掌底は視界の外から滑り込み、道潤の左頬をかすめた。
皮膚が裂けるほどではない。だが頬骨の奥へ、細い針を差し込まれたような痛みが残った。道潤は反射で李偉の手首を取りにいった。さっき見た角度。胸の前から伸び、戻らずに折れる肘。その形をそのまま写せば、掌底の根元を潰せる。
指が触れた瞬間、李偉の肘が半寸だけ短くなった。
いや、短くなったのではない。肩が抜け、前腕の見える長さだけが変わった。道潤の親指は手首の骨を捕まえるはずの位置を外れ、湿った空気だけを掴んだ。そこへ左の短い拳が胸骨へ入る。
「くっ」
息が潰れた。後ろへ下がる。だが一歩下がれば、黄色いテープはもう踵の下だった。狭い。リングの狭さそのものが、李偉の腕の一部になっている。
李偉は追ってこない。歩幅を合わせるだけだった。道潤が右足を引けば、同じだけ左足を進める。道潤が横へ逃げれば、半拍遅れるのではなく、同じ瞬間に中心線を置き直す。足裏が床を撫でるたび、道潤の背中はコンテナの壁へ近づいていった。
『足を盗め』
道潤は胸の痛みを無視し、李偉の足首へ視線を落とした。母指球、踵、膝の向き。最初の一歩を写す。相手の左足が床を噛む前に、自分の左足も同じ圧で沈める。
その瞬間、李偉の腰がねじれた。
同じ足で踏んだはずなのに、上体だけが別の線へ移っている。道潤の目が追った中心線は、もう空だった。影の側から肘が来る。道潤はかろうじて前腕を立てたが、衝撃は骨を通って肩まで抜けた。
観客が沸いた。
「偽物だ!」
誰かが韓国語で叫んだ。別の声が広東語で笑い、英語の罵声が重なる。呉明植の代役。荷物を拾っただけの若造。聞き取れた言葉も、聞き取れない言葉も、同じ意味で道潤の背中へ刺さった。
道潤は奥歯を噛んだ。怒りに引かれて前へ出そうになる右足を、無理に床へ押さえつける。勝つために戦うな。呉の声が、痛みより遅れて胸の奥で響いた。
李偉の右拳が来た。
今度は見えた。肩は沈まない。肘も開かない。拳だけが細い直線になる。道潤はパク・ジェミンから盗んだカウンターの拍子を引き出し、半歩外しながら右を合わせた。拳が交差する。道潤の拳は李偉の顎をかすめ、李偉の拳は道潤の鼻先を通り過ぎた。
外した。
そう思った瞬間、李偉の拳の先が戻った。戻ったのではなく、手首が内側へ折れ、第二関節の硬い部分が鼻骨の中心を叩いた。
鈍い音が頭蓋の中で鳴った。
視界が縦に割れた。李偉が二人に見える。左の影と右の光。そのどちらも、同じ穏やかな目をしていた。熱いものが鼻から落ち、上唇を濡らす。血の味が舌に触れた瞬間、道潤の呼吸は短くなった。
「目は速い」
李偉が近い距離で言った。
「だが、身体はまだ遅い」
道潤は返事の代わりに、落ちてくる左手を取った。合気道の手首返し。呉に何百回も取られ、何百回も外された形。親指の付け根を押し、肘の出口を塞ぐ。これなら近すぎる距離でも使える。
李偉の皮膚が掌の下で滑った。
汗ではない。力の流れる方向が、手首の中で変わった。道潤が外へ返そうとした瞬間、李偉は肘を引かずに肩を前へ出した。関節の逃げ道が逆になり、道潤の手首返しは形だけ残って力を失う。次の拳が脇腹へめり込んだ。
肺の下が縮んだ。膝が折れかける。道潤は倒れまいとして、右足を外へ開いた。だが床は湿っていた。靴底が半拍遅れ、身体だけが先に傾く。カメラの赤い点が、その遅れを待っていたように光った。
コンテナの上でレンズが回る。右膝、左肩、鼻血、呼吸。道潤が何を盗もうとして失敗したのかまで、冷たい目が拾っていた。
『見えたとおりに動けば間に合うはずだ』
その考えが、初めて崩れた。
目は拾っている。手首の角度も、足裏の圧も、肘の長さが変わる瞬間も、たしかに見えている。なのに身体がそこへ届かない。届いた頃には、李偉は次の線上に立っている。盗んだ動きは、道潤の中で組み上がる前に古くなっていた。
李偉は攻め急がなかった。むしろ道潤が息を吸う隙を待ち、そのわずかな膨らみへ短い直線を置いた。胸、肩、額。大きな打撃ではない。だが一つひとつが姿勢を削り、呼吸を細くしていく。
道潤は肘を閉じ、額を下げた。ボクシングのガードを借りる。そこから合気道の入り身へ繋ぐ。拳が来る線を外し、肩へ触れ、中心をずらす。
触れたと思った瞬間、李偉の足が道潤の足の外側にあった。
狭い四角の角へ誘導されていた。背中のすぐ後ろに、積まれたコンテナの冷たい壁がある。逃げ道は左右の半歩だけ。李偉はそこへ腕を置くように連打を並べた。拳が壁、掌底が柵、肘が蓋になる。
道潤は低く潜り、右で腹を狙った。パクから盗んだカウンターではなく、自分の道場で何度も教えた低い入り。相手を壊さず、崩すための角度。
李偉はそれさえ待っていた。
彼の膝が道潤の肩へ触れ、体重の入口を塞ぐ。続く短い拳が、また鼻の中心を貫いた。骨の奥で白い火花が散る。道潤の膝が今度こそ床へ落ちかけた。
「代役にもならないぞ!」
「呉明植は本当にこんなのを送ったのか!」
笑いが倉庫の鉄骨へぶつかって落ちてくる。道潤は片手を床へつきそうになり、必死で止めた。ここで手をつけば、終わる。そう思ったのに、身体はもう勝手に支えを探していた。
李偉の足音が近づいた。
攻撃の合間。ほんの一息分だけ、倉庫の音が遠くなった。道潤は血のせいで濡れた唇を開き、空気を吸おうとした。そこへ李偉が身を寄せ、観客にも拾えないほど低く囁いた。
「呉明植もこの角度で倒れた」
音が消えた。
道潤の中で、何かが切れた。胸に残っていた呉の声も、床を読む感覚も、相手を壊さない線も、全部が血の熱に押し流された。目の前の李偉の顔に、空港のベッドで青い唇をした呉の姿が重なる。
「お前が」
声が自分のものではないほど低く濁った。
李偉は答えなかった。ただ半歩、下がった。その半歩が誘いだと、道潤の目は理解していた。肩の角度も、足の置き方も、次の罠の入口を示していた。
それでも身体は止まらなかった。
道潤は防御を捨てた。鼻血を拭うことも、肘を畳むことも忘れ、ただ前へ突っ込んだ。李偉の胸倉を掴み、喉へ手を伸ばす。合気道でも、ボクシングでも、盗んだ詠春拳でもない。怒りだけで作られた、真っ直ぐすぎる突進だった。
コンテナの上のカメラが、一斉に寄った。
赤い点が増え、レンズの奥で何かが記録を始める。道潤の肩の震え。右足が床を蹴る遅れ。怒りで視野が狭くなった瞬間の瞳孔。李偉がどれほど扱いやすい獲物を作ったのか、リング上のすべての機械が余さず見ていた。
崩れざる模倣者は闇の格闘巡礼で世界の達人技を喰らい尽くす
7話 怒りに呑まれる道潤の突進
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