返事をしない右足へ、ンディアイの影が落ちた。
道潤は砂を握った。指の間から乾いた粒が逃げる。右膝の内側には、熱ではなく空洞があった。そこへ次の足が来る。分かっているのに、身体が立ち上がる順序を忘れていた。
『倒れる方向を読め』
呉明植の声が、波音の底から浮いた。
道潤は歯を食いしばり、左足を砂へねじ込んだ。右膝で踏むのではない。膝を守るために、腰を先に戻す。香港で李偉の手首に触れた時の、骨の細い逃げ道。エディルネでエミルに潰されながら覚えた、腰だけは最後まで寝かせない粘り。春川の畳で叩き込まれた、落ちる前に肩を丸める順序。
それらが一瞬だけ同じ場所へ集まった。
ンディアイの足が膝へ来る直前、道潤は上半身を落とした。逃げるのではなく、相手の圧が乗る前に自分の肩を沈める。左手で砂を叩き、右手を低く滑らせる。ンディアイの手首が視界の端に入った。
李偉の接触。
道潤の指が絡んだ。親指の付け根を押さえるだけでは足りない。相手は手首を囮にする。分かっている。だから掴んだ瞬間に追わず、肘を自分の胸へ引きつけ、腰を砂の中へ落とした。
ンディアイの低い身体が、ほんの少し前へ流れた。
観客がどよめく。恩彩の息を呑む音まで、妙にはっきり聞こえた。道潤は右膝を使わず、左膝と腰だけで回ろうとした。痛みが内側から白く弾ける。それでも立ち上がった。右足は完全には返事をしない。だが崩れる方向を先に読めば、壊れた部分を中心にしなくて済む。
「動いた……!」
誰かが叫んだ。
ンディアイの顔が初めて道潤の膝以外を見た。そこには驚きも怒りもなかった。ただ、計測し直すような冷たい静けさだけがあった。
彼は止まらなかった。
右膝をひねった後も、ランブの圧は同じ順序で来た。ふくらはぎを押し、太腿を叩き、足首の砂を崩す。道潤が左へ重さを逃がせば、逃げた先の砂を削る。手首を取れば肩で潰し、腰を落とせば膝の内側へ脛を差し込む。
一度つながった感覚は、すぐにほどけかけた。
『混ぜるな。戻れ』
道潤は自分の中へ短く命じた。李偉の手、エミルの腰、ンディアイの脚崩し。全部を奪って勝とうとすれば、また自分の身体が遅れる。必要なのは勝ち筋ではない。今、砂の上で崩れ切らない順序だった。
ンディアイが低く潜った。肩が道潤の腹へ入り、右足の外側から砂を巻き上げる。道潤は手首を探さず、相手の上腕へ左前腕を絡めた。油はない。滑らない。筋肉の硬さが骨へ伝わる。
ここしかない。
道潤は右膝を引きずるように半歩置き、左腰を回した。合気道の入り身を、砂の中で小さく使う。ンディアイの腕が交差し、肩が道潤の胸へ近づく。背中を取るのではなく、前へ崩す。相手の低い腰が、初めて縄の内側で浮いた。
観客の声が爆発した。
道潤は腕を絡めたまま、ンディアイを砂へ落とそうとした。倒せる。そう思った瞬間、ンディアイの膝から力が抜けた。
違う。抜いたのだ。
ンディアイは抵抗を捨て、道潤に絡まれた腕ごと自分から倒れ込んだ。重さが丸ごと道潤へ乗る。道潤は受け身に入ろうとしたが、右膝は砂に食われていた。逃がす前に、ンディアイの腰がその上へ重なった。
傷んだ膝が、砂へ押しつけられた。
声は出なかった。喉の奥で息だけが潰れた。右膝の内側から、先ほどの空洞がさらに深く裂ける。砂は柔らかいはずなのに、そこだけ鉄板のように硬かった。道潤の視界が白く跳ね、波の音が遠ざかった。
恩彩が縄を越えた。
今度は進行係も止めきれなかった。彼女は黒手袋の腕を振り払い、道潤の肩へ手を置く。
「動かないで。膝を伸ばさない」
道潤は返事をしようとした。舌が乾いて、音にならない。ンディアイはすでに離れ、砂を払って立っていた。彼は勝者の顔をしていなかった。膝だけを見ていた視線を、最後まで変えないまま、判定員へ背を向けた。
太鼓が止まった。
判定員はすぐに勝者を告げなかった。黒手袋の進行係がタブレットを操作し、赤い線と黄色い数値が画面に並ぶ。遠くの観客は結果を求めて騒いだが、縄の内側だけは異様に静かだった。
