを返さず、湿った地面が踵を飲んだ。
エミルが息を吐いた。
低い唸りのような呼気とともに、道潤の腰が浮いた。
時間が伸びた。観客の声が遠くなる。タブレットを叩く音だけが妙に近い。道潤の指はエミルの背中を掴もうとしたが、また滑った。爪の先に油だけが残り、皮膚はするりと抜ける。
両足が地面を離れた。
その瞬間、道潤は自分が完全に空中へ運ばれていることを理解した。膝も、腰も、足裏も、何も地面に触れていない。見て盗んだ動きは、空では支えにならない。
空と大地が反転した。
曇った空が下へ落ち、芝の緑が頭上へ回った。エミルの腕はまだ腰を巻いている。道潤の首は自然に伸びかけた。顎を引け。床を見るな。倒れる時に怖いものを見ようとすると、首から落ちる。七歳の子どもへ自分が言った言葉が、刃のように戻ってきた。
そして視界の端で、黒手袋の進行係のタブレットに新しい行が開いた。
『接触不能時、頸部落下反応――記録開始』
次の瞬間、道潤の後頭部が、濡れた芝へ向かって落ち始めた。
崩れざる模倣者は闇の格闘巡礼で世界の達人技を喰らい尽くす
13話 崩れない引き分け
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