赤い点は、イソの指先が署名欄に触れた位置と同じ高さで点滅していた。
総会場の壁面端末に映った外縁通路の断面図は、何度見ても現実感がなかった。洞窟入口、玄武岩層、番号のない空白領域。その奥で温度だけがゆっくり持ち上がっている。ローバー二号の現在位置を示す青い印は、まだクレーター下の坂を半分も越えていない。
「もう一度、時間を出して」
イソが言うと、ミンジェは端末を叩いた。
「ローバー二号、洞窟入口まで推定七十二分。中間地点まででも二十三分あります。熱封印装置の予熱ログ、出力三パーセント。周辺に影響を出す温度じゃない」
ラオンの声が通信越しにかすれた。
「観測線三のセンサー、異常自己診断なし。隣接線二と四も、遅れて同じ方向へ上がり始めています。誤検知ではありません」
セユンが農業端末を抱えたまま、壁へ一歩近づいた。背の高い体が補助記録灯の光を遮り、図面の上に細長い影が落ちる。
「外縁通路の奥が、十度台へ近づいている……。菌株K-四の最低生育温度に、ほとんど届く」
その言葉に、イソの胸の奥が強く鳴った。だが喜びではなかった。温度が上がるということは、何かがそこから漏れているということだ。火星側の変化を食料計画の数字へ変換するには、あまりに危うい距離だった。
ハリンは立ち上がり、サンプルケースを発言台に置いた。白い医療ベストの肩に、総会場の薄い照明が冷たく乗る。
「容器を開けます。開封ではなく、外部表示だけです」
彼女はケースの透明蓋を上げた。アレス03の密封サンプル容器は、冷たいガラスの内側に細い霜を残していた。その霜は前の夜と同じように、ただ凍りついているだけではなかった。見ている間にも、白い線の一部が薄くほどけ、別の場所でまた濃くなる。
「ラオン、容器内温度と観測線三を同じ画面へ」
「出します」
壁面端末が二分割される。左にサンプル容器の温度波形。右に洞窟観測線三、二、四の温度変化。最初は別々の山に見えた。ハリンが補正値を入れる。外壁遅延、センサー応答、容器内伝導のずれ。三つの線が少しずつ重なり、やがて同じ間隔で肩を上げた。
ハリンの声が低くなった。
「霜がほどけるリズムと一致します。完全ではない。でも、無関係とは言えない」
ミンジェが息を詰める。
「サンプルが洞窟の温度を先読みしている?」
「先読みではありません。同じ源に反応している可能性が高い」
ハリンは指を動かし、地質出力の層を重ねた。玄武岩の割れ目、塩水層へ向かう古い熱流路、外縁通路の奥に残る空白。そこに温度上昇点が重なる。
「自然廃熱です。玄武岩の隙間から、中心反応帯の熱が外側へ漏れています。火山活動というほど大きくない。けれど緩衝層の中で熱が逃げ道を持っている」
セユンが小さく口を開いた。
「廃熱……火星側の」
「そうです。だから危険でもあります」
ハリンはすぐに続けた。
「ここへ熱封印装置を入れれば、外側から焼くだけでは済まない。熱の逃げ道を逆に押し返す可能性があります。緩衝層の温度勾配が壊れたら、中心反応帯にどう伝わるか分かりません。消毒ではなく、熱衝撃になります」
総会場の空気がさらに重くなった。イソは赤い点を見つめたまま、頭の中で線を引き直した。
これまで足りなかったのは温度だった。居住膜の廃熱だけでは、外縁隔離農場の培養棚を安定させるには弱い。だからセユンは収量を低く見積もり、ミンジェは二重管に無理をさせ、ハリンは停止条件を厳しく置いた。
だが火星の側から、熱が来ている。
中心を焼かず、奥へ触れず、入口の外側に隔離区域を立てる。熱を奪うのではない。漏れてくるぶんだけを、触れないように受け止める。地面へ排水を落とさず、空気を奥へ流さず、棚を浮かせ、熱交換板を玄武岩の表面から離して置く。
図面が、彼女の中で一度に組み替わった。
『これは、使える』
その内心の言葉は、恐ろしくはっきりしていた。
イソは発言台に置いた端末を引き寄せ、第三案の温度項目を開いた。居住膜廃熱線の下に、新しい行を追加する。
《補助熱源:洞窟外縁自然廃熱。直接採熱禁止。空気混合禁止。非接触熱交換板を入口外側隔離区域へ設置》
ミンジェが画面を覗き込む。
「熱交換板を浮かせるんですか」
「床からも壁からも離す。支柱は居住膜側の骨組みに持たせる。火星側の亀裂へ荷重をかけない」
「材料は?」
