船が香港の岸壁へ着いた時、道潤の携帯の数字は一時間を切っていた。
仁川の港が背後へ消えてから、彼は甲板の隅で何度も李偉の映像を見返した。拳、掌底、肘。どれも同じ距離から出てくるのに、目で追った瞬間には別の線へ逃げている。動画を止め、戻し、肩の沈みだけを拾おうとしても、画面の中の李偉は一度も同じ入口を見せなかった。
それでも道潤は降りた。逃げるために船に乗ったわけではなかった。
油麻地の港湾倉庫街は、夜になっても眠っていなかった。表の通りにはフォークリフトの警告灯が回り、海水と油の匂いが低く溜まっている。指定された座標へ近づくほど、人の声は消え、代わりに薄い金属音だけが増えた。革環の硬い部分が脈の上を押し、歩くたびに皮膚の内側へ冷たい板を差し込まれるようだった。
倉庫番号の消えかけた扉の前に、黒い手袋をはめた男が立っていた。空港の男とは違う顔だったが、無表情さは同じだった。彼は道潤の左手首を一瞥し、何も言わずに扉を開いた。
熱と声が押し寄せた。
中は古びた倉庫だった。天井の高い鉄骨には裸電球が吊られ、剥がれた壁には湿気が黒く染みついている。だが床には貨物ではなく、人が詰まっていた。広東語、英語、韓国語、ロシア語らしい響き。低い賭け金のやり取り。笑い声。罵声。誰もが互いの肩越しに中央を見ている。
中央には狭い四角があった。リングロープもマットもない。床に黄色いテープが貼られただけの、逃げ場の少ない区画だった。四隅には判定員らしい黒手袋の進行係が立ち、観客席の代わりに積まれたコンテナの上には、小型カメラが隙間なく並んでいた。レンズは黒い目のように光り、まだ試合も始まっていない道潤の肩、膝、手首を静かに追っている。
『革環をつけた瞬間から、君は観測される』
道潤はその言葉を思い出し、左手をわずかに下げた。隠しても意味はない。むしろ隠そうとする動きまで拾われる。そう判断して、彼は革環をそのまま見せた。
「呉明植の代役」
進行係の一人が、韓国語でそう言った。発音は硬いが意味は通じた。
「韓道潤。第一路、出場確認」
「相手は」
「すぐ来る」
進行係はタブレットを操作し、道潤の足元を指した。黄色いテープの内側へ入れという意味だった。
道潤は四角の中へ足を踏み入れた。床はコンクリートで、わずかに湿っていた。靴底が一瞬だけ吸いつく。広くない。半歩詰めれば腕が届き、一歩下がればテープを踏む。ボクシングジムのリングでも、道場の畳でもない。近距離を強制する箱だった。
その向こう側から、細身の男が歩いてきた。
李偉は動画よりも静かに見えた。黒い稽古着の袖を肘の少し下で留め、両手を胸の前に置いている。肩は力んでいない。体格は大きくない。だが歩幅が小さすぎた。足裏が床を撫でるたび、体重がどこへ移ったのか一瞬見失う。
李偉はテープの境界で止まり、丁寧に右手を差し出した。
「来たね」
日本語でも韓国語でもない英語混じりの発音だったが、道潤には意味がわかった。李偉の目は穏やかで、賭博客の熱気から切り離されたように冷えていた。
道潤は差し出された手を見た。握手の形。だが指の角度は、触れた瞬間に手首を測る形でもあった。
「試合前の礼か」
「礼でもあり、確認でもある」
李偉は薄く笑った。道潤が迷うより早く、彼の手が軽く道潤の左手首に触れた。革環の結び目を指先でなぞり、留め具の噛み方を確かめる。
道潤の肩に力が入りかけた。
李偉は抵抗しなかった。軽く手を離し、まるで医師が脈を測り終えたようにうなずいた。
「古い結び方だ。呉明植が自分で締めたものではない。君が巻いた」
道潤は答えなかった。
「では、本当に弟子なのか。それとも、彼の荷物を拾っただけの若い男か」
