恩彩が薄い用紙を握り潰しかけた時、テントの幕の向こうで足音が戻ってきた。
黒い手袋の医療スタッフが、今度は三人になっていた。先頭の男は正式文書らしき板を持っていたが、封も署名もなかった。患者を診る目ではない。未提出の欄を埋めに来た職員の目だった。
恩彩は道潤の膝を布で固定し、用紙を自分の胸ポケットへ押し込んだ。
「外へ出て」
「標準手続きです。提出拒否は復帰不能判断に――」
「同じ文を二度読まないで。患者の搬送を妨げた記録を残されたいなら、そこに立っていて」
男の眉がわずかに動いた。恩彩は畳みかけず、道潤の肩を支えて立たせた。右足に体重が乗った瞬間、道潤の膝奥で鈍い火が走る。喉まで息が上がったが、声にはしなかった。
「歩かせる気ですか」
「歩かせない。運ぶ。あなたたちの車じゃなく、私が手配した車で」
恩彩はテントの外へ出ると、現地スタッフに短く英語で指示を飛ばした。主催側の医療章をつけた男たちは進路を塞ごうとしたが、彼女は止まらなかった。左手首の古い白い傷跡が、袖口から一瞬だけ見えた。
「この膝をあなたたちの測定台へ乗せる前に、患者保護規定を全部読み直してきて」
その声は低かった。怒鳴ってはいないのに、周囲のスタッフが一斉に動いた。担架が運ばれ、道潤は砂と汗にまみれたまま乗せられた。黒い手袋の男が最後にタブレットを持ち上げたが、恩彩がその前へ立った。
「撮影も禁止」
「競技記録です」
「医療行為中は違う」
男は答えず、タブレットを下げた。だが道潤には、その黒い指が画面の端を一度叩いたのが見えた。
ダカール郊外のリハビリ施設に着いたのは、夜が完全に落ちてからだった。海の音は遠くなり、代わりに発電機の低い唸りと、消毒液の匂いが廊下に溜まっていた。施設は白い壁と古いガラス窓だけの簡素な建物で、観客の声も太鼓もなかった。
恩彩は処置室の鍵を内側から掛け、道潤を治療台へ座らせた。膝の腫れを冷やしながら、彼女は携帯端末と小型プロジェクターを接続した。壁に、さっきの砂上の映像が映る。
「見たいものじゃないだろうけど、見て」
道潤は唇を結んだ。映像の中の自分は、思っていたより遅かった。ンディアイの足が動く前に、右足がすでに砂へ捕まっている。肩は反応しているのに、骨盤がついていない。手は掴みに行くのに、足裏が空いていた。
恩彩は再生速度を落とした。画面の道潤が、ンディアイの手首を掴む。そこだけなら速い。指の角度も悪くない。李偉から盗んだ接触の記憶が、確かに生きている。
「ここ」
彼女は画面を止め、道潤の腰の位置を指した。
「目と神経は先に行ってる。手も相手の骨へ届いてる。でも骨盤がない。足裏もない。あなたは毎回、見た相手の身体を借りて動こうとしてる」
道潤は眉を寄せた。
「借りてるわけじゃない。見えたものを――」
「盗んでる。それは認める。あなたの神経は異常に速い。けれど積み上がっているのは神経だけ。骨盤と足裏は、毎回別人の形を真似るせいで空っぽになってる」
言葉は刃物のようにまっすぐ入ってきた。道潤は反発しようとした。李偉には勝った。エミルにも落とされ切らなかった。ンディアイにも、一瞬は崩しかけた。そう言えばいいはずだった。
だが治療台から降りようとしただけで、右膝が震えた。
「立って」
恩彩が言った。
道潤は左足に重さを乗せ、右足を床へ添えた。壁に手を伸ばそうとした瞬間、恩彩が首を振る。
「手は使わない。片足で十秒」
「今それをやる意味があるのか」
「反論できる身体かどうか、確かめる意味がある」
