レーダー画面の格子が、もう一度淡く光った。
イソは反射の周期を数えた。三秒弱で一回。ローバーのレーダー波にただ跳ね返しているだけなら、こんな間隔にはならない。砂の下の何かが、外からの信号を拾い、まだ返すだけの力を残している。
「ミンジェ、掘れる?」
「深度六メートルです。全部は無理です。ただ、ここは端が浅い。表面を剥がすだけならできます」
テソクがすぐに振り向いた。
「指揮部の確認を待つべきです。未登録構造物を発見。現地判断で接触する段階ではありません」
「接触しなければ、何かもわかりません」
「任務は補給路の確認です。未知施設の調査ではない」
イソは窓の外を見た。日没までの光は細くなり、赤い砂が低く流れている。帰れば安全という言葉は、この場所では半分しか意味を持たない。背後の居住膜には三日分の食料しかなく、前方には補給と、生体信号の座標が重なっている。
「ミンジェ、作業時間」
「十六分。外部ドリルを使います。前方軸に負荷はかけない」
ハリンが外気値を確認した。
「気温マイナス五十七。風は低い。作業者二名なら許容。ただし粉塵を吸着させないで。開口が出たら私が先に見る」
テソクは記録器へ向き直った。
「指揮部、探索隊より。ハン・イソが未登録反射体への表面掘削を指示。私は帰還および上部判断待機を進言」
返答はまだ来ない。片道遅延の数秒が、今回はイソたちの側にあった。
ミンジェは外部収納から小型ドリルと砂吸着シートを取り出した。包帯の右手は固定されたまま、左手だけでロックを外す。イソは補助ライトを構え、ハリンは容器と検査棒を抱えて降りた。テソクも遅れて外に出たが、彼の手は工具ではなく記録器に添えられていた。
砂の表面は硬く凍った膜のようだった。ミンジェがドリルの先を浅く当てると、赤い粒が乾いた煙になって跳ねた。吸着シートがそれを受け、黒い玄武岩片と細かな白い結晶を分けていく。数十センチ削ったところで、音が変わった。
甲高い摩擦音。金属だった。
「当たりました」
ミンジェはドリルを止め、残りの砂を手工具で払った。薄い赤土の下から、鈍い灰色の面が現れる。岩でもコンテナ外板でもない。細い継ぎ目が縦横に走り、表面には微細な傷と、古い熱変形の波が残っていた。
イソは膝をつき、ライトを近づけた。合金パネルの端に、剥がれかけた標識板が埋め込まれている。砂と酸化で半分消え、文字は断片だけになっていた。
《INTERNATIONAL JOINT...》
《MARS BIO...》
《NO UNAUTHORIZED ENTRY》
英語、中国語、韓国語、ロシア語らしい警告文が重なり、その下に薄く消えた地球の国際共同研究機構の紋章があった。夜明け号の公式地図にも、移住任務の事前資料にも、こんな施設は一行も載っていない。
ハリンが息を殺した。
「研究施設……」
「公式記録にない」
イソは端末の地図を開き、現在座標を重ねた。何もない。地形分類は古い砂丘と玄武岩露頭だけ。地下構造物のレイヤーにも、保護区域にも、危険物標識にも空白しかなかった。
テソクの声が硬くなった。
「即時帰還すべきです。これは補給任務の範囲を超えています。未登録施設なら、地球管制または指揮部の封印対象かもしれない」
「封印対象なら、なおさら誰が封印したかを確認します」
「ハン・イソ、これは命令違反として報告されます」
「報告してください。映像も残っている」
イソはパネルの脇へ手を伸ばした。小さな三角形のカバーがあり、劣化した樹脂が砂に噛んでいる。ミンジェが工具でこじると、内側から黒い端子が露出した。非常電力用の接続口だった。
「二十年前の規格です」ミンジェが言った。「でも接点は死んでない」
イソは計測プローブを差し込んだ。端末が一瞬沈黙し、微弱な緑の線を出した。
〇・八ボルト。断続。だがゼロではなかった。
「生きている」
その言葉は、彼女自身の予想より低く出た。死んだ施設ではない。眠っているだけだ。ダソムが避けた座標、地球管制安全監査局の黒塗り、ラオンが渡した《生態実験》。別々の断片が、この端子の細い電流へ一本ずつつながっていく。
テソクが一歩近づいた。
「電力を入れるな。指揮部の返答が来るまで待機です」