「第三路、終了」
判定員の声が、砂に落ちた。
「ンディアイ、技術評価達成。韓道潤、進出保留」
保留。
勝ちでも負けでもない言葉が、膝の痛みより遅れて胸に刺さった。道潤は恩彩の手を借りて上体だけを起こした。右膝を抱えると、身体の芯まで冷えた。歩けるかどうかではない。次の地まで行けるかどうか。その先に呉明植の記録があるのかどうか。
進行係が近づき、砂の上に細い影を落とした。
「一か月以内に競技復帰が確認できなければ、巡礼資格は剥奪されます。代役権も失効。呉明植に紐づく閲覧権限も停止されます」
恩彩が顔を上げた。
「今それを言う必要がある?」
「規定です」
道潤は笑いそうになった。笑えば膝に響くと分かっていたから、唇だけを歪めた。一か月。軟骨の音を聞いた膝で、また立てという。立てなければ、呉明植の痕跡はここで切れる。
砂の上で膝を抱えたまま、道潤は初めて恐怖をはっきり感じた。
李偉の言葉も、エミルの警告も、ンディアイの視線も、すべて一つの線につながっていた。彼らは道潤を倒すためだけに立っていたのではない。どの順序で壊せば、どれだけ復帰できるかまで見ている。
『館長の記録に、届かないかもしれない』
その思考は怒りより冷たかった。道潤は左手首の革環へ触れた。内側の硬い部分は、砂と汗で汚れている。開けるなという声がある。だが今は、その声にすがりたかった。
革は沈黙していた。
医療テントへ運ばれる時、道潤はンディアイの背中を一度だけ見た。彼は観客に応えず、進行係から何かを受け取っていた。薄い封筒のようにも、記録カードのようにも見えた。だが波風が白い砂を巻き上げ、すぐに見えなくなった。
テントの中で、恩彩は道潤の膝を支えながら角度を測った。触診の指は静かだったが、額には汗が浮いている。
「痛みを十で言って」
「七」
「嘘。九」
「……八」
「それでも足りない」
彼女は短く言い、膝をそれ以上曲げなかった。小型ライトで内側を照らし、腫れの出方を見て、携帯端末に何も入力せず紙へ手書きした。黒手袋の端末へ流さないためだと、道潤にも分かった。
その時、テントの幕が開いた。
白衣の上から黒い手袋をはめた医療スタッフが二人、無言で入ってきた。胸には主催側の医療章がある。先頭の男は恩彩の紙を見ず、道潤の膝へ直接視線を落とした。
「膝関節の角度、靭帯反応、競技復帰予測値を提出してください」
恩彩は道潤の前に立った。
「私が診てる。外へ出て」
「巡礼資格維持のための標準手続きです」
「標準手続きなら、患者の同意書を出して。今この場で数値は渡さない」
男は表情を変えなかった。後ろのスタッフがタブレットを持ち上げる。画面の端に、道潤の名と右膝内側の赤い模式図が見えた。まだ恩彩が何も入力していないのに、損傷角度の欄には仮数値が入っていた。
道潤の喉が乾いた。
恩彩もそれを見た。彼女は一歩も下がらず、テントの狭い入口を肩で塞いだ。
「その数字、どこから出したの」
男は答えなかった。ただ、タブレットの画面を伏せ、事務的な声で言った。
「提出期限は本日中です。拒否は、復帰不能判断として扱われる可能性があります」
「可能性で脅すなら、正式文書を持って来て」
黒い手袋の指が、幕の端を一度だけ叩いた。男たちは出ていった。だが去り際、後ろのスタッフが落とした薄い用紙が、砂まじりの床へ滑った。
恩彩が拾い上げた瞬間、顔色が変わった。
そこには、試合前の日付で作成された書式があった。項目名はすでに印刷されている。『韓道潤、右膝内側損傷後の復帰予測収集』。担当欄には、恩彩の名前まで入っていた。
二人はまだ知らなかった。
このテントで拒むことさえ、最初から予測された反応として、別の表に入力されていたことを。
崩れざる模倣者は闇の格闘巡礼で世界の達人技を喰らい尽くす
16話 恩彩、中心を作り直す
次の話