端末の白文字が点滅したまま、前室の空気が薄く震えていた。
《地下塩水層接続弁、閉鎖状態不明》
イソはその一行から目を離さなかった。塩水層。地下。接続弁。二十年前の無人施設が、火星の深部へ何かをつないでいた。補給路の確認という任務は、もうとっくに別の場所へ踏み込んでいる。
「前室まで入ります。ハリン、汚染遮断。ミンジェ、電源は最低限。テソク、映像は切らないで」
「内部進入は禁止されています」
テソクの声は硬かった。だがイソは開口部の奥を見たまま答えた。
「ここまで開けた時点で、何も見なかったことにはできません」
ハリンが短く言った。
「入るなら順番を守る。靴底を吸着パッドへ。壁には触れない。粉塵を舞わせない」
テソクは一瞬だけ黙った。それから記録器を胸に固定し直し、指揮部へ報告した。
「探索隊、内部前室へ進入。私は命令違反として記録を継続」
イソは先に身をかがめ、狭い開口をくぐった。防護服の肩が合金の縁に触れないよう、ゆっくり進む。内側の床には赤い粉塵が薄く積もり、その下に白い塩の筋が何本も乾いていた。地球式の床材が火星の砂と混ざり、二十年の時間を一枚の層にしている。
前室の奥の二重扉は半分だけ開いていた。非常復帰で隔壁を再確認すると表示されていたが、実際には閉じ切っていない。ミンジェが端末を覗き込み、低く舌打ちした。
「駆動軸が固着してます。開いたというより、引っかかって止まっただけです」
「通れる?」
「一人ずつなら。戻る時に閉じる保証はありません」
ハリンが分析器を差し出した。
「粉塵中に有機残渣。濃度は低い。地球由来の培地成分と、塩化物。混ざり方が不自然」
イソはうなずき、二重扉の隙間を抜けた。
その先は培養室だった。
天井の照明は三本に一本しか点かず、残りは暗い管のまま垂れ下がっていた。壁際には透明な培養槽が並んでいる。いくつかは割れ、いくつかは内側から白く曇り、底には干からびた膜のようなものが縮んで貼りついていた。中央の作業台には自動記録装置の腕が折れたまま残り、細い針とカメラユニットが粉塵の中で固まっている。
人の死体はなかった。椅子も作業服もない。だが、誰かが急いで停止させた痕跡だけが、部屋中に散っていた。
「無人施設……にしては、装置が多すぎる」
ミンジェが壊れた記録装置を見下ろした。
「無人生態実験なら、観察装置が人の代わりをする」
イソは壁面の管理端末を探した。標準規格のラベルは古く、国際共同研究機構のコードが刻まれている。彼女は夜明け号の事前資料データベースを呼び出し、施設コードを照合した。
該当なし。
地図にもない。危険物台帳にもない。火星開拓前史の実験施設一覧にもない。公式開拓記録には、アレス生態モジュール03という名前が一行も存在しなかった。
「消されている」
イソが言うと、テソクが即座に返した。
「未登録情報を公式記録の欠落と断定するのは早い」
「施設名、機構紋章、多言語警告、酸素残留痕。偶然で埋まる空白ではありません」
ハリンは返事をせず、部屋の奥へ進んでいた。そこには水槽があった。人の背丈ほどの円筒形の槽が三基。どれも水はなく、透明壁の内側に白、薄茶、灰色の沈殿物が層を作って付着している。照明を当てると、年輪のように細い縞が浮かんだ。
「ハリン?」
「触らないで」
彼女の声は鋭かった。イソとミンジェが足を止める。
ハリンは水槽の壁に顔を近づけ、携帯顕微鏡の画像を手元端末へ送った。白い層の間に、黒い粒と薄い透明膜が繰り返し挟まっている。単に一度汚れたものが乾いた形ではない。
「これは汚染の跡じゃない。少なくとも、一回の事故でできたものではない」
「どういう意味ですか」
テソクが聞いた。
「塩水が入って、乾いて、また入っている。濃度も温度も変わっている。層の間隔が一定じゃないけど、長期の循環痕です。数十年単位で見たほうがいい」
ミンジェが小さく息を吸った。
「この施設、二十年前に封印されたんですよね」
「封印前から続いていた可能性もある。封印後に完全停止していなかった可能性もある」
ハリンは水槽の側面から、スクレーパーでごく薄く沈殿物を削り取った。白い粉はすぐに静電気で浮きかけ、彼女は吸着式の小瓶で受け止める。容器のふたが閉じる音が、乾いた部屋に小さく響いた。
イソは水槽の基部を見た。配管は床へ潜り、赤い粉塵の下でどこかへ続いている。端末に出ていた地下塩水層接続弁という言葉が、ただの警告ではなく、物理的な管としてそこにある。
「地球の水を循環させた実験じゃないのか」
テソクが言った。
ハリンは首を横に振った。