観客の何人かが笑った。言葉がわからなくても、挑発の温度だけは伝わる。道潤は反応しなかった。返事をすれば、声の揺れまで拾われる。今は口ではなく、目を使うべきだった。
李偉の足を見る。
右足の踵がわずかに浮く。だが踏み込まない。左膝が内へ入る。だが腰は落ちない。両手は胸の前で静かに重なり、肘は外へ開かない。動画で見た連打の入口が、どこにもない。
『手ではない。足だ』
道潤は頭の中で切り替えた。拳を追えば遅れる。なら、床に残る圧だけを拾う。李偉が半歩進む前、どの指へ体重を乗せるのか。その順番だけを盗む。
李偉が左足を一寸だけずらした。
道潤も同じだけ、足裏の内側へ重さを移した。身体の中で、見たばかりの歩法が薄く形になる。前へ行くのではなく、中心線を消さずに近づく歩き方。肩が遅れ、肘が先に残る。初めての感覚ではあったが、再現できないほどではない。
コンテナの上のカメラが、かすかに角度を変えた。
李偉の口元が動いた。
「やはり、目は速い」
道潤はその言葉を聞き流した。褒め言葉ではない。速度を測られただけだ。彼はもう一度、李偉の足を見る。足幅、膝、腰、肩。パクのジャブを盗んだ時もそうだった。最初の沈みさえ捕まえれば、あとは身体が勝手に繋いだ。
李偉は右手を上げ、進行係へ顔を向けた。
「照明を半分だけ消してくれ」
倉庫の熱が一瞬だけ止まった。観客の声がざわつく。進行係は問い返さなかった。タブレットを二度叩く。
道潤は眉を動かさなかったが、腹の底が冷えた。光を消されれば、肩の沈みも足首の向きも見えにくくなる。だが完全な闇ではない。半分。つまり、見えるものと見えないものが混じる。
李偉は道潤を見たまま言った。
「君は見て真似る。なら、どこまで見えれば盗めるのか、知りたい」
「試合をするんじゃないのか」
道潤が初めて口を開くと、李偉は静かに首を傾けた。
「ここでは、どちらも同じだ」
その瞬間、天井の裸電球が半分消えた。倉庫の奥が暗く沈み、観客の顔が消える。中央の四角だけが、残った灯りに斜めから照らされた。李偉の片頬は白く、もう片頬は影になった。腕の輪郭が一部だけ欠け、足元の濡れた床に光の筋が細く残る。
コンテナの上で、小型カメラが一斉に動いた。
音はほとんどない。ただ無数のレンズが、絞りを狭めるように道潤へ向きを合わせる気配があった。天井近くの赤い点が、ひとつ、またひとつ点灯する。観客ではなく、道潤だけを見ている。左手首の革環、右肩の高さ、呼吸の間隔。すべてが数えられている。
道潤は一歩、足裏を床へ沈めた。逃げ場のない四角。半分だけ消えた照明。見えにくくなった足運び。相手は最初から、自分の模倣力を試すためにこの条件を選んでいる。
それでも、退く場所はなかった。
進行係が中央へ立ち、片手を上げた。周囲の賭博客が一斉に黙る。遠くで港のクレーンが軋む音だけがした。
「第一路。開始」
鐘が鳴った。
李偉の身体は、前へ出たように見えなかった。だが次の瞬間、拳があった。胸の前に置かれていたはずの右手が、道潤の鼻先六センチの位置までえぐり込んでいる。風が鼻骨を撫で、遅れて皮膚が冷たくなった。
道潤は反射で顎を引き、半歩だけ外した。拳は当たらない。だが避けたという手応えもない。李偉の足裏は、まだ床の同じ場所にあるように見えた。
『どこから来た』
道潤は視線を下げた。右足の母指球か。いや、左踵の抜きか。最初の沈みを捕まえれば、次は読める。彼は李偉の膝と足首を結ぶ線へ意識を固定した。
その刹那、李偉の手はもう一撃目ではなかった。
鼻先に残った拳が、戻らず、その場で軌道を折った。肘の角度が変わり、影の中から二撃目の掌底が、道潤の視線の外側へ滑り込んできた。
崩れざる模倣者は闇の格闘巡礼で世界の達人技を喰らい尽くす
6話 呉明植もこの角度で
次の話