道潤には、もう自分を捉えるカメラの赤い点が見えていなかった。
見えていたのは、目前の李偉の喉だけだった。細い首筋。影に半分沈んだ顎。そこへ手をかければ、吐かせられる。呉明植の名を口にした理由も、あの人が倒れた角度も、全部。
「答えろ」
道潤の声は、血で濁っていた。右手が伸びる。肘は開き、顎は上がり、腹は無防備になった。呉に何度も直された悪い入り方だった。勝ちに行く時ほど、自分の中心を捨てるな。その声が遅れて胸の奥に浮かんだが、怒りの熱はそれを踏み潰した。
李偉の右拳が、道潤の肋骨の下へ入った。
重い一撃ではない。だが呼吸の隙間だけを正確に抜かれ、腹の中の空気が折れた。道潤は前へ倒れかける。そこへ左の掌底が額を押し戻した。視界が跳ね、鼻血が床へ落ちる。
それでも道潤は止まらない。
パク・ジェミンのジャブの拍子を引きずり出し、肩をわずかに沈めて右を返した。あの時、道場の畳で盗んだ短い直線。相手の拳の戻りへ重ねれば、顔面を打てる。道潤の拳は空気を裂いた。
李偉は顎を動かさず、首だけを半寸逃がした。
道潤の拳は頬の前を通り過ぎる。李偉の指がその手首に触れた瞬間、次の掌底が道潤の鼻を横から叩いた。骨の奥で音が割れる。道潤は歯を食いしばり、膝を落弱させなかった。
コンテナ上の小型カメラは、なおも道潤の動きを冷酷に追い続けていた。
レンズの内側で、道潤の右肩がわずかに震える。突進のたび、右足の着地が半拍遅れる。怒りで視野が狭くなるほど、彼は左側の影を捨てて正面だけを見る。そのすべてがリアルタイムで拡大され、赤い点滅の下で記録されていた。
道潤は李偉の腕を取った。
呉明植に何百回も掴まれ、何百回も叩き直された手首制圧。親指の付け根を押し、肘の出口を塞ぎ、肩を落として相手の中心を床へ向ける。子どもたちに教える時は、必ず言っていた。力で折るな。相手が倒れる道を作れ。
今の道潤の指には、その加減がなかった。
折ってでも止める。そんな力が先に入った。李偉は痛みの線に逆らわず、むしろ肩を抜いて道潤の力を前へ流した。道潤の腕が伸びきる。空いた脇へ短い拳が二つ入った。
一つ目で息が消え、二つ目で膝が揺れた。
道潤は倒れかけた身体を、無理やり回転させた。子ども稽古で毎日見せてきた受け身の入口。顎を引け。床を見るな。怖いものを見ようとすると、首から落ちる。自分の声が、かすかに耳の奥で響いた。
彼は肩を丸め、落ちる力を斜めへ逃がした。
完全な受け身ではなかった。怒りで硬くなった背中は、床の湿りをまともに受けた。それでも頭は守った。手のひらが床を打ち、身体が半分だけ転がる。すぐに足を立て、また前へ出る。
観客が吠えた。
倒れない若造への歓声ではない。壊れていく過程への歓声だった。倉庫の熱気は、試合の熱ではなく、誰かの内側が剥がされるのを見る興奮に変わっていた。
李偉は静かに構え直していた。
「まだ来るか」
道潤は答えなかった。唇から落ちた血を舌で拭い、低く踏み込む。今度はパクのジャブではない。道場の入り身。相手の中心線の外へ出て、肩をずらし、手首を取る。何度も教えた形。何度も呉に叩き込まれた形。
だが、怒りがそれを別物にしていた。
足が先に走り、腰が置き去りになる。右手は李偉の腕ではなく、喉へ伸びる。制圧ではない。問い詰めるための手。掴み、締め、声を奪ってでも答えを出させるための手だった。
李偉の膝が、道潤の腹をかすめた。
道潤は前のめりになりながら、左肘でそれを押し下げた。李偉の手がすぐ鼻先に来る。道潤は額で受けた。痛みが散る。構わず詰める。拳をもらうたび、胸の奥に呉の青い唇が浮かぶ。医務室の白い光。布団の外へ出た曲がった指。かすかに曲がった人差し指。
『館長をあんなふうにしたのは、お前なのか』
声に出したつもりだったが、喉からは荒い息しか出なかった。
李偉は一度だけ、道潤の目を正面から見た。
そこに嘲りはなかった。むしろ、観察を終えた研究者の静けさがあった。
道潤はその目が、さらに腹立たしかった。
「呉明植は、立っていた」
李偉が言った。
道潤の足が止まりかける。
「倒れる直前まで、自分の肩を壊さないようにしていた。君のように、全部を前へ投げ出してはいなかった」
「黙れ」
「黙らない」
李偉はまた半歩下がった。今度は間合いが少し広い。道潤の拳が届くには、もう一歩必要だった。その一歩を踏ませるための距離。
道潤は踏んだ。
右足が床を蹴る。湿った靴底が遅れる。だが怒りが、遅れを力で塗り潰した。肩が震え、背筋がこわばり、視野の端が黒く欠ける。李偉の喉だけが、残った。
カメラがさらに寄る。
赤い点が一列に並び、道潤の瞳孔を拾う。進行係のタブレットが青白く光り、観客席の影で誰かが短く数字を読み上げた。道潤には聞こえない。聞こえていたとしても、意味はなかった。
李偉が低く言った。
「今の君は、勝とうとする獣だ。館長が一番警戒していたのは、きっとそれだろう」
その言葉は、拳より深く入った。
一瞬だけ、道潤の中に春川の道場が戻った。夕方の畳。子どもが転んで泣きかけた時、呉が黙って雑巾を絞っていた背中。パクを伏せたあと、褒めるどころか提案書を破った手。勝つために戦うな。崩れないために戦え。
わかっていた。
わかっているからこそ、止まれなかった。
李偉が呉の名を知っている。呉が倒れた角度を知っている。なら、目の前の喉を掴めば、その奥から答えが出てくる。そんな幼い確信が、理性の最後の糸を切った。
道潤は叫ばずに踏み込んだ。
左手が伸びる。李偉の首へ。そこに、呉明植の首を絞めた何者かの影を重ねていた。医務室のベッドで呼吸を奪われた師の姿を、今この場で奪い返すように。
李偉の表情が消えた。
待っていたのは、手ではなかった。
道潤の指先が李偉の襟に触れる寸前、李偉の体が沈んだ。肩も腕も動かない。代わりに、膝だけが床から消えた。下から上へ、稲妻のように跳ね上がる。
顎の下に、硬い一点が入った。
音はなかった。世界が一瞬、真っ白になった。歯が噛み合い、首の後ろへ火が走り、足裏の感覚がまとめて剥がれた。
道潤の両足が、同時に床から浮いた。
その瞬間、コンテナ上の全カメラが同じ角度へ向き直り、赤い点が一斉に点滅した。落ちていく身体より先に、タブレットの画面へ新しい項目が浮かんだ。
『怒り誘発時、顎下膝蹴り反応。記録開始』
崩れざる模倣者は闇の格闘巡礼で世界の達人技を喰らい尽くす
8話 受け身が拾った勝利
次の話