道潤は息を吐いた。左足一本なら立てる。そう思った。だが右膝をかばった瞬間、骨盤が右へ逃げ、左足裏の圧が外側へ流れた。視界が傾く。わずか二秒で肩が揺れ、三秒目に身体が落ちた。
恩彩が支えるより早く、道潤は治療台の脇へ倒れ込んだ。
膝の痛みより、床へ手をついた自分の姿のほうが重かった。言葉が出なかった。勝敗の話ではない。身体が、反論する材料を持っていなかった。
恩彩は屈み、彼の背中に手を当てた。
「呉明植にも、同じことを言われた」
道潤の指が床を掴んだ。
「館長が?」
「私がまだ選手を見る側じゃなく、壊れた足を隠して練習に戻ろうとしていた頃。目で追うな、足の裏から戻れ。先に自分の中心を立てろ。そうしなければ、相手どころか階段でも崩れるって」
彼女の声は淡々としていた。だが左手首の白い跡へ、無意識に右手が触れていた。
「あなたは今、次の関門どころじゃない。階段でも崩れる」
道潤は床から視線を上げた。悔しさが喉の奥で硬くなる。だが怒りにはならなかった。怒っても膝は立たない。怒っても骨盤は戻らない。
「どうすればいい」
短い問いだった。
恩彩は映像を消した。次に、壁際へ置かれていた姿見を裏返し、プロジェクターの電源も落とした。画面が消えると、処置室は一気に狭くなった。道潤の目から、盗む対象が消えた。
「見る訓練は終わり。今日から、見ない」
彼女は包帯を細く折り、道潤の目に巻いた。
視界が黒く閉じた瞬間、道潤の頭の中へ、勝手に動きが浮かんだ。李偉の肘。エミルの腰。ンディアイの低い足。どれも鮮明で、どれも今の自分ではなかった。
「足裏だけ」
恩彩の声が前から来る。
「左足の親指。小指。踵。どこに重さがあるか言って」
道潤は答えようとして、分からないことに気づいた。痛みの位置は分かる。相手の動きなら思い出せる。だが自分の足裏の重さが、どこにあるのか分からない。
「外側」
「逃げてる。骨盤を戻して」
「戻すって、どこへ」
「真ん中。あなたの真ん中。誰かの構えじゃない」
道潤は奥歯を噛み、浮かんでくる技を一つずつ手放した。李偉の速さを捨てる。エミルの低さを捨てる。ンディアイの脚崩しを捨てる。残ったのは、痛む右膝と、床に触れている左足裏だけだった。
汗が背中を伝った。十秒立つだけで、試合より長く感じた。五秒目で骨盤が揺れ、七秒目で右膝が怖くなり、八秒目で肩が前へ出た。
「戻して」
恩彩の声がすぐに刺さる。
道潤は肩ではなく、足裏へ意識を落とした。左の親指が床を噛む。踵が遅れて沈む。骨盤がほんの少しだけ、逃げずに立った。
十秒。
恩彩は数を言わなかった。ただ包帯越しの闇の中で、道潤の足首に触れた。
「今のが、あなたの一歩目」
道潤は息を吐いた。勝った時の熱はなかった。代わりに、床の硬さがやけにはっきり分かった。
その夜、リハビリ室の明かりが落ちても、道潤はしばらく足裏の感覚を追い続けた。恩彩はカルテを手書きし、端末には何も残さなかった。ガラス窓の外は暗く、廊下には誰もいないように見えた。
だが窓の向こうで、黒い手袋が一つ上がった。
主催側の医療スタッフが、音もなくタブレットを構えていた。画面には道潤の名、右膝の模式図、そして恩彩の手書きカルテが拡大されている。
撮影音は鳴らなかった。
ただ、タブレットの右上に小さく表示された文字だけが、暗闇の中で白く浮かんだ。
『復帰予測データ、追加取得中』
崩れざる模倣者は闇の格闘巡礼で世界の達人技を喰らい尽くす
17話 震えるリストバンドの内側
次の話