「断定しません。ただ、地球から持ち込んだ水槽なら、こんなに塩が変動し続ける理由が要る。しかも壁面の沈殿に、外部由来の鉄酸化物が混じっている。施設内だけで閉じた水ではない」
イソは床の配管を追うように視線を動かした。地下へ向かう線。火星の塩水層。予定着陸地の地下に並んだ微細生体信号。別々の名札を貼られていたものが、一つの同じ暗がりを指していた。
「中央サーバーはどこ」
「奥です。たぶん記録室」
ミンジェが壊れた天井標識を指した。矢印の先には、細い廊下が続いている。イソたちは粉塵を舞わせない速度で進んだ。途中の窓越しに、小型培養ポッドが並ぶ部屋が見えた。ポッドの中は黒く焦げ、いくつかは内圧で割れていた。自動記録装置の残骸が床に散り、記録媒体のケースだけが空のまま積まれている。
「持ち出された?」
イソがつぶやくと、テソクの記録器がまた赤く光った。
記録室の扉は開いていた。中には細長いサーバーラックが三列あり、半数以上が焼けている。壁の冷却管は破裂し、白い塩が氷柱のように垂れていた。中央の電源コアだけが、黒焦げの保護筒に包まれて残っている。
ミンジェは膝をつき、左手でパネルを外した。
「ひどいな。燃えたあとに凍って、また少し動いてます」
「生かせる?」
「普通は生かしません。短絡したら全部消えます」
「一覧だけでいい。最終報告の場所を探したい」
ミンジェはイソを見た。彼の防護ヘルメット越しの顔には、疲労と興奮が同時に浮かんでいた。
「三十秒じゃなく、今度は一分ください」
「安全側で」
「安全はありません。焼けてる電源を起こすんです」
テソクが前に出た。
「これ以上の操作は認められない。記録媒体を回収し、帰還後に指揮部で解析するべきです」
「帰還後には封印されます」
イソの声は低かった。
「それはあなたの推測です」
「この施設が地図から消えていることは推測ではありません」
ミンジェがローバーの補助電源パックを接続した。黒焦げの端子に仮設クリップを噛ませると、青白い火花が散った。ハリンが反射的にサンプル容器を抱え込む。サーバーラックの奥で、古いファンが一度だけ唸り、すぐに止まった。
「出力を下げて」
「下げたら起きません」
ミンジェは左手で二つのケーブルを押さえ、膝で電源パックを固定した。右手の包帯がわずかに動いたが、彼は使わなかった。二度目の火花のあと、中央端末に古い起動画面が浮かぶ。
《ARES-03 CENTRAL ARCHIVE》
《部分復帰》
《記録整合性、重大欠落》
イソは端末の前に立った。画面はちらつき、文字の半分が欠けている。彼女は検索窓に、ラオンが渡した断片と同じ語を入れた。
生態実験。
応答は遅かった。数秒ごとに画面が暗くなり、ミンジェがそのたびに電圧を微調整する。やがて、フォルダ一覧が現れた。
培養室管理。水循環。外部塩水層接続。自動記録。地球送信待機。最終報告。
イソは最終報告を開いた。
報告書の一覧は、ほとんどが壊れていた。項目名のあとに起動エラー、送信失敗、認証不一致、封印権限不足という言葉が並ぶ。実験責任者の名前らしき欄も黒い欠落で潰れている。地球へ送るために作られ、最後まで送れなかった報告の墓地だった。
「送信待機が残っています」
イソが言うと、テソクの声がさらに冷たくなった。
「そのデータは指揮部へ提出します。現場で内容を開示しないでください」
「もう読んでいます」
彼女はスクロールした。最初の報告は水循環異常。次は培養槽内圧上昇。次は自動記録装置三番の故障。途中から日付が飛び、文章は断片だけになる。
《地下試料、熱変動……》
《有機配列、再現性……》
《接続弁閉鎖後も圧力……》
《地球送信、拒否……》
イソの指が止まりかけた。ハリンが背後から画面を見つめ、息を詰める気配がした。ミンジェの電源パックは低い警告音を鳴らしている。それでもイソは最後までスクロールした。
一覧の末尾に、一行だけ、欠けていない項目があった。
日付は二十年前。分類は最終。送信状態は未送信。封印権限は、地球管制安全監査局。
件名だけが、異様なほど鮮明に残っていた。
《地下塩水層、生体反応陽性。封印処理》
イソはスクロールを止めた。
誰も声を出さなかった。培養室の壊れた水槽も、干上がった塩の層も、自動記録装置の折れた腕も、その一行へ向かって最初から並べられていたように見えた。
彼女は文章をもう一度読んだ。
地下塩水層、生体反応陽性。封印処理。
その瞬間、記録室の奥で、閉じていたはずの自動記録装置が一つだけ赤いランプを灯した。古い機械音が、二十年ぶりの観察を始めるように低く鳴った。
帰る船を燃やした朝、火星に憲章が生まれた
16話 補給砂丘下に脈打つ信号
次の話