数字が一秒減った。
十五時間五十八分。画面の白い数字は、それだけを淡々と告げていた。道潤は携帯電話を伏せなかった。見ていなければ時間が止まるわけではないと、身体のどこかがもう知っていた。
ミンジュンは机の前で固まっていた。雑巾を握る指が白くなり、視線は道潤の左手首に巻かれた革環から離れない。
「先輩、本当に行くんですか」
「病院へ寄る」
「答えになってません」
「道場を頼むと言った」
道潤の声は低かった。自分でも冷たく聞こえた。だが今、声に熱を乗せれば、電話の向こうの誰かに首輪を引かれる気がした。革環の硬い部分は脈の上にあり、皮膚越しに異物の重さを押しつけてくる。
彼は招待状と地図の切れ端を封筒に戻し、バッグの内ポケットへ入れた。革環は外さない。外せるのかどうかも試さなかった。試して外れなかった時、自分がどんな顔をするか見たくなかった。
「警察には」
ミンジュンが食い下がった。
「連絡するなら、病院の状況だけにしろ。招待状のことは、俺が港へ着くまで誰にも話すな」
「どうしてですか」
「次に回収されるのはバッグじゃないと言った。向こうは、俺たちが誰に話すかも見ているかもしれない」
ミンジュンは唇を噛んだ。納得ではない。恐怖と怒りを飲み込んだだけだった。道潤はその顔を見て、少しだけ息を吐いた。
「子どもたちには、館長が戻るまで休館だと伝えろ。保護者には俺から後で連絡する。病院から何かあれば、すぐに俺へ送れ」
「先輩は一人で行くつもりですか」
「一人のほうが、巻き込む人数が少ない」
そう言った瞬間、嘘だと思った。一人で行くほうが正しいからではない。誰かを連れていけば、自分が止まる理由にしてしまいそうだったからだ。
道潤はバッグを肩にかけ、道場を出た。夜明け前の空はまだ暗く、アスファルトには薄い湿気が残っていた。タクシーを呼ぶ指が、病院の番号を先に押していた。
仁川の病室は空港の医務室より静かだった。呉明植は白いベッドに移され、酸素マスクと点滴の管をつけたまま眠っていた。モニターの緑の線だけが、かろうじてこの身体がまだ戻ろうとしていることを示している。
道潤は椅子に座らなかった。ベッドの横に立ち、布団の外へ出ている呉の手を見下ろした。曲がった指。何千回も道潤の手首を取り、肩を落とせ、腰を抜くな、目で勝とうとするなと叩き込んできた指だった。
「館長」
返事はない。
「俺が行けば、向こうの思う通りかもしれません」
モニターの音が細く続いた。道潤は自分の左手首を見た。革環の下で脈が打っている。まるで自分の脈ではなく、別の機械に測られているようだった。
「でも、行かなければ、先生が何を掴んで戻ってきたのかもわからない」
口にして初めて、その言葉が自分の本心に近いとわかった。勝ちたいからではない。試したいからでもない。だが、怒りがないわけではなかった。呉をこんな姿にした誰かの喉元へ手を伸ばす想像は、胸の奥でまだ熱を持っている。
道潤は呉の手をそっと握った。医師に触れるなと言われた空港の夜から、まだ半日も経っていない。手の甲は冷たく、皮膚の下の力はほとんど感じられなかった。
「行ってもいいですか」
独り言に近かった。許可が欲しいのか、止めてほしいのか、自分でもわからなかった。呉なら短く言うはずだった。勝つために戦うな。崩れないために戦え。たぶん、それ以上は言わない。
返事はなかった。
道潤が手を離そうとした時、呉の人差し指がかすかに曲がった。
錯覚かと思った。モニターは変わらない。まぶたも唇も動かない。ただ、握った手の中で、指先だけが一度、小さく内側へ折れた。
道潤の喉が詰まった。
幼い頃、受け身を覚えられず、何度も首から落ちかけた日がある。呉は怒鳴らず、道潤の手首を取って床へ転がした。倒される瞬間、逃げようと目を見開いた道潤に、呉は指だけで合図した。
倒れる方向を、目ではなく身体で読め。
言葉より先に、手の中のわずかな圧で教えられた合図だった。今の震えは、その時と同じだった。行け、とも、やめろ、とも違う。倒れるなら、倒れる先を読め。そう言われた気がした。
「わかりました」
道潤は低く答えた。呉の手を布団の上へ戻し、深く頭を下げた。
病院を出ると、空は白み始めていた。携帯電話の数字は、十二時間を切っている。春川へ戻る時間はない。道潤はミンジュンへ短く電話を入れた。
「病院に着いたら、館長の様子を見てくれ。道場の鍵は事務机の二段目。子どもたちには休みだと伝えろ」
「先輩」
ミンジュンの声は眠っていない人間のかすれ方をしていた。