「待てば、返答は帰還命令になります」
「それが正規手順です」
「正規手順で、ここは二十年隠れていました」
イソはミンジェを見た。彼は一瞬だけテソクを見て、それから左手でローバーの補助電源ケーブルを引いた。
「短時間だけです。電圧を上げすぎると中が焼ける」
「扉のロックだけでいい」
ハリンはその間に、パネルの継ぎ目へ顔を寄せていた。入口らしい線の隙間に、白い塩分結晶が羽毛のように固着している。その奥には薄く半透明の膜があり、凍ってガラス片のようにひび割れていた。
「待って。採取する」
「ハリン、開ける前に?」
「開けたあとでは混ざる」
彼女の声はいつもの処置時の短さに戻っていた。小さなスクレーパーで結晶を削り、別の容器へ凍った膜の欠片を落とす。手つきは慎重だったが、止まらなかった。塩と有機物。火星の砂の下に、地球式の入口と、凍った有機フィルムが並んでいる。
「汚染の可能性は」
「両方ある。地球から持ち込まれたものか、ここで析出したものか、今は言えない。だから触る前に記録する」
テソクの通信機が鳴った。指揮部からの返答だった。
「探索隊、直ちに現場座標を保持し、内部進入を禁止。帰還準備に移れ。繰り返す、内部進入禁止」
テソクが勝ち誇ったように顔を上げる前に、ミンジェが補助電源を端子へ接続した。
「ミンジェ!」
「もう入ってます。三十秒」
パネルの下で、長く眠っていた機構が低く唸った。最初は砂が崩れる音かと思った。次に、合金の継ぎ目に沿って細い橙色の線が走った。イソのヘルメット内で警告が鳴る。外気圧差、粉塵流入、未知環境。
「全員、入口から半歩下がって」
ハリンが容器を密封し、ミンジェがケーブルを押さえ、テソクは記録器を持ったまま後退した。扉はすぐには開かなかった。砂と氷に噛まれた封印が、二十年分の抵抗を一つずつ外していく。金属がこすれ、白い塩の粉が暗い隙間から吹いた。
やがて、人一人が横になれば通れる程度の開口ができた。
内部は暗かった。ローバーのライトが入ると、短い前室と二重扉、壁の非常灯、床に積もった赤い粉塵が見えた。廃墟の臭いはヘルメット越しには届かない。それでもイソは、空気そのものが古い記録を抱えているように感じた。
ハリンが携帯分析器を隙間へ差し込んだ。
「内部大気、ほぼ低圧。二酸化炭素主体。水蒸気痕跡あり……待って」
画面に細い黄色の線が上がった。ハリンの声が一段低くなる。
「酸素残留痕。二十年前の地球式実験室基準に近い混合比の名残がある。完全な火星外気じゃない」
「誰かがここで空気を作っていた」
イソが言うと、ミンジェの喉が鳴った。
「無人施設じゃないんですか」
「無人でも、実験室は呼吸するように設計される」
イソは開口の奥を見つめた。胸ポケットの透明フィルムが、防護服越しに皮膚へ押しつけられている。《生態実験》。その単語はもう断片ではなかった。ここに入口があり、塩があり、有機フィルムがあり、二十年前の酸素が残っている。
前室の天井で、ひとつめの標識灯が灯った。橙色だった。続いて二つめ、三つめ。長い眠りから目を覚ますように、壁沿いの照明が奥へ奥へと連なっていく。消えかけた文字が、光を受けて少しずつ読める形へ戻った。
《ARES ECOLOGICAL MODULE 03》
その下に、日本語表示が遅れて浮かび上がる。
《アレス生態モジュール03》
イソは無意識にポケットの中のフィルムを握った。生態実験という文字が、手のひらの中で熱を持ったように感じられた。外はマイナス五十七度の火星で、目の前には二十年前に消された研究施設の入口が開いている。
その時、奥の二重扉の向こうで別の電源が入るように低く鳴った。
壁の端末に、古い白文字が一行だけ浮かぶ。
《封印区画、非常復帰を検知。培養室隔壁を再確認中》
ハリンの手が止まり、ミンジェが工具を握り直した。テソクが帰還命令を繰り返す前に、端末の次の行が点滅した。
《地下塩水層接続弁、閉鎖状態不明》
帰る船を燃やした朝、火星に憲章が生まれた
15話 封印された陽性反応の記録
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