《封印実行者:パク・ドヒョン》の赤い文字は、夜が明けるまで配給台の黒い画面に残り続けた。
誰もそれを消せなかった。消せば封印を認めたことになる。残せば、全員が誰に閉じられたのかを見続けることになる。イソは配給台を降りたあとも、中央居住膜の端で眠らずに座っていた。住民たちは毛布にくるまり、端末を握ったまま目を閉じていたが、眠っている者は少なかった。
火星の朝は、明るさより先に冷えで来る。膜の外側に赤い霜がつき、暖房管が低く鳴った。配給端末の列に最初の人影が並び始めた時、画面が白く瞬いた。
《タンパク質配給量、再算定》
《成人標準一食あたり、二十二グラムより十四グラムへ》
《医療補助食、優先区分再確認中》
一行目でざわめきが起き、二行目で息を呑む音に変わった。三行目が出た瞬間、列の後ろから患者家族の声が上がった。
「医療補助食って、削るってことか」
「昨日までの表と違うぞ」
「封印の次は食料かよ」
イソは立ち上がった。封印された生命反応データの鍵マークは消えないまま、配給表だけが勝手に更新されている。ラオンが通信盤から顔を上げ、赤い目をこすりもせずに言った。
「指揮部サーバー経由の自動再計算です。ただ、元データが変です。培養肉プリンターの生産予定が、今朝からほぼゼロ扱いになっています」
「ほぼ?」
「二号機だけ残っています。一号機と三号機は停止。二号機も残量予測が一回分です」
その時、食品工程区画から小柄な男が走ってきた。防護エプロンに白い培地の粉が乾き、髪にも同じ粉がついている。ノ・アミンだった。彼は食品工程技師として、緊急食料と培養肉プリンターを管理している。普段は配給列の前に出てこない。機械の裏で数字と培地を相手にする人間だった。
アミンは息を整える間もなく、イソとラオンの前に端末を突き出した。
「プリンターの酵素カートリッジが死にかけています。予定活性の四十六パーセント。今朝の再測定では四十二まで落ちました」
ラオンが画面を受け取り、眉をひそめた。
「交換期限まで、まだ二十日以上あったはずです」
「地球上の輸送保管条件なら、です」
アミンの声は細かったが、震えてはいなかった。機械に起きたことを説明する時だけ、彼は配給列の怒鳴り声にも押されなかった。
「着陸衝撃で冷却バルブが一度ねじれています。そのあと外縁膜の急冷、暖房コアの保護運転、隔離室の陰圧装置への電力振替。食品工程区画の温度は、標準範囲を小さく何度も外れました。酵素は一回の事故で壊れたんじゃありません。少しずつ、戻らない方向へ変質しました」
イソは端末のグラフを見た。温度の小さな山と谷が、何十本も連なっている。その下に、活性度の線が階段のように落ちていた。すぐに壊れたものではない。彼らが夜を越すために電力と熱を移し替えるたび、別の場所で食料の未来が削れていた。
「残りは?」
イソが聞くと、アミンは唇を結んだ。
「培養肉として出せるのは、二号機の最終バッチだけです。あとはタンパク質ジェルと乾燥豆、藻類粉末の残り。患者と重労働者を優先しても、標準配給なら十日もちません。削れば、数字の上では延びます。でも体が先に崩れます」
「だから医療補助食を削ったのか」
ミンジェが通路の向こうから低く言った。包帯を巻いた右手で壁を押さえ、険しい顔をしている。アミンは首を振った。
「僕が削ったんじゃありません。食品工程から出したのは全体不足の警告です。再配分は指揮部の優先順位表で走っています」
まるでその言葉を聞きつけたかのように、指揮部隔壁の前でドヒョンが姿を現した。短く刈った髪に眠りの跡はなく、顎だけが硬く動いていた。彼の後ろには警備員が二人、端末を持って立っている。
「配給表は指揮部が管理する。混乱を避けるため、詳細な工程異常は専門班内で処理する」
「もう表示されています」
イソは配給端末を指した。
「人々は減った量を見ています。理由を隠せば、昨日の封印と同じになります」
ドヒョンの視線が、黒い画面の鍵マークを一瞬だけかすめた。
「生命反応データと食料工程は別件だ」
「別ではありません。昨日、補給路と地下反応の情報を閉じました。今朝、次の配給が減った。住民にとっては同じ一つの現実です。何が起きているのかを公開しなければ、疑いだけが増えます」