「館長は、何か言いましたか」
道潤は病院の自動ドアの前で足を止めた。言葉はなかった。だが何もなかったわけではない。
「手が動いた」
電話の向こうで息を呑む音がした。
「それだけですか」
「それだけで十分だ」
通話を切り、タクシー乗り場へ向かった時、柱の陰から一人の青年が歩き出てきた。ジャージの上に薄い上着を羽織り、目尻にはまだ薄い青痣が残っている。
パク・ジェミンだった。
「病院の前で待ち伏せか」
道潤が言うと、パクは鼻で笑った。だがいつもの挑発の濃さはなかった。
「お前が朝から血相変えて飛び出していくから、つい追ってきた。館長、やばいのか」
「意識がない」
パクの顔から笑いが消えた。彼は何か言いかけて、やめた。道潤の左手首に巻かれた革環を見つけ、眉を寄せる。
「それ、何だよ」
「説明してる時間はない」
「どこ行く」
「仁川港」
道潤が通り過ぎようとすると、パクが前に回った。ジムで鍛えた肩が道を塞ぐ。以前なら、その動きの癖を盗んで半歩で外していた。だが今は、そこに付き合う時間も気力もなかった。
「復讐しに行くのか」
言葉はまっすぐだった。道潤はすぐには答えられなかった。復讐。避けたい言葉だった。認めれば呉に叱られる気がしたし、否定すれば自分の中の熱を嘘で隠すことになる。
「違う」
と言おうとして、声が喉で止まった。
パクは視線を逸らさなかった。負けた時の屈辱をまだ抱えている目だったが、その奥に、別のものもあった。自分が知らない場所へ行こうとする人間への苛立ち。置いていかれる側の怒り。
道潤は短く息を吸った。
「探しに行く」
「何を」
「館長が、何に倒されたのか」
パクは黙った。しばらくして、道を空けた。
「戻ってきたら、リングでやれ」
「道場でなら受ける」
「逃げんなよ」
「生きて戻ったらな」
自分で言って、言葉の重さが遅れて胸に落ちた。パクもそれを聞き取ったらしく、口元を歪めたまま何も返さなかった。
仁川港北埠頭は、昼になっても冷たい風が吹いていた。コンテナの壁が積み上がり、巨大なクレーンが無言で首を動かしている。観光客のための港ではない。油と鉄と海水の匂いが混じり、作業員の声は遠くで短く途切れた。
指定された岸壁には、香港行きの貨物船が停泊していた。船体は灰色で、船名の塗装はところどころ剥げている。出航予定の掲示には普通の貨物便としての番号しかなかった。鉄環の紋章も、黒いスーツの男も見えない。それがかえって不自然だった。
道潤は受付の小窓で偽名の乗船許可証を受け取った。差し出したのは招待状ではなく、携帯に表示された無言のコードだった。係の男は画面を一度見ただけで、何も聞かずに通した。
甲板へ上がるタラップは錆びていた。足を踏み出すたび、金属が薄く鳴る。道潤は一段ごとに自分の重心を確かめた。呉の指が曲がった感触を思い出す。倒れる方向を身体で読め。港の風が上着の裾を引き、革環の下で脈が速くなった。
甲板に出た瞬間、携帯電話が震えた。
道潤は反射的に画面を見た。差出人はない。添付された動画が、彼の操作を待たずに再生され始めた。
薄暗い倉庫のような場所。狭い四角の線。画面中央に立つ細身の男が、両手を胸の前に置いている。字幕が一瞬だけ浮かんだ。
李偉(リー・ウェイ)。第一路対戦予定者。
次の瞬間、男の腕が消えた。いや、消えたように見えただけだった。拳、掌底、肘、また拳。すべてが同じ距離から飛び出しているのに、角度だけが毎回違う。道潤はいつものように肩の沈み、足首の向き、呼吸の切れ目を追おうとした。
だが追えなかった。
一撃目を目が捕まえた時には、二撃目はもう別の線にいた。三撃目を身体が記憶しようとした瞬間、四撃目はその記憶の外から入ってくる。見れば盗めるはずの動きが、見るほどほどけていった。
画面の奥で、李偉がわずかに顔を上げた。録画のはずなのに、こちらを見た気がした。道潤の指先が冷え、携帯を握る力が強くなる。パクを倒した時の甘い熱はどこにもなかった。あるのは、初めて足裏から上がってくる濃い恐怖だった。
動画の最後、李偉の拳が画面いっぱいに迫り、映像が黒く落ちた。すぐに白い文字が浮かぶ。
「真似て来い。そうすれば、一合で終わる」
その下で、出航の汽笛が低く鳴った。船体がゆっくり岸壁を離れ、道潤の背後で韓国の港が遠ざかり始めた。
崩れざる模倣者は闇の格闘巡礼で世界の達人技を喰らい尽くす
5話 油麻地、半灯の第一路
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