「壊れた暖房パネルの背面板。伝導率は低いけど、直接触れさせないならその方がいい。回収管は二重。温度が上がりすぎたら、居住膜側へ逃がす」
ミンジェの表情が整備士のものに変わった。怒りも焦りも、一瞬だけ工具の位置を測る集中へ沈む。
「作れます。固定点をこっちに取れば、地面を打たなくていい。ただ、時間が要る」
「要る時間を出してください」
セユンがすぐに続けた。
「温度が十度台で安定するなら、K-四の培養棚を一列増やせます。初回収量はまだ低い。でも、五日目の薄層は中心部案の半分近くまで戻せるかもしれない」
ハリンが鋭く見る。
「増やすのは一列まで。排水処理が追いつかないなら削る」
「分かっています。不利な数字も残します」
セユンの声には、さっきまでとは違う震えがあった。恐怖だけではない。専門家が、現実に触れた時の震えだった。
イソはその震えを知っていた。設計者として、ごくまれに訪れる瞬間。紙の上で逃げていた線が、現実の地形と噛み合う瞬間。正しいかどうかではない。まだ検証は要る。反対も出る。失敗すれば責任は戻ってくる。
それでも、そこに道があると分かる瞬間だった。
「洞窟の中を消毒しない」
イソはゆっくり言った。
「入口の外側に、隔離区域を建てます。火星が外へ逃がしている熱だけを使う。火星地下へ触れない。人間の排水も、菌糸も、有機残渣も入れない。熱封印装置を止めれば、第三案はただの遅い案ではなくなります」
ラオンの通信が一瞬途切れ、すぐ戻った。
「今の文、記録しました。補助記録灯にも入っています」
その時、別の通信音が割り込んだ。鋭く、指揮部回線の音だった。壁面にローバー二号の車内映像が開く。赤い砂をかぶった前面カメラの端に、警備タグのついた硬い防護服が映った。イム・テソクだった。
「指揮部よりローバー二号へ。洞窟観測線の温度上昇を確認。予定変更なし。熱封印装置、到着後ただちに走査準備」
続いて、ドヒョンの低い声が入った。
「未確認の温度上昇は、洞窟内部汚染および熱反応不安定化の兆候として扱う。ローバー二号、任務を継続しろ。外部からの停止要求は受け付けない」
ハリンが発言台をつかんだ。
「逆です。今焼けば壊す可能性が高い」
「医療回線からの割り込みを禁じる」
ドヒョンの声は冷たかった。
「ハン・イソ。未承認案の拡散を続けるなら、生存指揮権違反として処理する」
総会場に沈黙が落ちた。空席ばかりの椅子が、まるで誰もこの決定に関わっていない証拠のように並んでいる。だがイソはもう、その空席を言い訳にできなかった。正式総会は開けない。議案棚も配給端末も封じられた。なら、残っている手続きで決めるしかない。
「ラオン」
「はい」
「全通信網を使って、緊急議決を招集します。公開総会ではありません。医療、農業、整備、配給、患者家族、高齢者介助、清掃、教育補助、それから抽選で十二名。決議項目は一つ。熱封印再開を停止し、外縁隔離菌糸農場案へ切り替えるかどうか」
ミンジェが振り向いた。
「指揮官が認めません」
「指揮官が先に、総会を通さず装置を動かしました。こちらは記録に残る議決を開きます」
イソは端末に自分の名を入力した。今度は署名欄ではない。招集者欄だった。
ハリンがその隣に名を入れた。セユンが続き、ミンジェも左手で乱れた署名を打ち込んだ。ラオンが通信の向こうで短く息を吸う。
「招集通知、作ります。拒否される前に、個人端末へ直接流します」
「文面は短く」
イソは赤い点を見た。温度は三・四度上昇。まだ続いている。
「火星由来の自然廃熱を確認。熱封印強行は緩衝層破壊の恐れ。緊急議決を開始。参加指定者は中央居住膜へ」
ラオンのキー音が走った。次の瞬間、総会場の壊れた端末、配給列の小さな表示器、医療室の壁、整備班の袖端末へ、同じ通知が一斉に放たれた。
だが同時に、ローバー二号の映像の隅で熱封印装置のランプが赤から白へ変わった。
《遠隔再開命令受理。走査準備まで、十五分》
イソはその数字を見たまま、空の総会場の発言台から顔を上げた。
「十五分で、票を集めます」
誰も返事をしなかった。返事の代わりに、居住膜のあちこちで端末の呼び出し音が鳴り始めた。
帰る船を燃やした朝、火星に憲章が生まれた
32話 一票差の外縁隔離案
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