「疑いではなく、パニックが増える」
ドヒョンは短く切った。
「培養肉が止まると言えば、列は保管庫へ向かう。患者家族は医療食を囲い、整備班は労働分を要求する。三百六十八名を食わせる計算は、叫び声で改善しない」
イソは反論しようとして、白い医療ベストが視界に入るのを見た。
ハリンだった。隔離室から出てからも容器と記録端末を抱えていた彼女は、今は薄い紙を一枚握っていた。顔色は悪い。だが足取りはまっすぐだった。彼女は配給台へ近づき、紙をイソの胸に押し付けた。
「医療補助食の削減順です」
イソは紙を開いた。最上段には、栄養維持が必要な低体温後遺症者と、感染リスクの高い傷病者が並んでいる。その横に、赤い小さな印がついていた。
「最初に削られている」
「数字上は一人あたりの削減幅が小さく見える。けれど患者の回復食を削れば、二日後には発熱、免疫低下、傷の悪化で医療側の負担が増える」
ハリンの声は平らだった。怒鳴らないぶん、紙の白さが刺さった。
「これは医療判断ではありません。配給表の空欄を埋めるために、弱いところから薄く削っている」
ドヒョンは彼女を見た。
「医療班の意見は受け取る。だが全体配給は全体生存のために調整する」
「全体という言葉で、先に倒れる人を見えなくしないでください」
通路が静まった。昨日まで地下反応に向けられていた恐怖が、今は皿の底へ降りてきている。火星の生命をどう扱うかという問いは、まだ大きすぎた。だが肉が減ることは、誰の胃にも同じようにわかった。
アミンが二号機の状態を確認するため、食品工程区画へ戻ろうとした。イソも続いた。ドヒョンが前に出る。
「ハン・イソ。今、全体に工程異常を流すことは認めない」
「封印命令より、食料状況の公開が優先です」
イソは足を止めずに言った。
「食料は統制対象だ」
「食料は生存条件です。生存条件を知らされない共同体は、命令に従っているのではなく、目隠しで歩かされているだけです」
「君は公開という言葉で責任を分散している。決める苦痛を群衆へ投げているだけだ」
その言葉に、イソは初めて振り向いた。
「違います。決める材料を奪われた人たちが、あとで結果だけを押し付けられることを拒んでいるんです」
ドヒョンの目が細くなった。警備員たちがわずかに身構える。だが、誰も前には出なかった。住民たちの視線が配給端末、アミンの端末、ハリンの紙、そしてドヒョンの指揮端末を行き来していたからだ。
食品工程区画の透明パネル越しに、培養肉プリンター二号機が見えた。薄い膜状の培地が積層され、淡い桃色の塊になるはずの槽だ。今は色が鈍く、表面が斑に黒ずんでいる。ノズルは動いているが、動きが重い。冷却ファンの音もかすれていた。
アミンが制御盤へ飛びついた。
「待ってください、まだ凝固前なら分離できる」
彼が排出を止めようとした瞬間、機械が低く唸った。表示灯が黄色から赤へ変わる。
《酵素反応停止》
《バッチ廃棄》
《二号機、保護停止へ移行》
「やめろ、まだ」
アミンの声が裏返った。
だがプリンターは聞かなかった。内部の押し出し板が最後に一度だけ動き、黒ずんだ培養肉の塊を排出口へ落とした。
ぐしゃり、という湿った音ではなかった。
凍った石を床へ落としたような、鈍く硬い音だった。
誰も息をしなかった。食品工程区画の白い床に、最後の培養肉が黒く固まって転がっていた。端末には、次の文字が静かに出た。
《生産可能タンパク質量:ゼロ》
機械は止まった。
イソは通路の壁を見た。そこには昨夜の騒ぎの前から貼られていた配給整理券が、番号順に並んでいる。子どものいる家族、外縁睡眠膜の老人、整備班、医療室の患者。薄い紙片はまだ次の配給を待つ列をなして、居住膜の壁にまっすぐ続いていた。
その列の最後尾で、誰かが小さく言った。
「じゃあ、次は何を食べるんだ」
答えられる者は、誰もいなかった。
帰る船を燃やした朝、火星に憲章が生まれた
22話 赤い脈へ向かう洞窟農場
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